呉地方総監部で行われた観桜会に参加した次の日は、
江田島の幹部学校での観桜会に参加しました。
呉から江田島まで地道を通っていくと1時間はかかりますが、
ちょうど良いフェリーの時間があればそれに乗ればあっという間です。
指定された時間にちょうど良いタイミングで便があり、
見ていると乗り込んでいくのはほとんどが観桜会の客のようでした。
わたしたちの前にいる車にも、見たことがある人が乗っています。
車に乗ったまま過ごせるフェリーは本当に楽です。
出航してしばらくすると車窓を通して自衛艦が見えました。
すぐさまカメラを掴んで外に飛び出すわたし(笑)
艦番号233は「あぶくま」型護衛艦のネームシップ「あぶくま」です。
特徴的なのは後部甲板のハープーンSSMミサイル。
出航したばかりで甲板にはたくさん乗員の姿が見えます。
出航してすぐ、右側に小さな、しかし何かいわくありげな島が見えてきます。
これ「大麗女島」といいまして、現在は海自の弾薬庫となっています。
海軍時代からこの島は燃料備蓄庫として使われていました。
レンガの建物もトンネルも旧海軍時代からの建造物です。
終戦間際には、ここで特殊潜航艇「咬龍」を地下で建造していたそうです。
手前の白い建物や構造物は海自が作ったものでしょう。
赤煉瓦の建物の後ろにちょっと見えている民家が興味を引きます。
小用港に上陸すれば、第一術科学校までは5分くらいで到着します。
前の車に続いて招待状をフロントガラス越しにヒラヒラ振りながら入っていくと、
車は何と大講堂の御車寄(画面右の建物前のスロープ)に誘導されました。
御車寄にはずらりとお迎えの方が並び、TOはその中を降りていきます。
わたしはTOを下ろすと、そのまま御車寄を通り抜けるように指示されました。
せっかく初めて車で御車寄に来れたというのに、運転しているがために
そこに颯爽と降り立つということができなかったのです。
江田島での、特に海軍軍人たちの「追体験」のようなことができるのが
何よりの楽しみだったわたしにとって、これはわずかに残念なことでした。
指定された場所に車を停めて御車寄まで一人で歩いていくと、
先日大講堂の見学をした時に見せていただいた二階の来賓室に通され、
お茶とともに本日の行程表を配られました。
これによると、本日は観桜会に先立って行われる構内の特別公開に
AからEまでのグループに分かれて案内されるのだそうです。
分厚い紙の束になっているのは、観桜会宴席での席順までちゃんと
印刷されているからです。
一つのグループはきっちり10人ずつとなっていて、
待っている間に皆が名刺交換大会となりました。
ツァーが始まり、大講堂の来賓室を出るとき、一人の自衛官が
紙に焼いた卒業式の写真を手渡してくれました。
二階のバルコニーから撮った写真で、確かにこの中にわたしもいます。
わざわざプリントしてくださるなんてありがたいことです。
さて、案内されて外に出ますと、大講堂脇の桜が何とか
7部咲きくらいに頑張って咲いていました。
実は前日の呉地方総監部の観桜会では、江田島から来られた方々に
「江田島は呉より桜がないんですよ」
と悲しい予告をいただいていたので、
こちらに関しては全く期待せずにやってきたのですが。
しかしこの大講堂脇の大木の桜は、候補生たちにとって
「恨みの桜」となってしまうんですね。
わたしたちの案内をしてくださったのは幹部候補生学校の
第2・3学生隊長(と言っても学生ではなく先生の立場)だったのですが、
構内ツァーの案内者が必ずここに来ていう、
「ここは学生が毎朝清掃し目立てをする場所なのですが、
桜の季節は落ちている花びらを一枚ずつ拾うところでもあります」
というお決まりのセリフがやっぱり出ました。
観桜会に招待されるような人々なら当然知っているだろうと思いきや、
中には陸自の総務課長、などという方もおられ、
「ほおお〜」
という驚きの声が上がっていました。
わたしはこの3月だけで3回目ですが、いつ聞いても何度聞いても、
この江田島の地にいることそのものが嬉しくて仕方がないので、
その都度初めて聴いたようなリアクションをすることにしています(笑)
戦後の十年間を除いて100年以上、毎朝この赤煉瓦前では
総員起こしに続く号令調整や体操、清掃などのために号令が響き渡ってきました。
わたしも江田島の一角で朝を迎えた日、遠くから風に乗って聞こえる
これらの秩序ある喧騒をしかとこの耳で捉え、「追体験」しました。
号令を毎日聞いているから松がまっすぐ伸びる、という解説もいつも通り。
今回の見学コースは、例えば3月初旬に体験したものを
「フルバージョン」、卒業式の時のを「ハーフバージョン」だとすると、
「ミニバージョン」となります。
大講堂は来賓室には行きましたが、正面扉は開いておらず、
内部の見学はありませんでした。
ちなみに各グループを案内し説明を行なったのは、
幹部候補生学校学生隊長、幹候機関科長、
第一術科学校学生隊長、幹部候補生学校機関科長、
砲術科長、航空用兵科長、通信科長、掃海機雷科長
つまり術科学校の先生たちです。
各先生たちは案内説明用のアンチョコ?を持って、
グループを率いて構内を回っておられましたが、如何せん
今まであまりやったことがない専門外のお仕事なので、先日の
術科学校長の説明というわけにはいかなかったかもしれません。
学生がつけた目立てもまだ消えていません。
候補生たちはまだ入校したところで、今日は下宿探し?に
出ているということを聞いたような気がします。
ツァーの中の候補生経験者が
「僕たちの時入校してから1ヶ月は外に出られんかったよ」
と言いだし一同はざわめきました。
赤煉瓦前ではもう先発のグループのツァーが到着しています。
同じツァーに大阪の防衛団体所属で顔見知りの女性がいました。
実はこの日、横須賀、舞鶴、そして江田島と観桜会が同時開催となり、
彼女の防衛団体で「偉い人」がそちらに行ってしまったので、
彼女は代表して江田島に来ることになったということでしたが、
とにかく緊張して来られたのだそうです。
で、わたしにいうには
「だからブログ前もって読んできたんやけど」
ブログってこのブログのことですか。
「なんでわざわざ(あんなの)読んでくるんですか」
「何にも知らんから勉強しよ思って」
うーん、で結局なんか役に立ちましたかね。
しかし、案内係の自衛官の方も、さりげに当ブログ主がわたしだと
確認もせずに決めつけて(ってその通りなんですけど)その前提で
フツーに会話をして来られたし、なんでみんなわかるんだろう。
ふ・し・ぎ〜(棒)
桜に錨の金のマークの下部の木造部分のペンキが剥げている事に気づきました。
確かにここは傷みやすい割に補修が大変そうだ。
幹部候補生学校の門標は、今年90歳になられる
最後の海軍兵学校生、七十七期に在籍された久邇国昭(くに・くにあき)氏が
昨年揮毫した文字を使って作られました。
入り口では当直士官が敬礼でお迎えしてくれます。
本日はホール両脇には行けないようになっていました。
ここを「モッくんロード」というとかなんとかの話は出ませんでしたが、
それはここで撮影が行われもっくんが歩いたからそう名付けられたわけです。
「坂の上の雲」では候補生時代のモッくん、じゃなくて秋山真之が
ここを歩いている事になっていましたが、実際秋山と広瀬らが候補生時代、
まだこの赤煉瓦の校舎はできておらず、それどころか養生中で、
当時の兵学校学生は「東京丸」という学習船で起居していたのです。
このとき聞いた説明も周知のこと(昔からのガラスとか金剛の床とか)
でしたが、ホール階段下から二階の校長室などの上に掛けられた
東郷平八郎の「制機先」(機先を制す)が踊り場の鏡に映って
このように見えることには今まで気がつきませんでした。
初めて来た人は、鏡があまりにも綺麗なので、鏡に思えず、
てっきり向こうに部屋があるように思った、と驚いています。
赤煉瓦のホールを通り抜けると、左側に「同期の桜」があります。
満開とはいきませんが、それでも美しく咲いた桜と赤煉瓦の組み合わせ、
夢にまで見た光景をわたしはこの日初めて目にすることができたのです。
しかもこの角度から写すと電気室が映り込まず、絵的にも最高です。
今や通り抜けるだけになった赤煉瓦後ろの教官室となっていた校舎。
昔ここで候補生が起居していた時代もあったそうですが、近々取り壊されます。
昭和16年ならではの木の扉など、それなりに価値があると思うのですが。
アメリカなら築100年くらいなら普通に壁を塗り直して使うレベルなんだけどな。
扉の前にあった謎の足跡。
教官室のあった校舎を通り抜けると、右側に
「もう一つの同期の桜」
があります。
前回も前々回もこちらの説明はなかったのですが、今回聞いたところ、
「同期の桜」に樹勢が似ているので「もう一つの」と言っているようです。
むしろこちらの桜の方が枝ぶりが堂々と立派で、しかもこの咲きぶり、
地面に着くほど垂れ下がった枝の先まで花が開いて見事です。
「同期の桜」と「もう一つの同期の桜」が咲いていたことで
今回ここにやってきた意味があったというものです。
続く。