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四月七日の父子桜〜第一術科学校春季広報行事 観桜会

2019-04-08 | 自衛隊

江田島・第一術科学校における観桜会のプレ・イベント、
校内見学が続いております。


幹部候補生にとってはいろんな意味で思い出深い(といわれる)
第3グラウンドを見ながら取り壊し予定の鉄筋コンクリ旧教官室と
教育参考館のビルの間の道を抜けてここまできました。

今日は時間がかかってしまうので教育参考館内の見学はありません。

今日は最初から最後まで建物を外から見学するツァーのようです。
ただし、一般には非公開となっているところも見せてしまおうという企画、
まずは教育参考館の山側にある水交館、旧海軍兵学校文庫館。

水交館はこの構内で最初となる1988年に建てられた最初の建物です。
赤煉瓦の生徒館や大講堂よりも古く、ここだけ建築様式が違い、
レンガの積み方が「フランス積み」(フランドル積みとも)となっています。

なんでも、学校とするべき敷地を養生している間、候補生はずっと
江田内に停泊した練習船「東京丸」で生活し訓練していたのですが、その間、
海軍将校たちが「陸」で暮らすためにここを作ったという話も聞きました。

大昔はここが「お車寄せ」として車が左から右に通過していたと思われます。

ファサード上部の丸い浮き輪のような彫刻が実におしゃれ。
内部は一階に応接室状の部屋が左右に分かれてあり、二階は
一昔前の奈良ホテルのような洋風の宿泊施設がやはり赤絨毯の廊下の
左右にいくつか(それぞれが独立してバストイレ付き)配置されています。

2年前の卒業式に彬子女王殿下がおいでになった際には、
ここで休憩をしていただいたということです。

宿泊施設なので、現在は将官が臨時官舎として利用することもあるようですが、
二階は一切非公開となっていて、一般人が見る機会はありません。

二本の木の左側に雨樋があるのがご覧になれますでしょうか。
この写真では分かりにくいですが、雨樋は赤煉瓦の部分壁に埋め込まれて
壁と面一(ツライチ)になっています。
上部にアーチを描く窓にも白いレンガを配してデザインポイントにしています。

この向こうは水交館の庭となっていて、洋風の建物の前に
灯篭を配した和風の庭の取り合わせが文明開化な感じです。
「坂の上の雲」で、秋山真之が結婚相手となる華族のお嬢さん(石原さとみ)
と初めて会う戦勝祝賀会のガーデンパーティのシーンで使われました。

そしてなんと、かつてはこの同じ場所で観桜会の祝宴も行われていたのだとか。

おそらくは水交館一階の奥にある広いキッチンがそのために使われ、
一階のフロアは公開されたこともあったのかもしれません。

「坂の上の雲」と同じ外での宴会、一度は出席してみたかったですが、
流石に最近は手狭となり室内で行うようになっているとのことでした。

かつては花見ゾーンであったところの芝生に、桜の苗木があるのに気がつきました。

「伊藤整一海軍大将手植えの桜」

と立て札があり、「第一術科学校長」と併記されています。

天一号作戦で戦艦「大和」に乗って特攻作戦に赴いた伊藤整一大将の
東京の家の庭に植わっていた桜、それはこの立て札にもあるように
かつて伊藤大将が自らの手で植えたものだったそうですが、
その桜が何年か前、有志の手によって江田島に移植されました。

教育参考館前にある桜には「父子桜(おやこざくら)」という名前が付けられており、
天一号作戦で出撃した伊藤中将(作戦時)と、出撃の際零戦で父の部隊を掩護した
長男の叡(あきら)中尉(兵学校72期卒)がいずれも学んだ海軍兵学校の庭に
この父子を偲ぶよすがとして植えられたものです。

それはともかく、父子桜は教育参考館の前のものだけと思っていたら
水交館の前庭にも植えられていたことにこの時初めて気がつきました。

 しかも気づくともう一本それらしい桜が・・・。
説明はないけどこれはまさに第三の父子桜。

昔ここに書くために一度調べたところによると、この桜は
杉並区にあった伊藤家の庭にあった樹齢80年になる桜の枝を
伊藤整一の故郷である福岡県みやま市の有志が苗木になるまで育て、
第一術科学校に寄贈したものです。

水交館からさらに坂道を上っていきます。
この左側の道を行ったところには、第一術科学校長の官舎があります。

そこはいかなるツァーでも基本民間人に公開されることはありません。

この桜が咲けばさぞ美しいでしょう。
この上には高松宮邸があり、かつては宮様が週末をそこで過ごすため
テニスコートが設えられていて、宮様は斜面に作られた階段を
コートまで降りてきていたという話を聞きました。

水交館の上には賜餐館(しさんかん)があります。
わたしがかつて国会図書館まで行って調べたところによると、
賜餐館は昭和11年、昭和天皇のご行啓のために建設されました。

天皇陛下は昭和11年10月27日、お召し艦「愛宕」でご行啓遊ばされ、
その際海軍兵学校で視察をされ、ここで休憩賜ったのです。

教育参考館の前に立たれる天皇陛下。
こんなに小さな写真でもどれが陛下かすぐにわかってしまうという。

こちらは呉ご到着の際民に向かって帽子をお振りになる陛下。

こちらは陛下を一目見ようと集まってきた呉の国民と海軍軍人たち。
女性もほとんどが黒の紋付を着て正装しているのがわかります。
時間かのご休憩のために賜餐館のような建物を建ててしまうくらいですから、
このご行啓のために、今では考えられないくらいの用意がなされたのでしょう。

ところでこの度の平成から令和への御代がわりにおける皇室行事を
質素に、という話がなんと当の皇室の方々から出てきている、
と聞いたのですが、いくらこのご行啓の頃と時代が違うからといって、
国の象徴である皇室の行事を節約するべきではないとわたしは思います。

必要以上に華美にする必要はありませんが、伝統に則って
それ相応の格式を備えた国柄にふさわしい儀式であるべきでしょう。

賜餐館の前からさらに上に上っていく石段、これは

高松宮記念館

に続いています。
賜餐館ができた時には当然ここより上に何もありませんでした。

ここ江田島の旧海軍兵学校でたった一つの和式建築、それが
当時兵学校に在学しておられた天皇陛下の弟宮であられる
高松宮殿下が週末の下宿としてご使用遊ばされたところの
高松宮記念館です。(もちろん当時はこう呼ばれてはいない)

皆さんは正面で説明を受けておられましたが、わたしは前回の見学で見られなかった
裏庭の写真をこっそり撮りに行きました。

昔は裏庭に池があったんですね。

見学ツァーはここまでで、グループはこの後山を降り、
教育参考館の道を隔てて反対側にある食堂に移動しました。

先日の幹部学校卒業式の午餐会が行われたのと同じ場所です。

会場に入る前に、二本の「父子桜」の横を通り過ぎることになります。
水交館の前の桜は一輪も咲いていませんでしたが、こちらは花をつけています。

関西から来られた「江田島初体験」の女性と案内係の自衛官に、
「父子桜」の由来を僭越ながら説明させていただいたところ、
感動した、というお言葉をいただきました。

ちなみにこれはわたしが海軍兵学校の同窓会に同行した平成26年の写真です。
今と違って周りは養生のために囲いで覆われており、幹も細いですね。

五年間で桜の苗木は色も濃く、「幹」と呼んでいい太さに育だったのがわかります。

 

第一術科学校に伊藤家の桜が贈られるきっかけになったのは
ノンフィクション作家中田整一氏の著書、

四月七日の桜 戦艦大和と伊藤整一の最後

という著書のなかで、中田氏が伊藤整一手植えの桜を
「父子桜」と呼んだことから始まっているらしいのですが、
わたしはこの日の花を付けていない「父子桜」を見て、
同著に書かれていたという、

「父子桜はいつも4月7日に花を咲かせている」

という言葉を思い出さずにはいられませんでした。

そして、咲いている場所によって花をつける時期が少しずつ違う
ここ江田島の桜の木の中で、やはり父子桜だけは
伊藤整一が「大和」艦長として出撃し、彼の息子が
それを掩護機から見送った4月7日に花をつけるのではないだろうか、
と思ったのですが、江田島のみなさん、今「父子桜」は満開ですか?

会場には卒業式の午餐会の時とは反対側の入り口から入って行きました。

観桜会が「春季広報行事」という説明付きであることを初めて知りました。

入ったところには今日が最後の任務となる第一術科学校長、
幹部学校長夫妻など学校側の偉い人たちが並んでお迎え。
その横にこのカラフルな手作りケーキも一緒にお迎えしてくれました。

「『平成最後の桜』という名前のケーキです」

いよいよ観桜会祝宴が始まりました。

 


まず最初に第一術科学校校長、中畑海将補がご挨拶。
壇上に上った途端、大きく両手を広げて元気いっぱい、

「みなさん、今日は!」

観桜会には少し桜の咲き具合が十分でないことを謝りつつも、
その分話に花を咲かせてください、とスピーチされました。

 

中畑海将補は3月31日をもって術科学校長を退職し、
4月1日から海将に昇任、同時に統合幕僚監部で運用部長の職に就かれました。

ご自身でおっしゃっていたことなのでここで書いても構わないと思うのですが、
統合幕僚監部の運用部長というのは、自衛官ならおそらくご存知のように、
とにかく大変な激務となること確定の配置なのだそうです。
その大変な任務に海将補は自ら手を挙げたということもこのとき伺いました。


ところで、統幕という言葉に馴染みのない方のために簡単に説明しておくと、
防衛大臣を補佐する制服組の組織であり、また文字通り陸海空の統合運用を行います。
その部署で任務を行う者を幕僚といい、旧陸海軍でいうところの「参謀」です。

その中で中畑海将が長を務める運用部というのは、文字通り陸海空自衛隊の運用に関すること、
その訓練の調整などを行うところですが、

運用第一課(防衛警備・防諜担当)
     カウンターインテリジェンス室
運用第二課(部隊運用・災害派遣担当)
運用第三課(統合訓練担当)

というこの隷下の組織を見てもお分かりのように、例えば大災害発生時、
自衛隊の部隊を派遣する中心となるのはこの部門です。


中畑校長はこの翌日離任され、江田島を去ることにになっていました。
この日、最後のお見送りをしたいという観桜会会場での声が多数あったためか、
帰りにはどこそこで朝早く離任式が行われる、というお知らせが
急遽印刷されて会場出口に置かれ、その人望の厚さを窺わせました。

わたしも飛行機が変更できるものならば、もう一日江田島にいて、帽振れで
新しい任地へと船出していく
海将補を見送らせていただきたかったです。



続く。