ネイビーブルーに恋をして

バーキン片手に靖國神社

帽振れ〜海上自衛隊幹部候補生学校 部内課程卒業式

2017-02-07 | 自衛隊

表桟橋。

この特別な言葉を毫も思い出さず、「埠頭」「船着場」
などと書いてしまったことを深くおわびします。

海軍兵学校時代から、ここで学んだ者は士官となるために
表桟橋を船出していくものである、つまり兵学校の門は
「裏門」であり、正門があるとすればそれは表桟橋である。

というようなことまで過去書いておきながら・・・。

 

さて、卒業生が敬礼しながら前を通り過ぎて行きました。
彼らは一番最後に、海自組織のトップである海幕長の敬礼を受けます。
そして内火艇(って今は言わないのかな)に乗り込み、そのまま
練習艦に乗り込んで江田島を後にするのです。

ところで、わたしのいた位置は比較的海幕長や海将、
その他ゲストなどに近かったので、列が通り過ぎ、
岸壁まで移動した時にはすでに彼らは乗り込んだ後でした。


卒業生家族は隊列が前を通り過ぎると、我が子の乗船を間近で見るために
一目散に我々が立っている後ろを通り抜けていきます。 

前にいた紳士は自分の後ろに小さい子供のいる家族がいるのに気づくと、
その家族を前に行かせ、
最前列に変わってあげていました。
やっぱりこういうシーンはご家族の方にちゃんと見せてあげたいものですよね。

場所を代わってもらった家族はこの人物が元海幕長だったことに気づいたかな?

 

内火艇が動き出しました。
波のない江田内ですが、直立している候補生達がよろめかないように
内火艇の操舵は細心の注意を払って行われるに違いありません。

岸壁の家族たちは早々と手を振りだしました。

「帽振れ!」

ここで掛け声がかかりました。

彼らを乗せた内火艇が向かうのはこれから乗り込む

「あさゆき」 JS Asayuki, DD-132

です。
「あさゆき」甲板にはSHヘリが搭載されていますね。
ヘリパイロットの候補生が乗艦するのでしょう。

表桟橋は自衛隊関係者以外立ち入り禁止になります。
帝国海軍の兵学校時代以来、この表桟橋で帽振れを行うのは
海軍大将と中将たる兵学校校長と決まっているのです。

 

呉地方総監の祝辞にも名前がでた、草鹿任一中将が在任中の
(昭和16年4月〜17年10月)卒業式において、
草鹿校長が表桟橋で70期の生徒を見送る動画が残されています。
(映画「勝利の礎」)

「帽振れ」を行う草鹿校長の眼は涙で潤んでいました。

70期の生徒たちは遠洋航海実習ではなく、各配置の軍艦等に
そのまま乗り込んだと言われています。


余談ですが、この時のクラスヘッドで恩賜の短剣を受けた
「伝説の天才」
平柳育郎生徒は、砲雷長として乗り組んだ
「文月」で被弾し、その後戦死しました。

当時ラバウルにいた草鹿中将は病院に駆けつけています。

文月砲術長平柳育郎中尉、胸部及腹部貫通銃創ニテ重症
入院後間モナク戦死シ 見舞二行キタル時ニハ
方二火葬場二送ラムトスル間際ナリシガ
拝礼ノ後副官ヲ九三九空二派シ 級友二通知セシム 
佐々木中尉直チニ病院二行キ 他ハ火葬場二集ル可ク信号セシ由ナリ 
彼レ七十期ノ首席トシテ晴レノ卒業式ノ光景 尚ホ記憶二新ナリ 
駆逐隊二於テモ 大ニ司令以下ノ信頼親愛ヲ受ケ居リシ由ナルニ惜ム可シ

 

ちなみに海幕長旗の横の人は江田島市長のようです。
きっとこの方も江田島で生まれ育ったと思うのですが、
島民の憧れであるこの行事に市長となって参加することは、
感無量だったのではないでしょうか。

 
今まで見てきた「帽振れ」はいずれも船の出港の時でしたが、
明らかにそれより長い時間行われています。

海保の帽子も、陸自の帽子も海自の白い帽子に混じって振られています。
練習艦は沖に三隻おり、候補生は表桟橋の両側から内火艇に乗って
それぞれ乗艦して行きます。 

昔もこうやって練習艦「八雲」などに乗り込んで行ったんですねえ・・・。


 

よく見ると、彼らを受け入れる艦の舷に人が整列しています。
午餐会に参加していた練習艦の艦長たちは準備のために
こう言って一足先に退出していきました。

「候補生諸君、船で待ってます」

「帽戻せ」

さて、表桟橋の一番前には、お立ち台があって、ここには
海上幕僚長と幹部学校校長が並んで立つことになっています。

桟橋の街灯の下に赤と緑のランプがあるのにご注目。
ご両人、いずれも黄色いストラップの双眼鏡を首にかけての観閲です。

海幕長「おー、こりゃよく見える・・・ん?」

校長「(あ、海幕長が使い出したから私も)」

校長「おーこれはよく見えますなあ」

海幕長「(・・ピントの調整どうやってするんだっけ)」

ちなみに海幕長も校長も艦艇出身ではありませんので、
今までのお仕事柄、双眼鏡を日常で使うことはあまりなかったはず。 

ということでこの瞬間を見ていたわたしの勝手な妄想です。 

続いて祝賀飛行が行われました。
まずはヘリSHー60K。

練習機 TC-90。

徳島航空基地にある202教育航空隊から飛来しています。

そしてPー3C対潜哨戒機。
こちらは鹿屋からでしょうか。
海自所有の各祝賀部隊には、江田島を候補生として卒業したパイロットが
乗り組んでいるということでした。

「まきなみ」の艦橋を見てください。
発光信号によるメッセージが送られてきています。

表桟橋に立っている海自の人って全員この信号を解読できるものなの?
(絶対にそうではないとわたしは予想) 

信号の発信時間は大変長く、長文でした。
終わったあと、アナウンスで信号で送られたメッセージを読み上げていましたが、
これは前もって知っていたのか、それともその場で信号を解読したのか
果たしてどちらだったのでしょうか。

そして、再び帽振れが始まりました。
「まきなみ」「あさゆき」「しまゆき」が出航です。
彼女らは候補生を乗せて、これから練習航海に出ます。

詳しい寄港先は忘れましたが、確かインドネシアまで行くということでした。

わたしの前にいた男の子はお母さんに言われて手を振っていました。
お父さんの乗った船が帰ってくるのは3月だということです。

 

呉での自衛隊行事でお見かけするアフリカ系の国の軍人さん。
卒業式典で名前を呼ばれた時には、日本語で

「はい、よろしくお願いします」

と返事をしていました。

江田内からは「まきなみ」先頭で出て行くようです。

続いて「あさゆき」。
村川海幕長、熱心に双眼鏡を覗いておられます。

現在舷側に整列しているのは幹部候補生でしょう。

内火艇が出発した時の「帽振れ」には、伝統に倣って

「蛍の光」

が奏楽されました。
海軍兵学校では「ロングサイン」と呼んでいたスコットランド民謡です。
正確には

「ラングサイン」( Auld Lang Syne)=久しき昔

で、Wikipediaの項には

大日本帝国海軍では「告別行進曲」もしくは
「ロングサイン」という題で海軍兵学校の卒業式典曲として使われた。

とあります。
そして、二度目の帽振れ、練習艦隊の出港に演奏された曲は

「錨を上げて 」“Anchors Aweigh”

でした。
アメリカ海軍の公式行進曲にもなっていて、
これだけは海軍兵学校時代にはあり得なかった選曲です。
平和って素晴らしいですね。

他には自衛隊の公式歌、「海をゆく」も演奏されました。 

まず旗艦の「まきなみ」が我々の前で艦首の方向を湾口に変えます。
 

続いて「あさゆき」が運動一旒とでもいうんでしょうか、
「まきなみ」の航跡に続いて行きます。 

続いて「しまゆき」。
こうして見ていると江田内は狭く感じますが、三隻の艦が
このように一列に並ぶのですから、見かけより大きいことがわかります。

海軍時代からこの湾は「江田内」と呼ばれていたようですが、
正式には「江田島湾」で、島をくりぬいたような湾内では
牡蠣の養殖などが行われ、カッターの練習などには絶好で、かつて
海軍が何が何でも兵学校をここに開校したかった理由が窺えます。

「しまゆき」は1999年に練習艦に転籍した元護衛艦で、wikiに

 2013年6月11日夜、関門海峡(下関市六連島沖)で対向してきた
自動車運搬船(2万6,651トン)に接近して衝突の危険があったと報道された。

とあったので、何!とその時の艦長の名前を見ると、昨年女性としては初めて
戦闘艦である「やまぎり」艦長となった防大40期の大谷美穂二佐でした。
大谷二佐の経歴にはこのことは書かれていないようです。 

こういうミスを起こした艦長は普通昇進が止まるものではないか、
などと素人は思うのですが、事故の件も昇進の件も、
所詮外野にはわからない事情があったのかもしれません。

 「しまゆき」が向きを変えてもうすぐ航跡が一直線になります。

わたしとしては、彼女らが江田内を出て行くまで見送りたいところですが、
ここで来賓に対しバス乗車するようにと声がかかりました。 

続く。(ええまだ続くのよ)

 

 

 

 

 


行進〜幹部候補生学校 部内課程卒業式

2017-02-07 | 自衛隊

皆様は海軍兵学校の卒業式で、「行進曲軍艦」の調べに乗せて
在校生と参列者、学校関係者の前を卒業していく少尉候補生たちが
敬礼しながら通り過ぎるシーンを映画などでご覧になったことがあるでしょうか。

以前ここでお話しした映画「海兵四号生徒」や「あゝ海軍」にもありましたし、
兵学校時代の白黒の写真にもその様子が残されています。

海軍の伝統を色濃く残す江田島、という言葉は、今回の卒業式の訓示や祝辞での
挨拶の中でも何度か使われた言葉ですが、江田島の旧海軍兵学校で行われる
第一術科学校の卒業式は、形式において昔のやり方そのままを踏襲しています。

大講堂での式次第に始まり、赤煉瓦から出て来る卒業生が「正面玄関」である
港まで一列になって行進していくのはまさに昔のままなのです。

式の後の午餐会が終われば、いよいよ行進、そして艀に分乗して
練習艦に乗り込むというのがこの日のクライマックスです。

それまでのわずかな時間、来賓はもう一度赤煉瓦の控え室に戻ることになりました。 


普段この入り口は使われることがなく、この日は異例だと聞いています。
ご存知かもしれませんが、ここには扉がありません。

最初に建てられた時から、 ある意図のもとにそうなっているのです。

正面玄関から入ったホールの右手。
大きな姿見があります。

この鏡は昭和の頃に海軍兵学校卒業生の会が贈呈したもので、
反対側の鏡には74期の期数が金文字で刻まれていました。 

ホール左側。
ここにも、廊下の突き当たりにも扉なし。


正面玄関も廊下の出入り口も、開けっ放しのまま。
風が吹けば風が、雨が降れば雨が吹き込んできます。

これには理由があります。

生徒館の建物は横に長いですが、これは兵学校がこれを
フネ(艦)に見立てているからであり、

「どんな気候状態にあっても常に対処できる」つまり、
「海の上でどんな気候にあっても心身が翻弄されない」
対処と心構えを教育機関の段階から身体に叩き込むためです。

なるほど、たとえ入り口から風が吹き込んでも、埃や塵が舞うことなど
床が常日頃からピカピカに磨き上げられていれば、ありえません。

というのは当ブログの過去ログからのコピーです(笑)

普段なら正面玄関から階段を登っていくということはあり得ませんが、
今日は特別なので、バスの到着が一緒になってしまった
自衛隊の偉い人と一緒に階段まで上ってしまったり・・・。

最初の踊り場で右と左の二手に分かれるという昔の形式の階段。
手すりは昔のままで、かつて海軍軍人たちがここで身だしなみを
チェックした鏡は、今でも自衛官たちの点検に使われています。

控え室の前の廊下から中庭に何かの記念樹があるので撮ってみました。
説明の看板足元にまで目立てをしたばかりの箒の跡があります。

拡大して読んで見たら、

日米安全保障条約改定50周年記念

〈平成22年度日米候補生交換見学行事〉

 2010・6・11

とありました。

安保条約改定からもう58年になるんですね・・。
当時安保で戦争になるとか言っていた人って、今息してる?

さて、時間になったので、担当の自衛官が迎えにきてくれ、
マイクロバスに乗り込んで埠頭に向かいました。
実質煉瓦館から歩いても大した距離ではないのですが、
来賓を歩かせるわけにはいかない!という自衛隊の気遣いでしょう。

兵学校の同期会の時に陸奥の砲塔などを見学した時と同じコースで
グラウンドの南側を回っていくようです。

江田内の海に面した古い校舎。
同期会で来た時もすでに使用されなくなって随分経っているようでしたが、
未だに放置されているようです。

わたしは古い建物ならなんでも保存してほしいと思いますが、
歴史的な価値がないと判断されたものは維持費も出ないので、
取り壊しを待っている状態なのかもしれません。

アメリカ人なら、そういう価値とは関係なく、一旦建てたものは
手を加えてずっと使い続けるものですが、日本はねえ・・。

修復するより立て替えた方が安くて早い、とかいう理由なんだったら嫌だなあ。

バスは陸奥の砲塔の前を通り過ぎ、ストップしました。

よく見ると、地面に名札が置かれ、立つ位置が指定されています。
おそるべし自衛隊。
来賓がここに並ぶのに混乱をきたさないように、立つ位置まで・・。

画面右のほうに飾緒をつけた何人かがいますが、
彼らは車でやって来る偉い人たちの副官です。

まさかと思ったら、わたしの立つところにも名札が置かれ、
位置についたらいつの間にか取り除けてありました。

立つ人の邪魔にならないように。
なんどもいうけど、おそるべし自衛隊。 

隊員家族の方々はこのラインの一番左、その右に見送りの自衛官、
来賓、そして自衛隊高級幹部などの順番に並びます。 

わたしはこの場所からお見送りをすることになりました。

軍楽隊・・・じゃなくって、呉音楽隊の位置も、おそらく
昔からここと決まっているのに違いありません。

指揮者はタクトを振り下ろす瞬間を逃すまいと、
ずっとこの姿勢で後ろをうかがっていました。

あー、なんかこの構図、見覚えがあるなあ。
イメージが白黒ではないので、映画のシーンだったかも・・・。

卒業生を見送る立ち位置には、向こうまで足元にラインが引かれていて、
自衛官の立っているところは特にぴしりと美しい直線になっています。 

儀仗隊の服装に身を固めた隊員が持つ海将旗を従えて、
村川海幕長が車から降りてこられました。

カッターのデリックの向こうには練習艦のシルエットが見えます。 

そして、いよいよ行進曲「軍艦」の演奏が始まりました。
それにしてもこの日の天気の良かったこと。

ネタで取り上げましたが、「呉とわたし」の取り合わせには雨が多く、
もし今回わたしのせいで
この晴れの日に雨が降ったらどうしよう、
と内心気にしていたのですが、
さすがにこの旅立ちの日には、
人々の希望とあつい思いが雨雲を遠ざけるようです。 

卒業生が出て来たのは赤煉瓦と白い術科学校校舎の間からでした。
てっきり赤煉瓦から出て来るものと思っていたのですが・・・。 

グラウンドと術科学校の間の砂の道。
ここはまっすぐ船着場へと歩いていけるように、芝がカットされています。
海軍兵学校時代から卒業生たちが行進し、海へと旅立って行った同じ道です。

ふと気づくと、グラウンドの南側を、四人の自衛官が歩いていました。
卒業行進とは全く関係なく移動しているだけなのですが、
四人の足取りは完璧に行進曲と合っていました(笑)

自衛官が何人かで歩くと行進のテンポでいつのまにか歩調が揃っている、
という噂は本当なのだろうなとこれを見て確信しました。

卒業生の列は国旗の前を通り過ぎていきます。

敬礼しつつ、まず家族の前を行く卒業生たち。 

全く列に並んでいない一般人もいるのですが、どういう人たちでしょうか。

左手にはネイビーブルーの卒業証書の筒を持ち、右手で敬礼。

在校生の前をゆく卒業生。
敬礼で見送る列の中に知り合いを見つけて思わず頬が緩みます。

今見送っている在校生は、来月には同じようにここを旅立ってゆく
防衛大卒の候補生たちのはずです。
 

一人一人の目を見ながら通り過ぎることを、卒業生は義務付けられているようです。
ところで、この写真を見てわたしはあることに気がつきました。

制服が違う在校生がいます。(左から二人目も?)
三月には防大と一般大を卒業した候補生の卒業式が行われるのですが、

「その時には留学生もいるので来賓の数は今日より多い」

と聞いたばかりでした。
なるほど、彼がその留学生の一人なのかもしれません。 

卒業生の隊列がいよいよ近づいて来ました。
わたしはこの写真を最後に撮影するのをやめ、カメラを下ろして
拍手でお見送りに専念することにしました。

そしてできるだけ皆の顔をしっかりと見て、激励の気持ちを込めました。

敬礼をしながら歩く卒業生の何人かはほんのりと眼を赤くしています。
ただでさえ「行進する海軍軍人」に滅法弱いわたし、これを見て
ついつい涙腺が決壊しそうになりました。

 

列の最後に歩いて来たのは、三人の女子候補生たちでした。
彼女たちの眼も潤んでいます。

「がんばって」

思わず口をついて出た言葉に、最後尾の候補生は
小さな声で、しかしはっきりと

「はい」

と返事をして前を往き過ぎました。

 

続く。

 


午餐会〜幹部候補生学校部内課程卒業式

2017-02-05 | 自衛隊

江田島の海上自衛隊幹部候補生学校、部内課程卒業式、
卒業証書授与が滞りなく全員に行われました。 

優等賞状授与の後は、

「水交会激励賞」

が水交会専務理事である元海幕長赤星慶治氏によって渡されました。

幹部候補生学校校長の副官は、証書授与の間中横に控えて
一枚ずつ証書を校長に手渡す役目を行なっていましたが、
終了した後の壇上のお片づけも任務です。
彼の一挙一動は満場の注目を集めておりました。 

海自の副官は仕える将個人ではなく、その役職に配置されます。
つまり自分の任期中にボスが代わるということも制度上ありうるのですが、
将の任務の事務やスケジュール調整、面会する相手への連絡など、
マネージャー的な用務を一切取り仕切るという立場上、
その逆(将の任期中に副官が交代する)というのはないと思われます。 

続いて真殿海将補による校長先生式辞。
真殿校長の胸に航空徽章があるのに気がつきました。

前職は八戸の第二航空群司令でいらしたということです。 

村川海上幕僚長による訓示。

ここ呉の経理課長に始まって人事教育部、経理部長、総務課長、
補給本部長と一貫して経理補給畑を歩んできた初の幕僚長です。

呉地方総監池太郎海将。

ここからは「来賓の祝辞」ということになろうかと思います。
池地方総監の「愚直たれ」については当ブログでも取り上げましたが、
この日の壇上においても愚直に、この言葉を繰り返しておられました。

前回ご紹介した写真集「伝統の継承」の前書きには

伝統精神の真髄とするところは「真の正直」である
心に偽りのない徹底した正直者こそが真に強い自衛官であり、
真の勇者になりうる

と書かれていますが、これも池海将が好んで取り上げるもので、
草鹿仁一中将が兵学校校長時代に生徒に向かって語りかけた

軍人として職責のために絶対必要なものは何か
心に嘘偽りがあって迷いがあれば戦いに勝つことはできない
海軍の敢闘精神とは真の正直であることである
正直者こそが真のリーダーになる

という言葉からの引用です。

続いて江田島市長明岳(あきおか)周作氏。
12月に就任したばかりの新市長です。
ちなみに投票率は 68.62%で、当選票数は5976票だったとか。

グレーゾーンなどという言葉を使い、日本が置かれている防衛的現状についての
懸念を市長クラスの政治家がこのような挨拶で述べるのを初めて聞いた気がします。

江田島は、昔から兵学校とともに発展し、ともに生きてきた町です。

「今日ここを巣立っても、何度でもまた江田島の地に帰ってきてください」

市長はこんな言葉で挨拶を締めくくられました。

というところで閉式と相成りました。
来賓の方々の控え室は実は舞台裏にあったことが判明。

卒業生をコの字で囲むように家族が座っています。
家族席には小さな子供がちらほら見られましたが、式典の間、
結構長い時間、子供がぐずる泣き声が響き渡っていました(笑)

おそらく当のお母さんはその間いたたまれなかったと思いますが、
わたしと同行者はむしろ

「家族持ちの多い部内選抜の卒業式らしくていい」

と後で言い合ったくらいです。
それより、マスクせず手で覆わずに咳をしていた人の方が顰蹙だったかな。

式典が終わり、わたしたちは音楽隊が退場した階段(正面から見て右)
を降りて大講堂を後にしました。

講堂の裏階段踊り場天井の照明器具はしゃれていますが、
改装の時に取り替えられた現代の製品のようです。

おそらくこんな写真をわざわざアップするのは当ブログだけ・・
であろうと信じ、あえて撮った階段の上からの一枚。


 

大講堂を出ると、マイクロバスがお迎えに来ていました。
今から昼食会の会場まで移動です。 

大講堂をでて右側にずずーいと曲がっていく道は、
さすがのわたしもこのとき初めて知りました。

建物の入り口が近づいてくると、セーラー服も凛々しい海士たちが
護衛のように立っているのが見えて来ます。

こんなことのために(?)わざわざ正装して待機しているなんて・・(感激) 

会場の入り口から見える斜面に何か石碑があるのを発見したわたしは、
とりあえず後で読もうと写真だけ撮っておきました。

應谷山教法寺跡、とあります。

昔江田島のこの一帯は本浦と呼ばれる大きな干拓地でした。 
今でも古鷹山山麓、旧海軍兵学校を見下ろす地に、
浄土真宗本願寺派應谷山教法寺があります。

寛永12年(1635年)に開山した寺ですが、かつては現在地から
南西に400mばかり下がった位置、つまりここにあって、
当時の広大な境内には、五百人は収容できる大本堂を有していました。 

ところが、建立4年後の明治19年、突然の海軍兵学校江田島移転によって、
寺は立ち退きをせまられることになってしまったのです。

今なら考えられませんが、当時はお上の言うことには何人たりとも逆らえません。
海軍省の通知によって有無もなく、應谷寺はわずか25日の間に
すべての伽藍を解体し、更地として開け渡すことを余儀なくされたのです。

ここに石碑を作ったのは、せめてもの謝罪の気持ちからだったでしょうか。

会場入口となっている建物のロビーで目を引く立派な額。

「櫻花爛漫、か・・・・」

近くにいた男性がつぶやきました。
書道に詳しくないわたしにも、その天衣無縫な筆跡が
只者ではない書家の手によるものだと言うことだけわかります。 

風に吹かれ 空に舞い 海に散り 波に漂ふ

燃えたつ魂と さくら花を抱いた 

愛しき人と いつか会いまみえん この天地にて

白光 書

 

この内容から書いたのは女性ではないかと思ったのですが、
調べてみるとどうやらこれは

柏木白光(かしわぎ びゃっこう)

と言う女性書家の作品のようです。 
白光さんは護国寺や靖国神社のためにも書を書いておられます。

 

エントランスからわたしたちは昼食会会場の4階に移動しました。
ご存知かもしれませんが、自衛隊の建物には一般的にエレベーターはありません。
・・・まあどこかに一つくらいはあるのかもしれませんが、
4階くらいなら司令官であろうが校長であろうが、普通に歩いて登るからです。

靖国神社の本殿もこの度バリアフリー化でエレベーターをつける、
(ので寄付をお願いします)と通知がありましたが、
基本自衛隊には足腰が弱く階段も登れない人は来ない、
という前提で昔も今もやっておりますので、会場の4階まで
階段を登れと言われてびっくりした中高年もいたことでしょう。

・・・あれ?ベビーカーも見たけど、隊員が持ってくれたのかな?

広い会場(多分いつもは学生の食堂)の大体の場所にエスコートの
自衛官が連れて行ってくれますが、あとは自力で
お弁当に書かれた自分の名前を探して座ります。 

将官も来賓も、卒業生とその家族も等しく同じお弁当をいただきます。

我が子や夫の晴れ姿を見るために全国からやって来た家族と
卒業生は前日に水入らずで語らうことができたと聞きました。

卒業生が入って来ましたが、各自が自分の家族と一緒に
テーブルに着くことができるように配置されていたようです。 

国旗と海上自衛隊旗の前には海幕長や海将、向かいにも
ずらっと卒業生が並んでいましたが、この人たちは
なぜ家族と一緒ではないのでしょうか。

もしかしたら、成績優秀者とか?

ただ、上司(しかも一般の会社でいうと社長と重役たちに当たる)
と至近距離で向かい合ってご飯を食べねばならないというのも、
なかなか緊張するというか、大変なことではないかと思われます。

お弁当はお赤飯付き。
乾杯はお茶で行われましたが、向かいの方(酒飲み)は

「味が濃いのでお酒が欲しくなるなあ」

学生長が挨拶を行いました。
体力徽章バッジホルダーの・・・パイロットかな?

わたしはこの写真で初めて彼らの袖章が一般の自衛官と違い、
一本線に錨のマークがあるのに気がつきました。 

爽やかに話し始めたのは良かったのですが
だんだん言葉と言葉の間のタメが大きくなり、ついに

「失礼します!」

とペーパーを取り出して読み始めたのはギャップ萌えでした。

さて、和やかなうちに会食が終了し、卒業生の出発までの間、
元の控え室でしばし休憩ということになりました。

再びバスに乗ると、左回りで赤煉瓦まで移動していきます。
というわけで教育参考館横の特殊潜航艇前を通り過ぎているところ。

同じところで昼食を食べていた卒業生家族は看板を先頭に移動しています。
直接見送りの列に並ぶのかもしれません。

 

左回りで生徒館正面まで来ると、ここには海曹が整列していました。
各々が案内する受け持ちの来客を待っているのです。

バスは生徒館正面入り口のギリギリのところに突っ込む形で停車。
しばしの休憩ののち、いよいよ卒業生の練習艦乗艦を見送る恒例の行事が始まります。

 

続く。


幹部候補生学校部内課程卒業式 於江田島・第一術科学校

2017-02-03 | 自衛隊

江田島で行われた部内課程の卒業式についてお話ししています。
ところで前回アップするのを忘れたので控え室の写真を。 

何年か前の大改装の後、室内も完全に改築されてかつてを彷彿とするものは
もう何も残っていませんが、教室の中央に掲げられた

「五省」

一、至誠に悖るなかりしか

一、言行に恥ずるなかりしか

一、氣力に缺くるなかりしか

一、努力に憾みなかりしか

一、不精に亘るなかりしか

という額は昔から変わることがありません。

ところでこれを自分に問いかけた場合、後半に行くに従って
わたしは極端に自信がなくなるわけですが、それはともかく、

ご存知のように、これは海軍時代からの海軍軍人の「クレド」で、
海上自衛隊が今でも受け継いでいる隊員の精神的支柱でもあります。

 

受け継ぐといえば、わたしは先日このような冊子をいただきました。

昨年暮れに、防衛団体の会合で現幹部学校校長の海将補が
兵学校から現在の幹部候補生学校までの江田島の歴史について講話されたのが、
今回わたしが出席をするきっかけになったのですが、この写真集はまさに、
「江田島今昔」というべき海軍時代と現代の接点に焦点を当てています。

これがよくできてるんですよ。

左ページに海軍兵学校時代の写真(真継不二夫氏の作品)、
右側に現在の写真をできるだけ同じ構図で並べて
どのようにその伝統が受け継がれているかが一目瞭然。
 

皆で食事をしている写真と並べて昔と今のメニューが比べられたり、
実習訓練の測距や航空機の前での同じような構図のスナップを並べたり。

「無断転載を禁ず」

とあるので中身をご紹介できないのが残念ですが、
構成の妙で読み物として大変惹きつけられるだけでなく、現在の海自で
伝統の継承がどのように行われているかを知る絶好の資料となっています。

実はこの写真集、2013年に幹部候補生のための教育資料として
当時の幹部学校校長が作成したものなのですが、
卒業式出席に際して、今回特別に数冊いただきました。

せっかくですので、是非欲しいという方、先着3名に差し上げます。
ご希望の方はコメント欄でお申し込みください。

以上事務連絡でした。

 

さて、わたしのように江田島について実際に何度も来ており、
校内の位置関係も知り尽くしていて、見たことはないけれど
どこで何が行われるかもだいたい知識の上で知っている、
というような人間ばかりではございませんので、控え室には
このようなご案内が親切にも用意されています。 

この赤煉瓦生徒間の二階で待機をしていた来客は、1045の式の開始のために
1030から大講堂に移動を始めました。 

赤煉瓦の東側出口から大講堂に移動。
一つのグループにつき自衛官一人が付き添ってくれます。
これ、一人で行ったとしたら一人がエスコートしてくれるんだろうか。 

見学ツァーでは決して立ち入ることのできない階段を上っていきます。
階段の手すりにあしらわれた模様は今の建築では決して見られないもの。

ちなみに傾斜は無茶苦茶急でした。
 

初めて上った大講堂バルコニー部分・・・。
扉のついた壁で仕切られた部分は世が世ならカメラマンなど
決して立ち入ることのできない「貴賓席」でした。
玉座におつきにならない皇族の方々のお席となっていたのです。

戦後、初めてここに来賓として座った平民は、
幹部候補生課程を修了した息子の卒業式に親として出席した 
当時自民党の小沢一郎代議士だったということです。

のちに自衛隊の海外派遣が決まった頃、その息子という人は
自衛隊を退官して、一般の会社に行ってしまいましたとさ。

東側のバルコニーにも少しだけ人がいます。
3列のひな壇式観覧席はこのためにわざわざ設えられたらしく、
一般の来賓は元将官なども含め全員がここに座ることになりました。

席の取り合いで喧嘩にならないように(笑)、席には名札が貼られています。 

我々の右側の角部分には呉音楽隊の演奏場所が。
国民儀礼の国歌斉唱は、生演奏による伴奏で行われました。

式の間、全く譜面を見ないで演奏している隊員もいました。 

船の舵輪の形をあしらった大講堂の照明をこの角度から。
大講堂の壁には和紙が塗り込まれていて、この天井の角度と合間って
大変音の反響がよく、マイクなしで声が全講堂に聞こえます。 

というところでご覧いただくと、マイクやそのためのコードの類が
全くなく、すっきりした空間が保たれているのがわかります。

先人の創意工夫の恩恵を受けて、現在でも海上自衛隊の儀式は
増幅器、音響機器一切なしで行われるのです。 

舞台中央は昔玉座があったところです。
証書を授与する時、校長が玉座に背中を向けてしまいますが、卒業式に
そもそも天皇陛下はご来臨されることはなかったということでしょう。

開始時間少し前に、舞台奥の扉から飾緒をつけた自衛官などが出て来ました。

壇上には江田島市長や陸自の代表、海保の偉い人、
どこかの武官(この方、自衛隊記念日にも来ておられました)と
その奥様(か通訳)、水交会の代表などの来賓が
左奥の控え室から出て来ました。

いよいよ式が始まります。 

まず、卒業生が全員起立。
一糸乱れぬその動きと微動だにせず姿勢を保っているのを見て、
彼らが海曹長まで務めてきたベテランであることを改めて実感します。 

壇上に立つ幹部候補生学校校長、真殿海将補。

見るからに年配な感じの卒業生たちがまず登壇しました。
最初の一人にだけ証書全文が読み上げられます。 

校長が差し出す証書をまず右手、そして左手を回すようにして受け取り、
シャキーン!と左を向いてこの後証書をたたみ、片手に持って段を降ります。

一人が進むと皆が同時にざっ!と一歩進む様子が見事。
何人かが証書を受け取り終わると、また次の列が登壇のため一斉に並び、
それがなんども繰り返されます。 

壇上右手には、村川海幕長(一番向こう)、池呉地方総監、
そして術科学校長と一佐クラスの自衛官が式を見守ります。 

証書を受け取る時の所作など、卒業生は事前にちゃんと練習を行うのだとか。
そういえば、わたしたちも卒業式の練習はかなり入念に行いましたよね。 

うちの小学校は卒業生と在校生がオラトリオ形式で歌を交わすという伝統があり、
そのため随分前からリハーサルが繰り返されたものです。
ちなみに入場の時の音楽はワーグナーの「トロヴァトーレ」の
「鍛冶屋の合唱」だったのですがこの選曲はどうも・・・・解せぬ(笑)

女性の卒業生一人め。
防衛大学校や一般大卒の女子学生は増えているようですが、
海曹長までいって任官する女性隊員は珍しいように思います。 

柱の向こうの二人は、名簿を見ながら卒業生の名前を読み上げる係。
卒業生にとっては一生に一度のことですから絶対に間違いは許されません。
二人で交互に読み上げていたのか、一人がチェック係なのかは確認しませんでした。

壇上で名前を呼ばれた卒業生はその場で「はい!」と返事をし、
そののち校長の前に進んで正面を向きます。 

女性卒業生二人め。 

つまり全部で女子は三人です。 

そして、昔ならば「恩賜の短剣」授与であったところの
成績優秀者トップ5に対する賞状授与が行われました。

わたしはこの授与で、海軍兵学校の短剣授与と全く同じように
行われている部分を発見して感動してしまいました。

これです。

賞状を授与された者は、そのまま階段を後ろ向きに降りていくのですが、
これこそが、恩賜の短剣を受け取った後短剣を捧げ持ち、
後ろに向かって歩いていくのと全く同じ作法です。

江田島の旧兵学校校舎が戦後占領軍の駐留時期を経て
日本に返還され、昭和29年に海上自衛隊が発足してから
2年後の昭和31年、術科学校が横須賀から移転して来ました。

その時にはまだ旧軍時代を知る者、兵学校を卒業した者が数多くいて、
術科学校の卒業式には海軍兵学校のやり方を再現することが
誰いうとなく決まっていったのに違いありません。 

証書授与の間中呉音楽隊が演奏を続けていたのは、昔の通り、
ゲオルグ・フレデリック・ヘンデルのオラトリオ、「マカベウスのユダ」より、

「見よ、勇者は帰る」


大講堂の落成が成った1917年(大正6年)以来、
江田島を巣立っていく幾多の若き海軍軍人の名前を乗せて
この同じ旋律がこの同じ空間で演奏されてきました。

窓から差し込む早春の(この日は春並みに暖かい日だった)光に満ちた
明るく、しかし厳粛さを湛えた空気のうちに繰り返される調べを聴きながら、
わたしはしばし、この場所に幾度も巡りきた季節に思いを馳せるのでした。

 

続く。

 

 

 

 


呉の街と赤煉瓦生徒館〜第一術科学校幹部候補生卒業式

2017-02-03 | 自衛隊

海軍に興味を持ち出したと同時に、海軍兵学校の伝統を
海上自衛隊幹部候補生学校が色濃く継承していることを知り、
わたしはそれを確かめるために何度も江田島に足を運んできました。


戦史で名前を知った海軍軍人たちが若かりし日に駆け上がった階段、
海軍体操を行ったグラウンド、そこで過ごした赤煉瓦の生徒館。

奇跡のようにかつての建物がそのままの形で残され、故に、
在りし日の
その空気をまざまざと思い浮かべることができる場所が
戦後の日本に存在していたことに、わたしはどれほど感謝したことか。

そして、現在の海上自衛隊幹部候補生学校が、兵学校の頃の伝統のままに
行なっているという卒業式を是非一度見てみたいものだと思っていました。

それがついにそれが叶う日が来たのです。

 

昔は兵学校で、中学校を卒業した生徒が4年(大戦末期には3年) を
過ごして卒業したここ広島県江田島。
現在では防衛大学校や一般大を
卒業してきた後、
数ヶ月から1年にわたって専門訓練を受ける場所になっています。

現在の自衛隊の組織では、防大や一般大出身ではない隊員が
「部内課程」と言って、ここで訓練を受けたのち、幹部に進級するのですが、
わたしが今回出席させていただいたのはこの部内選抜の学生の卒業式です。

 

広島空港は不便なので、新幹線で行ってもほぼ時間が同じ、
という噂もありますが、今回もわたしは飛行機で前日に呉入りしました。

江田島で行事があると呉のホテルは満室になってしまうようで、
わたしも大変苦労したのですが、結局カード会社のデスクにお願いして
なんとか部屋を確保することができました。

行きのANAで軽食が出たのでいだだきました。
こうして写真に撮ると大きく見えますが、実はサンドイッチも
4センチ角くらいの可愛らしいものです。

普通席を予約したのですが、空きがあったのか、
何も言わないのにプレミアムシートにチェンジされていました。



呉在住の知人と食事をすることになったので、ホテルを出たら
道の向かいに居酒屋「利根」がありました。
もちろんここでは「とねカレー」が食べられるはずです。

帰りに中をのぞいてみたら、カウンターにスーツの男性が一人座っていました。

夜になってから呉の街を徒歩で移動したのは初めてです。
で、思ったのですが、本当に何もありません。


お店もなければ人もいない。
たまに人が歩いていますが、妙に早足なのと姿勢がいいので自衛官だとわかります。
商店街は空き家も多く、早く閉めてしまう。
活気を感じさせるのがコンビニくらいという有様で、
線路脇にあった「五十六」の看板と光がどれだけ華やいでいたか。

知人と会うことになったとき

「利根でもいいけど居酒屋はタバコがちょっと・・」

というと、ここを指定してきたのですが、ここも別に禁煙ではありません。
彼女にどんな感じの店?と聞くと

「小洒落た感じ」

いやまあ確かに二号店で新しく綺麗で居心地は良かったけど。
・・・・小洒落たの定義が多分地方によっては違うんだろうな。

東郷さんがイギリス留学の時に好きだったビーフシチューを食べたくて
海軍で無理やり再現させたものが肉じゃがの発祥らしいですが、
ここには当時海軍の賄いが頑張ってリクエストに答えようとした
そのビーフシチューもどきをオマージュする一品があります。

みりんと醤油で作るとまんま肉じゃがになってしまうので、
さすがにここではドミグラスソースを使っているようですが。
肉が固めなのも再現ポイントかも。
シチューというよりスープみたいな感じですが美味でした。

ここのメニューで気に入ったのが豆腐にクリームチーズを混入させ、
なぜかウニを乗っけたチーズどうふ。

チーズを加えた豆腐に絡むウニの味が
なんとも言えない一味を加えて大人の味でした。
甘いものの嫌いな人のデザートって感じ。 



写真を撮りそこないましたが、ここの「さざなみカレー」もいただきました。
先日たまたまカレーグランプリの話題の時に
「五十六さざなみカレー」という名前に突っ込んだのは実に奇遇です。
何も言わなくてもカレーのスタンプが出てきました。

「集めたくても全部制覇なんてよっぽどその気にならないと無理なんですよ」

と知人は言っていましたが、広島市在住の別の知人は、このスタンプラリー、
もう一巡して二巡目にかかっています。
仕事で呉に来るたびにカレーを食べるんだとか。

呉在住の人よりよその人(呉リピーター)の方が熱心かもしれません。

明けて次の日、トランクをホテルに預けてフェリーターミナルへ。
港内をクルーズして自衛艦を見て回る遊覧船のツァーも
ここから出発するようです。

いつか機会があったら参加しようと思いながら現在に至る。

フェリーのチケットは一人390円。
1時間に1本くらいの間隔で運行しています。
同じフェリーに乗り込む人のほとんどは卒業式参加の
来賓の人々で、退官した元将な人たちの姿もちらほら。

フェリーに乗った途端、港を行き交う自衛艦が気になります。
昔江田島に行くためにこの船に乗った時には何も目に入らなかったのに。

支援船のタグボートが2隻どこかに出動するようです。
このタイプは260トンあります。

「大和のふるさと」の沖に浮かんでいたポンツーンには
どう見ても船の底部分であろうと思われる部品が積んであります。
向こうにはバラックのようなものも見えますが、これはなんでしょうか。

輸送艦「おおすみ」はいつもの場所に。

「やまゆき」「あぶくま」 などの護衛艦。
「やまゆき」は今練習艦となっています。

艦番号422「とわだ」。補給艦です。

2013年のフィリピンへの災害派遣では輸送艦「おおすみ」と
護衛艦「いせ」への給油などを担当し、レイテ湾では救援物資輸送や
医療、防疫活動を実施して帰ってきました。

灯台だけがある小さな島。
まるでろうそくが一つ立ったケーキみたいです。
昔はここも灯台守が守っていたのでしょうか。

 

小用の港がすぐに近づいてきました。
出港から到着までわずか20分です。

タクシーで学校の前に到着。
門を入ってすぐのところに参列者の受付テーブルがあり、
名前の書いたリボンをWAVEさんが服につけてくれました。
そのあとは来客係に配置された自衛官がエスコートしてくれます。

あらあら、すでに何かが始まりそうな気配。
卒業生の家族の方々はすでに1本前のフェリーで到着していたようです。
音楽隊と儀仗隊が整列しているということは・・・・。

 

そのとき後ろから桜を4つつけた黒塗りの車が追い越して行きました。
同行の自衛官が立ち止まったのでわたしたちも車を見送ると、
車内では村川新海幕長が敬礼をしておられました。

車から降りた村川海幕長が式台の上で敬礼。

音楽隊が「観閲の譜」を奏楽する中、観閲を行う海幕長。
これが村川海将が初めて行う江田島での観閲に違いありません。

観閲が終了して最後に敬礼。

わたしと連れの方が立ち止まって見ているので、案内の自衛官は
一連の儀礼が終了するまでそこで待ってくれました。
そのあとは赤煉瓦の控え室に案内されました。

一般の見学ではもちろん、兵学校の卒業生と一緒に訪れた時も
赤煉瓦の中に入ることはできませんでした。
なので、一生見ることはないと諦めていたこの二階部分に案内され、
しかも控え室としてかつて教場であった部屋に入れてもらっただけで
夢でも見ているような気持ちです。

部屋のドアにはここを控え室にする来賓の名前が貼り出されています。
実は最初この隣の部屋に案内されたのですが、しばらくしてから
アテンドしてくれた自衛官がやってきて、

「すみません。お二人をご案内する部屋を間違えました」

まあそういうこともあるでしょう。 

部屋の窓から見る術科学校のグラウンド。
観閲を見ていた家族の方々は今から講堂に移動するようです。

赤煉瓦の正面から見るとちょうど裏側の廊下の天井。

天井に下がるペンダント式の照明器具のシェードには
6角のすべての面に錨のマークが入れられています。

壁面にあった謎の鋲。
この形状は間違いなく創建当時のものに違いありません。
生徒館は何年か前に耐震工事を兼ねてリニューアルしていますが、
換装する部分は最小限で、表に見えるものはできるだけ元のものを使っています。 

兵学校時代の写真には、この同じ形の帽子掛けが写っています。
もちろん全く同じものではないでしょうが、時代が移り変わっても
スチールパイプ製のものなんぞに変えないその見識が嬉しいですね。

廊下の突き当たりの窓を通して見る緑もおそらく明治以来
全く変わることはなく・・・。

ちなみに、各室のドアなどは改装の際取り替えられています。

二階の各部屋に来賓は分散して入り、海幕長や海将は
ここをまっすぐ行った正面階段の前の部屋に控えています。 

煉瓦の建物は改築しましたが、こちらはおそらく手付かず。
壁のペンキは随分剥離してしまっています。

 

さて、わたしたちが控え室で15分ほど過ごしている間に、
卒業式の行われる大講堂では卒業生を始め卒業生家族など
人入れが行われていたようです。

わたしたちは式が始まる直前に再び案内されて大講堂に入って行きました。

 

続く。

 

 

 


JFKとアメリカズカップとジョーイP〜駆逐艦「ジョセフ・P・ケネディ・Jr.」

2017-02-02 | 軍艦

バトルシップコーブの展示、駆逐艦「ジョセフ・P・ケネディJr.」の見学、続きです。
ところで、前回から今回までの間に、この駆逐艦の愛称が

「Joey P」

であることが分かったので、本稿から彼女をジョーイPと呼ぶことにします。 

「ジョーイP」の艦橋から隣の潜水艦「ライオンフィッシュ」、ミサイルコルベット艦
「ヒデンゼー」、そして戦艦「マサチューセッツ」を望む。

こんなに離れているように見えますが、「ライオンフィッシュ」と「ジョーイP」は
ラッタルで繋がっていて、甲板を伝って行くことになっています。

いずれにしても軍艦の展示がこんな風に(複数同時にすべて公開)
行われているのは、アメリカはもちろん世界でも多分ここだけだろうと思います。


艦橋上のデッキにも航空認識番号の「850」と書かれています。

デリックにはボートが一艘吊ってありました。

 

ボート反対側から。
こちら側のデッキはこのため通り抜けることができません。 

溺者救助用担架・・・・かと思いましたが、これではまず
海に浮くわけがないので、ハイラインでの搬送用だと思いました。

赤の半円型がモダンアートみたいですね。 

前方から艦橋の方向を撮ってみました。
皆が手すりにもたれて岩壁を見ていますが、これはちょうど
岸壁にあるスクリーンとしょぼい噴水装置を使った

「パールハーバー体験」

のショーが始まったところだったからです。

そんなことはどうでもよろしい。
艦橋の前にあるブルーと赤のミサイルは何?

魚雷であることは確かですが、型番がわかりません。
ジョーイPが搭載していた武装は

5 in (127 mm)/38 caliber twin gun mounts
Mark 37 Gun Fire Control System
Mk25 fire control radar
Mark 1A Fire Control Computer
Mk6 8,500 rpm gyro
2 × triple tubes for 12.75 in (324 mm) Mk 32 torpedoes
Antisubmarine rocket launcher (ASROC)
4 × double celled boxes housing 8 missiles
nuclear depth charge capability

これを見る限りどれでもないような・・。
そもそもこういう場所にこういう角度で魚雷を置くかなあ、
と幾つかの駆逐艦を見てきたわたしは思うわけですが、
どなたか正解をご存知の方はおられませんか。 

発射機のシステムがスケルトンで見えるようになっているのは、
展示のための仕様ではないかと思われます。 

甲板の魚雷は三連装の魚雷発射管用のものと思われます。

 

煙突とアスロックの横には登って行く階段がありましたが、
ここは立ち入り禁止になっていました。 

ジョーイPの船名符字(コールサイン)は上から「N」「B」「C」「R」。
教えていただいたところによると日本は「J」がつくそうですが、
それでは「N」は・・・?

 

上部には銃火統制システムのアンテナ(長方形)が見えます。

後部構造物全景。
 

 

どうしても写り込んでしまったピンクの巨大構造物は無視してください。

アスロック(対潜ロケット)Mk 46 8連装ランチャー後部には
ここにもシャムロックがペイントされています。

このタイプは冷戦時代のほとんどの駆逐艦と巡洋艦が搭載していました。

昔の潜水服みたいな艦橋デッキの装備。
これも何かわかりませんでした。 

この右側のドアを入っていくと艦橋があります。



艦橋デッキ。

 

甲板を歩いて行くと、こんなものがありました。
ヘリ搭載艦の甲板の駐機場所にある「不」みたいです。

艦首側から見た主砲と構造物。

四角いアンテナの下の湾曲したアンテナはSPS-10探索レーダーです。

あの鐘を鳴らす人はやっと昨年末から紅白出場をあきらめたようですが、
この鐘は鳴らないようにしてしまっているようです。


まるで外に向かって座るためのベンチのような構造物。
海自の遠洋練習航海の報告会で、訓練幹部たちが、遠洋航海中
船の上から海に飛び込むという訓練を行ったという話を聞きましたが、
もし当艦で行うならばここから飛ぶといいかもしれません。 

ところで、わたしが「ジョーイP」の上で熱心に写真を撮っていると、
横で立ち止まった影があったので撮影を中止し、

「どうぞ通ってください」

というと、その男性はいいよいいよ、先に撮んなさい、と手で合図し、

「この艦にはJFKが乗ったことがあるって知ってた?」

とわたしに話しかけてきました。
実はこのときわたしはこの艦の「ジョセフ・パトリック」という人物が
JFKのなんなのか、全く基礎知識を持っていないまま見学していたのですが、
このセリフによって、ようやくJFKの関係者であるという確信を得たくらいです。
もちろん全然知らなかった、とわたしがいうと、
続けて彼はこのように言いました。

「1962年のアメリカズカップが行われたとき、JFKはこのフネに乗ってそれを観たんだよ」

wiki

1962年、JFKとジャクリーン夫人は、ジョーイPの甲板から
『海のF1』と呼ばれるヨットレース、アメリカズカップを観戦しました。

実に絵になっているこの写真ですが、ジャクリーンの姿勢には
すごく無理があって、写真を撮られていることを意識しまくりです。

彼女がドレスを選ぶとき、夫のジャケットの色と合わせて
このスーツを選んだらしいことがこのカラー写真でわかりますね。

「駆逐艦に乗ってヨット観戦」→やっぱりイメージはネイビーブルーね!

彼女がその日クローゼットの前で考えたであろうことが、
髪に巻いたスカーフの色からも窺いしれるではありませんか。 


このときJFKがスピーチをしている動画がありました。

President John F. Kennedy's America's Cup speech in 1962 and JPK DD850

このタイトルだと艦名は「JPK」となっています。
わたしにそれを教えてくれた艦上の男性はさらに続けて、 

「わたしは小さかったが、それをテレビで見てたんだよ。」

「年号まで・・よく覚えておられるんですね!」

男性は誇らしげに言いました。

「そりゃそうさ、JFKはずっとわたしのヒーローだったからね!」

 

 

続く。