表桟橋。
この特別な言葉を毫も思い出さず、「埠頭」「船着場」
などと書いてしまったことを深くおわびします。
海軍兵学校時代から、ここで学んだ者は士官となるために
表桟橋を船出していくものである、つまり兵学校の門は
「裏門」であり、正門があるとすればそれは表桟橋である。
というようなことまで過去書いておきながら・・・。
さて、卒業生が敬礼しながら前を通り過ぎて行きました。
彼らは一番最後に、海自組織のトップである海幕長の敬礼を受けます。
そして内火艇(って今は言わないのかな)に乗り込み、そのまま
練習艦に乗り込んで江田島を後にするのです。
ところで、わたしのいた位置は比較的海幕長や海将、
その他ゲストなどに近かったので、列が通り過ぎ、
岸壁まで移動した時にはすでに彼らは乗り込んだ後でした。
卒業生家族は隊列が前を通り過ぎると、我が子の乗船を間近で見るために
一目散に我々が立っている後ろを通り抜けていきます。
前にいた紳士は自分の後ろに小さい子供のいる家族がいるのに気づくと、
その家族を前に行かせ、最前列に変わってあげていました。
やっぱりこういうシーンはご家族の方にちゃんと見せてあげたいものですよね。
場所を代わってもらった家族はこの人物が元海幕長だったことに気づいたかな?
内火艇が動き出しました。
波のない江田内ですが、直立している候補生達がよろめかないように
内火艇の操舵は細心の注意を払って行われるに違いありません。
岸壁の家族たちは早々と手を振りだしました。
「帽振れ!」
ここで掛け声がかかりました。
彼らを乗せた内火艇が向かうのはこれから乗り込む
「あさゆき」 JS Asayuki, DD-132
です。
「あさゆき」甲板にはSHヘリが搭載されていますね。
ヘリパイロットの候補生が乗艦するのでしょう。
表桟橋は自衛隊関係者以外立ち入り禁止になります。
帝国海軍の兵学校時代以来、この表桟橋で帽振れを行うのは
海軍大将と中将たる兵学校校長と決まっているのです。
呉地方総監の祝辞にも名前がでた、草鹿任一中将が在任中の
(昭和16年4月〜17年10月)卒業式において、
草鹿校長が表桟橋で70期の生徒を見送る動画が残されています。
(映画「勝利の礎」)
「帽振れ」を行う草鹿校長の眼は涙で潤んでいました。
70期の生徒たちは遠洋航海実習ではなく、各配置の軍艦等に
そのまま乗り込んだと言われています。
余談ですが、この時のクラスヘッドで恩賜の短剣を受けた
「伝説の天才」平柳育郎生徒は、砲雷長として乗り組んだ
「文月」で被弾し、その後戦死しました。
当時ラバウルにいた草鹿中将は病院に駆けつけています。
文月砲術長平柳育郎中尉、胸部及腹部貫通銃創ニテ重症
入院後間モナク戦死シ 見舞二行キタル時ニハ
方二火葬場二送ラムトスル間際ナリシガ
拝礼ノ後副官ヲ九三九空二派シ 級友二通知セシム
佐々木中尉直チニ病院二行キ 他ハ火葬場二集ル可ク信号セシ由ナリ
彼レ七十期ノ首席トシテ晴レノ卒業式ノ光景 尚ホ記憶二新ナリ
駆逐隊二於テモ 大ニ司令以下ノ信頼親愛ヲ受ケ居リシ由ナルニ惜ム可シ
ちなみに海幕長旗の横の人は江田島市長のようです。
きっとこの方も江田島で生まれ育ったと思うのですが、
島民の憧れであるこの行事に市長となって参加することは、
感無量だったのではないでしょうか。
今まで見てきた「帽振れ」はいずれも船の出港の時でしたが、
明らかにそれより長い時間行われています。
海保の帽子も、陸自の帽子も海自の白い帽子に混じって振られています。
練習艦は沖に三隻おり、候補生は表桟橋の両側から内火艇に乗って
それぞれ乗艦して行きます。
昔もこうやって練習艦「八雲」などに乗り込んで行ったんですねえ・・・。
よく見ると、彼らを受け入れる艦の舷に人が整列しています。
午餐会に参加していた練習艦の艦長たちは準備のために
こう言って一足先に退出していきました。
「候補生諸君、船で待ってます」
「帽戻せ」
さて、表桟橋の一番前には、お立ち台があって、ここには
海上幕僚長と幹部学校校長が並んで立つことになっています。
桟橋の街灯の下に赤と緑のランプがあるのにご注目。
ご両人、いずれも黄色いストラップの双眼鏡を首にかけての観閲です。
海幕長「おー、こりゃよく見える・・・ん?」
校長「(あ、海幕長が使い出したから私も)」
校長「おーこれはよく見えますなあ」
海幕長「(・・ピントの調整どうやってするんだっけ)」
ちなみに海幕長も校長も艦艇出身ではありませんので、
今までのお仕事柄、双眼鏡を日常で使うことはあまりなかったはず。
ということでこの瞬間を見ていたわたしの勝手な妄想です。
続いて祝賀飛行が行われました。
まずはヘリSHー60K。
練習機 TC-90。
徳島航空基地にある202教育航空隊から飛来しています。
そしてPー3C対潜哨戒機。
こちらは鹿屋からでしょうか。
海自所有の各祝賀部隊には、江田島を候補生として卒業したパイロットが
乗り組んでいるということでした。
「まきなみ」の艦橋を見てください。
発光信号によるメッセージが送られてきています。
表桟橋に立っている海自の人って全員この信号を解読できるものなの?
(絶対にそうではないとわたしは予想)
信号の発信時間は大変長く、長文でした。
終わったあと、アナウンスで信号で送られたメッセージを読み上げていましたが、
これは前もって知っていたのか、それともその場で信号を解読したのか
果たしてどちらだったのでしょうか。
そして、再び帽振れが始まりました。
「まきなみ」「あさゆき」「しまゆき」が出航です。
彼女らは候補生を乗せて、これから練習航海に出ます。
詳しい寄港先は忘れましたが、確かインドネシアまで行くということでした。
わたしの前にいた男の子はお母さんに言われて手を振っていました。
お父さんの乗った船が帰ってくるのは3月だということです。
呉での自衛隊行事でお見かけするアフリカ系の国の軍人さん。
卒業式典で名前を呼ばれた時には、日本語で
「はい、よろしくお願いします」
と返事をしていました。
江田内からは「まきなみ」先頭で出て行くようです。
続いて「あさゆき」。
村川海幕長、熱心に双眼鏡を覗いておられます。
現在舷側に整列しているのは幹部候補生でしょう。
内火艇が出発した時の「帽振れ」には、伝統に倣って
「蛍の光」
が奏楽されました。
海軍兵学校では「ロングサイン」と呼んでいたスコットランド民謡です。
正確には
「ラングサイン」( Auld Lang Syne)=久しき昔
で、Wikipediaの項には
大日本帝国海軍では「告別行進曲」もしくは
「ロングサイン」という題で海軍兵学校の卒業式典曲として使われた。
とあります。
そして、二度目の帽振れ、練習艦隊の出港に演奏された曲は
「錨を上げて 」“Anchors Aweigh”
でした。
アメリカ海軍の公式行進曲にもなっていて、
これだけは海軍兵学校時代にはあり得なかった選曲です。
平和って素晴らしいですね。
他には自衛隊の公式歌、「海をゆく」も演奏されました。
まず旗艦の「まきなみ」が我々の前で艦首の方向を湾口に変えます。
続いて「あさゆき」が運動一旒とでもいうんでしょうか、
「まきなみ」の航跡に続いて行きます。
続いて「しまゆき」。
こうして見ていると江田内は狭く感じますが、三隻の艦が
このように一列に並ぶのですから、見かけより大きいことがわかります。
海軍時代からこの湾は「江田内」と呼ばれていたようですが、
正式には「江田島湾」で、島をくりぬいたような湾内では
牡蠣の養殖などが行われ、カッターの練習などには絶好で、かつて
海軍が何が何でも兵学校をここに開校したかった理由が窺えます。
「しまゆき」は1999年に練習艦に転籍した元護衛艦で、wikiに
2013年6月11日夜、関門海峡(下関市六連島沖)で対向してきた
自動車運搬船(2万6,651トン)に接近して衝突の危険があったと報道された。
とあったので、何!とその時の艦長の名前を見ると、昨年女性としては初めて
戦闘艦である「やまぎり」艦長となった防大40期の大谷美穂二佐でした。
大谷二佐の経歴にはこのことは書かれていないようです。
こういうミスを起こした艦長は普通昇進が止まるものではないか、
などと素人は思うのですが、事故の件も昇進の件も、
所詮外野にはわからない事情があったのかもしれません。
「しまゆき」が向きを変えてもうすぐ航跡が一直線になります。
わたしとしては、彼女らが江田内を出て行くまで見送りたいところですが、
ここで来賓に対しバス乗車するようにと声がかかりました。
続く。(ええまだ続くのよ)