ネイビーブルーに恋をして

バーキン片手に靖國神社

「月光」の”シュレーゼ・ムジーク”〜スミソニアン航空宇宙博物館

2019-01-10 | 航空機

ワシントン空港近くにある通称スミソニアン博物館別館、
正式名称スティーブン・F・ウドヴァーヘイジーセンターを
ワシントン行政区画部にある本館より先にご紹介したかったのは
日本ではもう見られない帝国陸海軍の航空機があったからです。

博物館を入理、右回りに展示を観ていくと、前回お話しした
Me162「コメート」に続き、ナチスドイツと大日本帝国、つまり
かつての枢軸国の軍用航空機コーナーに出ます。

といってもアクシスパワー・トリオのうちの二カ国だけ。
ここでも「今回はイタリア抜きで」は生きております(笑)

中島飛行機 J1N1-S 月光 ”アーヴィング”

"gekko" と書かれますと、アメリカ人は自動車保険会社の
「ガイコ(GEICO)」のキャラクターを思い出すんじゃないでしょうか。
アメリカでも「商品とあまり関係のない不思議なコマーシャル」
と言われているらしいこの会社のCMには、その名もガイコという
gekko(イモリ類)のキャラが登場します。

なので、ここでも

gekko=「ムーンライト」

と翻訳しておいてくれないと、アメリカ人にはこの飛行機が夜間戦闘機であった、
というイメージが全く伝わらないんですがね。
ついでにスペルも ”gekko" ではなく "gekkou" とか "gekkoh" にして欲しいかな、

という文句はともかく、これがまさに、現在世界で一機だけ現存する「月光」の実物です。

 

現地の説明をそのまま翻訳しておきます。

1941年に中島飛行機が3人乗り戦闘機として設計したIRVINGは、
1943年5月に夜間戦闘機として改造され、
B-17爆撃機を2機撃墜するほどの能力を有しました。

月光を意味するGekkoは、再設計の際二人乗り座席にしたことで、
通信士の席だったところに上向きの発射銃2丁を取り付けることができました。

第二次世界大戦中、プロトタイプの他、邀撃、偵察、そして
夜間戦闘機を含む約500のJ1N1機が建造されています。

戦争末期にはかなりの数がカミカゼとして特攻に使われ、
戦争で生き残った少数の機体は連合国によって廃棄されました。

 

まず上向きの発射銃、というのはここに来る人ならご存知の
小園安名大佐(戦後階級を剥奪されたらしいですがここでは一応)が
考案した「斜め銃」のことです。

小園安名のバイオグラフィによると、小園がこの銃を発案し提唱していたのは
台南空司令時代からのことだったとあります。

理論的には有効と思われたアイデアでしたが、小園の日頃の評判、
(奇行が多く、神がかり的で、一度いい出したら絶対に自説を曲げない頑固者)
のせいで、周りの雰囲気は

「まあやってみればー?」

という冷淡なものだったようです。

大型機の下を航過しながら機体を銃撃する。

の画期的な方法を試験飛行したアメリカ軍が、B-17を二機も撃墜した
この兵器をどう評価したのかはわかりません。

後述しますが、この斜め銃を最初に考案したのは小園ではなく、
第一次世界大戦時には上向きに銃口を向けることのできる銃が
イギリス軍の飛行機に搭載されていたそうですし、ドイツでは
偵察用の夜間戦闘機に上向き銃を採用していました。

そしてそれは一定以上の効果があったことが言われています。

しかしかつての枢軸国の技術を敗戦後、良いものは貪欲に取り入れ
自国を発展させてきたアメリカがこれに類する武器には
全く興味を示さなかったらしいということだけは確かです。

アメリカ軍は本土空襲時の戦果を元に、すでに硫黄島占領の頃から
後方と下方への警戒と反撃を徹底させていましたし、
月光を捕獲した時には彼らにとって珍しい戦法でもなんでもなかった、
というのが実際のところだろうと思います。

そもそも大型機への後下方からの攻撃、というニッチな目的
(日本にすれば切実でしたが)のために、小さな航空機に重い銃を積むのが

汎用性に甚だ欠けるものであったことは、B-17撃墜に気を良くした小園が
「雷電」にも大型化した銃を搭載しようとして嫌がられたという
エピソードが表しているような気がしないでもありません。

「月光」と斜め銃。

実は、わたしが今回ここに来ることを実行したきっかけがこれでした。
今年の渡米前、文京区で行われたソリッドモデル展で見た「月光」。

斜め上銃と斜め下銃を再現したその模型について調べていて、
世界に現存する最後の「月光」がスミソニアンにあることを知り、
すぐさまワシントンに行くことを思いついたのです。

調べたもの・ことを実際に自分の目で見たいと思ったとき、
わたしは人よりも多少行動的であることを自負していますが、
今回のこれなどはそのわたしの行動の中でも特に迅速だったと思います。

つまり、この「月光」を観るために、わたしはここに来たといっても過言ではありません。

「月光」は夜間戦闘機として改装される前「二式」という偵察機だったように
夜間戦闘機には夜間偵察を兼ねられるものが多いのです。

「月光」の下部には「斜め下銃」はなく、この機体が
後期に制作されたものであることを表していますが、
偵察用の窓があるのが確認できます。

「昼間戦闘機」に対してそれでは「夜間戦闘機」とは何ですか、って話ですが、
夜だけ活動するのではなく「夜にも」活動することができる、という意味です。


その特色としては

  • 乗員が複数名
  • 強力な武装
  • 充実した通信設備や相応の航法能力
  • 黒・グレー・濃緑など、暗めの迷彩塗装
  • 機上レーダーの搭載

であり、日本海軍の場合は「強力な武装」がつまり
「月光」の場合は斜め銃を含む重武装だったということですね。

ちなみに先ほど述べたドイツの夜間戦闘機搭載の斜め銃ですが、

「シュレーゲ・ムジーク」 Schräge Musik

つまり「斜めの音楽」という意味の名前が付いていました。

日本のネット界では、明後日方向で的外れの意見や行動のことを

「斜め上」

といいます。
特にかの国の行動がこう言い表されることも多いわけで、最近では
一連のP-1事案についてのこの国の対応はまさに「斜め上」と呼ぶにふさわしい
不可解さと予測不可能な不条理さに満ち満ちているわけですが、それはともかく。

そして「おかしな事」を斜め上と感じるこの感覚は古今東西同じらしく、
ナチスドイツはアメリカのジャズをバカにし揶揄して「斜め音楽」=変な音楽、

と名付け、国民に退廃したアメリカ文化というイメージを喧伝していたのです。

なんでこれが機関砲の名前になったのかその経緯はわかりません。

わたしの想像ですが、単に最初「斜め銃」=「シュレーゲ・ピストル」
(ピストルはドイツ語)とかいう普通の名詞で呼んでいたのが

ドイツ軍に皮肉屋さんがいて、ナチスの宣伝でしょっちゅう言われていた
「シュレーゲムジーク」というあだ名をつけたのでしょう。

「シュレーゲ」が一緒なだけじゃん!ムジーク関係ないじゃん!(ドイツ語)

とならなかったのは、みんながこの響きを気に入ったってことなんでしょうね。

終戦になって日本に進駐したアメリカ軍は、本土を占領した後、
彼らの関心を引いた145機の陸海軍航空機を接収し、それらを

3隻の空母に搭載して

アメリカに送りました。
(その3隻の名前はUSS『バーンズ』以外はわかりませんでした)

この接収された航空機のなかに4機の「月光」がありました。
このうち3機が厚木で1機は横須賀から接収されたもので、
この横須賀からの機体番号7334には、外国機を表す番号

FE3031(後にT2-N700に変更)

が与えられました。
記録によると、接収後、「月光」はまず米海軍パイロットの操縦で
USS  バーンズに着艦した後、アメリカ本土まで運ばれました。

米海軍の航空情報担当者は1945年12月8日、

バージニア州ラングレーフィールド基地に”Gekko 7334”を割り当て、
その後1946年1月23日、今度はペンシルバニア州ミドルトンの
倉庫である航空機材倉庫(Air Materiel Depot)に移されました。

ミドルタウンの海軍航空隊整備部門は、まず「月光」のエンジン
(零戦と同じ生産先でさらに同じモデル)を改造し、換気システム、無線、
および一部のパーツを飛行試験のためにアメリカ製に置き換えました。

このときメカニックはこれらの作業をわずか3ヶ月で終了させています。

この後海軍は6月初旬、月光7334を陸軍に移していますが、
この2ヶ月間で、海軍内での試験飛行を終わらせたのかもしれません。


海軍から機体を受け取った陸軍のテストパイロットによって

「1946年6月15日、月光7334を約35分間飛行させた」

とこの時の記録には残されていますが、
テストが行われたのはどうやらこの1回だけであったようです。

アメリカまで輸送した4機のうち1機を大改装までして35分のテストを一度だけ、
しかも残り3機はそのまま廃棄とは、さすが金持ち、勝者の余裕ですな。
(もちろん皮肉です)

その後月光7334は陸軍空軍の手によってイリノイ州の
ダグラスC-54を作っていた工場に運ばれました。
おそらくここでテストのために付けた機材を取り外したのでしょう。

それから3年後の1949年、月光7334はスミソニアンに寄贈され、
一旦イリノイ州パークリッジの倉庫に保管されました。

ところがパークリッジ倉庫はその後、朝鮮戦争で鹵獲した飛行機など、
60機あまりでいっぱいになってしまい、月光7334は
1953年には修復工場の外に押し出されるように投棄され、
1974年に修復スペースが利用可能になるまで雨ざらしになっていました。

さらにその5年後の1979年、NASM(スミソニアン航空宇宙博物館)は
やっとの事で月光7334を修復の対象にし、その作業に取り掛かったのです。

 

現物を見ればわかりますが、ここにある世界唯一の「月光」の機体は
その修復技術の高さと美しさで他の航空機と比べても目を引きます。

1976年に修復された当博物館所有の三菱零式艦上戦闘機に次いで、
月光7334は、 スミソニアン博物館の復元技術者の熟練の技を
世界に知らしめることになった二機目の日本機となりました。

月光7334の修復作業は、機体が20年間外気に晒されていたため、
各部分が(深部まで)完璧に腐食してしまっており、その当時、
NASM修復技術部門のメンバーがそれまでに手がけた中でも、
最大かつ最も困難な航空機修復プロジェクトとなったと言われています。

正確には作業が開始されたのは1979年9月7日、
終了したのは1983年12月14日。
細心の注意とふんだんな資金をかけ、述べ1万7千時間を投入し、
復元作業は行われました。

さすがは歴史的遺物の維持に理解がある金持ち国アメリカです。
(これは皮肉ではありません。心から感謝しています)

そうやって心血注いで修復が行われた月光7334は、
スティーブン・F・ウドヴァーヘイジーセンターに、
その完璧、かつ世界唯一の姿を今後も後世に伝えていくことでしょう。

 

 

ところで本日のタイトルは、「月光」と「ムジーク」の
「組み合わせの妙」にツボってしまったので、つけてみました。

どこからかベートーヴェンが聴こえてきませんか?

・・・おっと、このこじつけはあまりに「斜め上」だったかな(笑)

 

続く。



AMANEMU(アマネム)でのお正月

2019-01-09 | お出かけ

初日の出を見て帰り道、家の近所でこんな光景を目撃しました。

ところで、今連鎖反応的に思い出したのですが、昨年の一般参賀は
例年以上の人出だったため、7回ものお出ましであったということですね。

平成最後であり今生陛下にとっても最後の一般参賀となるため、
わたしも是非行きたかったのですが、当日どうしても外せない所用があり、
泣く泣く諦めました。

今回の伊勢参拝で同行してくれた神宮の達人(祝詞も読める)は
参拝の後、車で志摩のアマネムまで送って下さったのですが、
同行中、天皇陛下の「御威光」について、いわゆるオーラが見える人が、

「陛下が乗っておられるセンチュリーが近づいて来たら、
車の天井を突き抜けるように光が立ち昇っていた」

と証言していたという話をうかがいました。

わたしはスピリチュアルな話をむやみに信じる方ではないのですが、
もしそういうものが可視化できるなら、天皇陛下のオーラとは
当然特別なものであるだろうと思っているので、納得して聞いていました。

さて、そんな話をしながら渋滞を避けて海沿いの信号のない道を小一時間。
いきなり現れたうえあまりにも小さくて見過ごして通り過ぎてしまった
「AMANEMU」の看板のある小道を入っていくと、セキュリティゲートが。

宿泊者以外は何人たりとも立ち入らせない構えです。

二人いる守衛に名前を告げると、おもむろに門が開きました。
確か24部屋しかないのに、この人たちは一日、
滅多にない戸の開け閉めのためにここにいるわけか・・・。

ゲートを入っていくと、道案内されずともいきなり現れるのがこのパビリオン。
あまりそんな風に見えませんが、ここがフロントとなります。

パビリオンの椅子で歓迎のオリジナルティーをいただきながら、
ホテルの支配人(女性だった)のご挨拶を受けました。

日本で二つ目のアマンリゾートホテルの支配人になるくらいですから、
さぞかしキャリアのあるホテルマンなのだろうと思われますが、
女性ならではの柔らかな物腰からは、まるでモダンな温泉旅館の若女将
(もちろん社長兼)
にお迎えされているような気がしました。

アマンリゾートのホテルを手がけて来たオーストラリア人の建築家、
ケリー・ヒルの建築によるものです。
大変な日本びいきで、生涯に80回以上来日をしていたヒルですが、
昨年の8月、亡くなったということです。

その作品群からは、いずれの作品もシンプルでモダンでありながら
土着の文化に寄り添う懐の広さがあるように感じられました。

合歓の郷にあるから「アマネム」と名付けられたここもまた、
伊勢志摩の海沿いにあって全く違和感なく日本の村に溶け込んでいます。

作品を通じて共通する印象は「連続する縦の線」「黒に近い茶色」でしょうか。

英虞湾を眺めていると、中華な色合いの遊覧船が繁く行き来します。

「賢島エスペランサという遊覧船です」

失礼、中華ではなくエスパーニャでしたか。
エスパーニャといえば、確かこの辺に「志摩スペイン村」なるものがあった気が・・。

「まだあのパルケエスパーニャってあるんですか」

「なんとか生き残ってるようですよ」

ところでなんだって三重県がスペインなのかというと、
この理由は、カルメン、ドンファン、闘牛、ドン・キホーテ等が、
日本人に馴染みがあるからとかいろんなことが言われていますが、
結局のところ実利的な理由、

「ほかではあまり取り上げられていないから」

「明るい太陽と海辺というイメージのこじつけ」

というあたりで深い意味はないそうです。
これと同じく、地中海と地形が似ていなくもない、という理由で、

「瀬戸内のエーゲ海」

などと自称するセンスはもうバブル期の終焉とともに終わった感があります。
今にして思えば、気候風土が全く違うのに、ちょっと似ているというだけで

なぜ「何処かの国」を名乗らなくてはいけないのかと思いますが、
(全国にあった〇〇銀座と同じ発想?)もはや今は外国人の建築家が
日本のイメージを取り入れて造ったAMANEMUが持て囃される時代です。

テラスにくり抜いたようなソファとテーブルのスペースがあります。

端っこのものをてっきりアメリカのホテルのような暖房器具だと思い、
ここで暖まりながら満天の星を見よう!と盛り上がったわたしたちでしたが、
ホテルの人に「これつけてください」と頼んだところ、
暖房ではなく単なるライト(しかも故障中)であることがわかり断念しました。

この夜は恐ろしいほど空気が澄んで都会では決して見られないほどの星空。
もしその気ならバーには天体望遠鏡が置いてあったので、

それで天体観測と洒落ることができたと思うのですが、いかんせん寒すぎました。

ライブラリの蔵書は部屋に持ち帰ることもできます。

チェックイン時間にはまだ早かったのですが、達人を囲んで
ランチをいただくことにしました。

伊賀で作っているから「忍ジャーエール」。
名前が面白いからというだけで注文しました。

ランチはTOがホテル予約の時に4種類別々のものを注文してあり、
それぞれ自分の食べたいものを主張して出て来たものを取ることに。

達人はこの、あまりにも具の多い海鮮チラシを選択。

わたしは息子に「松坂牛ビーフカレー」を取られたので、
中華膳かひつまぶしの二択になり、
散々迷った末後者にしました。

後半は出汁をかけてお茶漬け?にして食べることができます。

松坂牛カレー。

いずれのお料理も「外国人サイズ」でした。

食事の後はこの建物、バーに移動。

デザートは升に入った和風パンナコッタを息子と半分ずつ。
何が和風かというと、金箔と黒豆が載っているところ?

食事が終わり、達人をお見送りしているうちにチェックイン時間になり、
カートで荷物と一緒に部屋まで運搬してもらいました。

ホテル内の敷地はカート移動、というとバリのブルガリホテルを思い出します。
そういえばパビリオンもブルガリと似ているなあ。

「ブルガリホテルみたい」

ふと呟くとカートを運転していたホテルマン(女性)が

「スタッフには先日までブルガリホテルで働いていた者がおります」

ブルガリホテルは同じお正月でも天候は真夏と同じでしたが、
こちらは寒いのでカートは幌付き。
乗ると外からファスナーを閉めてくれますが、それでも
隙間から風が入って寒いので膝掛けをかけてしのぎます。

一棟につきふた部屋が並んでいる仕組みで、これと同じのが
12棟あるということになります。

聞けばこの日は稼働率は50パーセント(つまり12組くらい)で、
そういう時には一棟に1滞在客しか割り当てないことになっているようです。

24部屋の大きさは皆同じで、値段の違いはロケーションのみ。
目の前が海、という部屋が一番高いのだとか。

部屋は広いのでエキストラベッドをおいてもなお余裕たっぷり、
木のフロアは床暖房入りで裸足でも歩けます。

隣は棟続きの部屋なので庭には出られません。

蛇口の一つからは60度くらいの温泉が出て来ます。
前面ガラス張りで、外を見ながら温泉に浸かれるというわけですが、
ただし夜になると外は暗闇となり、夜景を見ながらというのは不可能。

最初鏡張りかと思った向かい合わせの洗面台。
部屋のいたるところにミネラルウォーターのボトルがあり、
冷蔵庫の
アルコール類以外のソフトドリンクは無料です。
(というか宿泊代込みというべき?)

地元のみかんやおかき、みかんジュースに牛乳なども備えてありました。

ベランダにはソファがあって、寒いけど無理やりくつろぎました。

昔ここはゴルフ場だったそうですが、山中ゆえ夏場は虫が出るようで、部屋には
各種虫除けの他にムカデキラーと、外国人客のために英語で
「これがムカデです」という写真入り注意書きまで備え付けてありました。

ホテルの人によると鳶の害はままあるようですが、ブルガリホテルの猿のように
流石に部屋までは来ないので、
ベランダで朝食というのも悪くなさそうです。

チェックイン後部屋で休憩してから、スパ棟を見学させてもらいました。
立派な機材を備えたジムはもちろん、ヨガ教室も随時行われています。

そしてここがアマネム自慢のスパ。温泉です。
水着をフロントで借りて入ります。

浴槽?は場所によって温度が少し変えてあり、

「交代にどちらも入ることで血行が良くなります」

プールではないので浅く、全周囲が階段なので泳げません。

夜、スパでオイルマッサージをしてもらい、部屋で一人温泉に浸かっていると
息子とTOがこの露天風呂から電話してきて、

「野外温泉おいでよ。絶対に来ないと損だよ」

というので、部屋のお風呂からこちらにやってきましたが、
彼らのいう通りで、ここにきてこのお風呂に入らなければ
来た甲斐がないと思ったほどでした。

三人でお湯に浸かりながら星を眺め、いろんな話をしましたが、
特に留学中の息子の来夏のインターンシップについて
本人の意向と方向性について会話できたのが良かったと思います。

明けて翌朝、お楽しみの朝食です。

アメリカンブレックファーストを選択すると、こんな美味しそうな
テーブルに乗ったサラダと果物がやって来て、取り分けてもらえます。

それにしても食材のことごとく贅沢なこと。

昨日の達人が地元で聞いた話によると、ホテルができる当初、
取引を申し込んだある業者がいて、その業者はうちと契約すれば
これだけ安く食材を納められますよ、という切り口でセールスしたのですが、
ホテルの返事はなんと、

「うちは安くなくてもいいので、とにかくいい食材を入れたい」

で、業者はしおしおと引き下がった、ということでした。

メニューに「ホワイトオムレツ」と書かれていたホテルは初めてです。

TOが注文した和食は、鯛茶漬けの具付き。
ご飯は「熊野古道米」で、こちらも聞けば、ごく少量丁寧に作った米だそうです。

こういう「縁のないプール」、世界中で流行していますよね。

この後はホテルアンドリゾーツ?だかなんだかの特典で、
4時までのレイトチェックアウトだったため、
息子とベッドて跳ねたり、温泉に浸かったり、パソコンしたり音楽聴いたり、
思いっきりのんびり時間いっぱいまで部屋を楽しみました。

チェックアウト後は宿泊者全員、ホテル所有のレクサスで駅まで送ってもらえます。
荷物を車に積むとき、

「ホテルからのプレゼントです」

と、『AMANEMU』と刻印の入ったラゲッジタグ(こちらの名前入り)
をいただきました。

わたしとTOには二人で一つでMr.and Mrs.なんとかだったのに、
息子は彼の名前だけが書かれたタグを別にもらい、ご満悦でした。

送っていただいた鵜方から名古屋まではビスタカーで。
鳥羽を通りかかるときには御木本真珠島(橋の向こう側)が見えます。

 

神宮参拝に次ぐAMANEMU。
気持ちを新たにし、
かつ清々しく気の良い場所に身を置いたことで、
旧年の憂いはすっかり清められ、今年も良い年になりそうな気がします。





伊勢神宮参拝

2019-01-07 | 日本のこと

みなさま、初詣はどちらにお参りされたでしょうか。

年初めには、まずは地域の氏神にお参りし、感謝を述べて
しかるのち伊勢神宮などの有名な神社に行くのがいいとされていますね。

我が家はわたしとTOが靖国神社、息子はこれも恒例の
鎌倉の友人宅で大晦日を過ごすので鶴岡八幡宮といつも通りでしたが、
息子が帰ってきて言うには、

「あんまり人が多すぎて本殿に近づくことすらできなかった」

なんでも途中でこりゃダメだと諦めて、「ヤクザの店」(笑)を
冷やかして歩き、適当に何か買い食いして帰ってきたのだとか。

「じゃあまだ初詣できてないんだ。どうする?」

「どうするって・・・伊勢神宮行くんじゃなかったの」

あーそうでした。
今年三が日を避けて旅行かたがた伊勢神宮に参拝する予定だったんだ。

まずは新幹線で名古屋下車。
なぜここで降りたかというと、元々は愛知県在住の知人と
名古屋駅前のホテルで食事をする約束をしていたからでした。

3年前に新築された後もその名前を踏襲した「大名古屋ビルヂング」。

昔、名古屋には何もない、という世間の評価があり、いかに何もないかが
訪問した人によって面白おかしく語られていた頃(今もそうですか?)

「駅前に『大名古屋ビ・ル・ヂ・ン・グ』だってwww」

とバカにされていたこの名称を、堂々と新型ビルに使っているわけですが、
大名古屋ビルヂング、一周回ってむしろ無茶苦茶センスいいですよね。

実は約束の相手に退っ引きならない所用ができてしまったのですが、
レストランの予約そのものはキャンセルしなかったため、
結局家族三人で食事を食べるために名古屋で降りたというわけです。

名鉄グランドホテルの中華料理のコース、美味しゅうございました。

次の日は早朝から参拝と寝るだけなので、駅前ホテルを取りました。

駅前ホテルといってもそこは志摩ですから、フロントに生簀があって
(ホテルの人によると昔は噴水だったらしい)
そこには明日をも知れぬ命の伊勢海老が食卓に乗る順番を待っています。

テェックインの手続きの間眺めていると、フロントの人が、

「ここに超特大の伊勢海老がいます」

と物陰に隠れていたのを棒で引きずり出して見せてくれました。

「大きくなりすぎてもう絶対に食べられることはありません」

お客の中には、いくら出したら食べさせてくれるんだ、という人もいるそうですが、
この5分の1くらいの伊勢海老で4千円という値段だそうですから、
万が一ホテルが彼を身売りする気になったとしたら何万円という値段になるんだとか。

「こんな大きくなったら美味しくないでしょう」

「伊勢海老は大きくなっても大味になったりしないんです」

それじゃいつか、金に糸目をつけない客によって食べられてしまうのかしら。

翌朝7時。
地元で毎日伊勢参拝をしている「達人」が車で迎えにきました。
まず内宮からまわるため、周辺の駐車場に車を入れることになりましたが、
近くの駐車場はお正月の間は関係車両しか利用できないので、
五ヶ所ある駐車場がことごとく満車となっていました。

深夜から早朝にかけて参拝する人もいるので、車の動きはあります。
20分くらい待ったら中に入ることができました。

停まっている車のナンバーを見てびっくり。
三重ナンバーを筆頭に、近畿圏はもちろん、岡山や九州、
関東だと品川、横浜ナンバーもちらほら。

鶴岡八幡宮の参拝者も例年より多かったようですが、
やはり平成最後のお正月で御代がわりを控えていることが
人々が神社に足を向ける理由となっているのかもしれません。

駐車場から参道に向かう交差点には地下道が設置されていました。
地下道通路には伊勢参りを描いた絵巻や写真などが展示されています。

おかげ横丁の人手がこんなにガラガラなのを初めて見ました。
流石に早朝だけのことはあります。

おかげ横丁の物販店はもちろんですが、銀行や郵便局なども
参道の雰囲気を壊さない造りとなっています。

黒いポストには「書状集箱」、ATMは「現金自動預払」。

赤福の本店には、列を作って赤福を買おうとする人々が。

「でも赤福というかぎりは、京都のお◯べみたいに本家争いとかないですよね?
皆同じ工場で作ってるんですよね」

「何処で買っても同じです」

「でもここに並んで買うんだ・・・・」

ちなみに赤福は新幹線の名古屋駅のホームでも、その日に作られた
新しいものが買えるのですが、やはり本店で買うことで
ありがたみを感じるんでしょうな。

このおかげ横丁の整備は赤福の子会社「伊勢福」が出資し、
運営も全てこの会社が行なっているそうで、整備されたのは平成5年とか。

江戸時代にはお蔭参りが大流行して、庶民の憧れの街だった門前町も
高度成長時代にすっかり寂れてしまったため、赤福は子会社を設立、
江戸風の実在した建物を再現し、街ごと作り変えて現在に至ります。

日本棋院の支部もありました。
将棋では藤井聡太七段(16)の話題が日本中を席巻していますが、
囲碁界にも藤井七段に劣らない“天才少女”が誕生しましたね。

最近の日本には各界にスーパースターが矢継ぎ早に誕生しているといった感があります。

干物屋さんの秋刀魚の丸干しのディスプレイも、
昔のお店を再現したものなのでしょうか。

冷蔵ケースと水槽以外は皆木でできています。

猫さん体のお手入れ中。食事は済んだものと思われ。

この茂みの植え込みには猫が生息していたという覚えがあります。
餌をやるのを禁止するポスターですが、雰囲気からいって
先ほどのトラ猫も、何処かのお店の人が餌をやっているのでは・・・。

おかげ横丁を抜けるとそこは内宮の鳥居となります。
鳥居から五十鈴川を渡る欄干の橋は、真ん中に仕切りを置いて
右側通行となっています。

鳥居をくぐったら真ん中は神様の通り道だから歩くな、
という人もいるようですが、これじゃ歩こうにも物理的に無理。

わたしたちが早朝に来たのは、この日8時から行われる
お神楽を奏上申し上げることにしていたからです。

神楽を奏上する神楽殿はこの御饌殿(みけどの)の向こう。

御饌殿とは、神饌(神様に備える食物、つまり神様のご飯)を
用意するところで、お神楽の申し込みはこの左側の窓口で行います。

神楽は前にも説明したことがありますが、祈祷の後、
我々人間がスポンサーとなって神楽を催し、それをもって
神様に楽しんでいただくという意味を持ちます。

神楽に払うお金にはランクがありますが、大金を叩いてもお志だけでも、
特にお正月期間には同じお神楽を一緒に観ることになります。

何で区別をつけるかというと、まず祈祷の際に神職が名前を呼ぶ順番。
たくさん出した人から順番に名前がコールされます。
そして、特典として、皆が入れない塀の中の神殿近くで参拝することができます。

それだけですが、つまりそれで自分のスポンサーとしての神様への
貢献度が高いと、それだけ神様が喜んでくださるということなのです。

 

申し込みが済むと、神楽殿の右手の待合所から靴を脱いで入場。
中は大変広いですが、床暖房が施してありました。
(靖國神社も2年くらい前から床暖を入れるようになって随分楽になりました)

とはいえ畳に座るという観覧方法は変わらないので、正座の苦手なわたしは
周りの男性のようにあぐらをかく訳にもいかず、祈祷以外の時には
横座りして耐えました。

全員が揃うとお祓いを受け、神職が「スポンサー」の名前を読み上げます。
TOがいくら奉納したのかは聞きませんでしたが、名前が呼ばれたのは
最初から2番目だったので、おそらく奮発したのでしょう。

ひっつめで額を露わにし、髪を熨斗のような紙で巻いた巫女が六人、
笙や琴などの雅楽を奏する人たちが四人、
巫女たちはお供え物を受け渡し、正面に捧げるなどを、驚くほど
素早い動きで執り行い、それを見ているだけでちょっとしたアトラクションです。

巫女たちは中学生くらいに見えましたが、長い裾を踏まずに歩く
独特の足の運びといい、躊躇いのない舞のような動きといい、
相当修行を積んでいるとお見受けしました。

何より彼女らを見ていて、昔、人に頼まれて、ホテルの結婚式場で
巫女のアルバイトをしたのを思い出したのですが、改めて、
こんなインチキ巫女のお仕えで祝言をあげた方々には申し訳なかったと反省しました。

【伊勢神宮】神宮のご祈祷 御神楽 ISE-JINGU

この動画はわたしたちのお神楽と全く同じ内容となっています。
最後の蘭陵王という赤い着物で狐面の舞は、「唐舞」というのだそうです。

伊勢神宮に高々と伸びる木々は、それこそ長い長い時を経て、
どれも神木というくらい神々しく天に向かっています。

太い木の幹に参拝者が群がって触りまくっている光景を目にしましたが、
伊勢神宮の達人によると、

「なんの意味もないのでやらないほうが良いです」

とのことでした。

伊勢参りは広大な伊勢神宮に在わす神様の社を次々とめぐって
お参りをするという、言うなれば江戸時代の一大アミューズメントパーク。
お神楽を上げて一つ一つお参りをしていったら、午前中いっぱいかかります。

お神楽をあげるといただける袋の中には「黄色いチケット」が入っていて、
このチケットがあると、正宮である皇大神宮の塀の中に、
神職に連れられて入りそこで参拝することができます。

わたしたちは同時に来られた男女二人と合計四人で、
(息子はネクタイをしていなかったのでアウト)玉砂利を踏んで中に入り、
緊張しながら二礼二拍手一礼を行いました。

社殿の横にはこのような空き地と小さな小屋のようなものは、
現在の社殿に遷宮される前に社殿のあった場所で、遷宮して6ヶ月だけは
古殿地と呼ばれ、その後は「新御敷地」(しんみしきち)となります。

つまり、「次に社殿が立つ予定の御敷地」となるのです。

小屋のあるのは以前御正殿があった場所で、中には太さ30cmの
「御柱」と呼ばれる「御木」が埋まっているのだとか・・。

こちらが現在の「御正殿」で、「御敷地」には注連縄がされ、
もちろん立ち入ることはまかりなりません。

五十鈴川の近くにある瀧祭神(たきまつりのかみ)は、
伊勢神宮の達人曰く「大変強い」神様で、上空には
龍が舞っているということですが、そのお参りを終えると、
五十鈴川の御手洗場まで、この人通りの少ない道を歩いて行くことになります。

御手洗場にはどういうわけかお金がたくさん落ちていましたが、
達人に言わせるとこれもあまり意味がない、とのこと。
手を清めるところにお金を投げるというのもなんだかね、ってことです。

お金を投げ入れるともう一度帰ってこれるトレビの泉と一緒にしてないか?

わたしたちが出口に向かう頃、向こうからはものすごい数の参拝客が。

「これでも三が日よりはだいぶ少ない方です」

もう一度五十鈴川にかかる欄干の橋を通ると日の丸が見えます。

ところで、わたしたちが参拝した前日は政治家が参拝したそうです。

「午前と午後で自民と野党は別々に参拝するんです」

「野党・・・まさか共産党は来ませんよね」

「共産党は来たことないですねー」

野党が与党とは別に(公明党もこないらしい)伊勢参拝するのは
恒例の行事となっていて、ずっと行われていることなのですが、なぜか
パヨク連中が激怒し(笑)猛抗議するという騒ぎになっていました。

「ドン引きしました」

「もうパートナーズやめます」

「まさかどういう神社か知らないわけじゃないですよね」

「伊勢神宮なんかに行かず辺野古に行くべき」

「これ、靖国神社に参拝する会と同じ構図ですよ」

「まさか賽銭とか投げて日本会議の資金源に協力してないだろうな」

「右派支持者取り込み作戦なら、ここだけでなく
キリスト教会や寺院にもいかないと支持者のバランスが
取れないし、一宗教団体との密着関係を疑われる」

阿呆なのかこいつらは。(ペッ)

いやーしかし、近所の神社に参拝したことをツィートして
皆に突っ込まれた小池晃といい、民進党の皆さんといい、
変な主張の人たちに支持されないと政治家でいられない人たちって
ほんと大変そうで心から同情します(思いっきり棒)

おかげ横丁は先ほどと同じ場所とは思えないほどの人出でした。

朝見た猫さんは屋根の上に避難してお昼寝。

屋根瓦にお猿さんがいる店もあります。

百田尚樹氏の「日本国記」にも書かれていましたね。
自分が行けないご主人が飼い犬にお蔭参りをさせた話。

お伊勢参りをする犬を「おかげ犬」というのを初めて知りました。
ここではこんな可愛い「おかげ犬サブレ」を売っています。

お土産に買い、我が家用にも一つ買って食べてみましたが
土産菓子にしては出来過ぎというくらい美味しいお菓子でした。

注連縄つけた犬が可愛い!

箱の赤い鳥居のマークには、おかげ犬が
後ろ向きに、つまり鳥居をくぐる様子が描かれています。

おかげ犬・・・お伊勢参りする人々が、ちゃんと本殿まで連れて行って
お札を買ったりして世話してあげたってことなんですよね・・・。

ちなみに現在では犬は散歩はもちろん、中に入ることもできません。

この後は猿田彦神社に参拝。

「さるめ神社」は芸能の神様だそうです。
奉納されたのぼりには「南海キャンディーズ」からのものがありました。

外宮に向かう道で見つけたマンホールの蓋。

休憩中の巫女さんが携帯を熱心に見ているという、今ならではの図。

駐車場から出たところに、社殿を作るためのヒノキを浮かべている池があります。

伊勢神宮では、1300年のあいだ、20年に一度、社殿や神宝類、
ご装束類のすべてを一新する式年遷宮がおこなわれています。
この20年の繰り返しによって技術や匠の技が脈々と伝えつづけられています。

20年毎に遷宮しつづけるという仕組みは、日本でも他に例がなく、
この周期は、最初に遷宮を始めた天武天皇が定めたそうです。

遷宮に必要な木材の準備には4年をかけます。
伐採後2年間貯木池に沈める「水中乾燥」を行い余分な油を抜くのですが、
今その作業をここで行なっているというわけです。

ちなみに木材はその後1年間、野ざらしにし、自然条件に木を慣らして
そして1年間で製材をし、和紙をかけて遷宮の時を待つのです。

さて、わたしたちはこの後、知人の運転する車で
今回の旅行のもう一つの目的地である志摩に向かいました。

英虞湾を臨む温泉リゾート、アマネムに一泊するためです。

 

 

続く。



平成30年度 想い出アルバム〜自衛隊イベント編その4

2019-01-06 | 自衛隊

平成30年度に参加した自衛隊イベントを振り返っています。
わたしの場合基本的に参加のほとんどが海自のイベントなのですが、
その中でたったひとつあった航空自衛隊のイベント。

航空自衛隊芦屋基地航空ショー 10月13日

所属する防衛団体の研修旅行という名目で参加しました。
それまで航空ショーといえば入間の航空祭しか知らなかったのですが、
芦屋基地の航空ショーはそれと比べれば圧倒的に人が少ないため、
いろんな意味で楽な見学となりました。

空自の元中の人に聞いたところ、その点1番の穴場は
例年11月中旬から下旬に行われる岐阜の航空基地だそうですよ。

今年は岐阜に出没してみようかな。

入間と芦屋ではその内容もちょっと違います。
芦屋は入間ほど所有する航空機が多くなく、入間のように
近隣の陸海軍からの応援がないため、随分シンプルな展示となります。

その分、救難訓練などは、救難員の落下傘降下から、彼らが
要救助者を搬送して自分たちがヘリに乗り込むまでを
じっくりと見せてくれるという丁寧なものとなります。

訓練機T4部隊の編隊飛行展示は基本。
この展示は訓練部隊の教官によって行われるので、どこのT-4部隊も
「ロートル部隊」とか「シルバー部隊」などと呼ばれています。

両手バイバイしているその姿はとてもおじさまには見えません。

練習機の展示の後いきなりF-2が出てくるという驚きの展開です。
しかもこの後はF-15。

この日はどちらの戦闘機もベイパーを綺麗に引いていました。

皆のお待ちかね、ブルーインパルスは午後からでした。
午前中は真っ青な晴天だった空が、この時に限って曇りに・・・・。

曇ると当方のカメラテクニックではピントを合わせるのさえ苦労しました。

唯一ラッキーだったのは何も考えずに写真を撮っていた場所が、
コークスクリューの真正面だったことでした。

この旅行では、見知らぬおじさんと同行することになり、
おじさんのおじさんたるおじ臭さに若干閉口することになりました。

呉地方総監部 殉職隊員追悼式 10月26日

毎年この時期に行われる自衛隊記念日。
その一環として、必ず全国の自衛隊では殉職者追悼式が行われます。
わたしはここ何年か連続して呉地方隊で殉職者の霊に感謝し申し上げ、
その御霊の安寧を願って頭を下げることが恒例となっています。

呉地方総監部 自衛隊記念日式典

自衛隊記念日には、各自衛隊基地駐屯地で、その一年に貢献があったとされる
一般人、一般団体に対し感謝状が贈呈されます。

この時ももちろん感謝状贈呈式が行われましたが、話題の中心は

何と言ってもそのあとの祝賀会で振舞われた、愚直たれと地元名産
「がんす」なるもののコラボバーガー、

「愚直たれがんすバーガー」

でした。
右側の海曹さんは、

「愚直でがんす!」

とポーズをキメています。

呉地方総監池海将の指導方針「愚直たれ」を具現化したタレ、「愚直タレ」と
がんすを使ったバーガーは、この夏に広島・岡山を襲った水害のあと
災害救難活動に活躍した呉地方隊が、

「地元を少しでも元気付け、盛り上げるために」

考案したというものだそうです。

海上自衛隊 練習艦隊帰国 11月30日

一連の行事を見届けた平成30年度練習艦隊が、いよいよ
約半年の遠洋練習航海を終えて横須賀に帰ってきました。

「かしま」から下艦していく新任幹部一人一人を敬礼で送り出し、
「かしま」の乗組員が降りていった後、舷側で帽振れを行う
泉博之練習艦隊司令官、「かしま」艦長、そして「まきなみ」艦長。

退艦する乗組員を自衛艦旗を振って激励する「かしま」乗員。

自衛隊音楽まつり 11月

ついこの間だった気がします。自衛隊音楽まつり。

音楽まつりには連続出場をしているアメリカ海兵隊軍楽隊。
ドラムメジャーは女性でした。
音楽まつりで女性ドラムメジャーを見たのは初めてかもしれません。

陸自中央音楽隊と第302保安警務中隊のプログラムで印象的だった
黛敏郎の「祖国」。
保安警務中隊の鍛え抜かれたドリルの美しさは圧巻でした。

今年の招待バンドは、まずフランスから、バグパイプとブルターニュのオーボエ、
「ボンバール」のバガッド・ラン=ビウエ。

全体演奏で彼らが活躍できるようにアレンジをした人、ご苦労様でした。

絢爛豪華なダンサーの衣装に大技を繰り出すドラムメジャーが印象的だった
シンガポール軍楽隊。

文字通り「SEA 海の護り」という曲を演奏した海上自衛隊東京音楽隊。

今年は入場前、自衛太皷経験者という元自衛官の後ろに並んでいたため、
自衛太皷が音楽まつりに出場するまでの秘話を色々と伺い、
音楽まつりに出てくる自衛太鼓のチームはまるで甲子園に出場する
高校野球のように「センバツ」されて来ていることを知りました。

長年謎だったこの防衛大学校儀仗隊のフォーメーションが

「蹴り渡せ」

という名前であることを知った記念すべき年となりました。
技の名前などについては儀仗隊のツィッターをフォローしていれば
ちょくちょく紹介してくれているようです。

空自は恒例のストレートラッパ隊(真ん中の人たち)と、
カラーガードの妙技に、ジブリシリーズというキャッチーな選曲。

陸海空の歌姫たちが、ついに「専属歌手」ばかりになる日がやってきました。

海上自衛隊呉地方総監池太郎海将を囲む会 12月2日

まさについ先日お伝えしたばかりですが、12月の将人事で勇退された
呉地方総監池太郎海将が人事発令の少し前に開催された「送る会」。

とりあえず公式発表前だったので「囲む会」というタイトルで行われました。

海軍時代から繋がる海上自衛隊の歴史上、退官記念パーティでダンスを踊った、
初めての、そしておそらく最後の海将となるのではないかとわたしは思います。

おうま

一人の自衛官が目の前でその自衛官人生を終わる姿というのを、
一般人のわたしはこの時初めて目の当たりにした気がします。
それは実に感動的なものでした。
 
 

海上自衛隊 阪神基地隊年末行事 12月8日

阪神基地隊の年末行事は「餅つき大会」です。
サマーフェスタのように艦艇が多数来隊するという訳ではなく、
隷下の掃海隊の掃海艇が一般公開されるという感じですが、

そのメイン行事は餅つき。

お餅はもちろん、この日振舞われたお料理は全て隊員の手作りだったそうです。

海上自衛隊東京音楽隊 第59回定例演奏会「ハートウォーミングコンサート」12月14日

今年最も印象的だったのはなんといっても東京音楽隊専属
ハープ奏者荒木美佳三曹がソロを取ったハープ協奏曲(ヘンデル)でした。

滅多に生で聴けない楽曲を聴くことが出来るのも自衛隊音楽隊コンサートならでは。

南関東防衛局主催防衛セミナー 12月18日

これ自体は自衛隊のイベントではありませんでしたが、自衛隊の所属する
防衛省の主催で、東京音楽隊のコンサートを

客寄せ目的で後半に催してくれたので、このカテゴリにあげておきます。

なんといっても、この年のイベント紹介の最後は
行進曲「軍艦」を歌う川上良司海曹長と三宅由佳莉三等海曹の姿で
飾るのがよろしいかと・・。

 

ご紹介してきたように、昨年もたくさんの自衛隊イベントに参加して
色んな体験をさせていただきましたが、今年もまた変わらず
皆様に見たもの聴いたことをのんびりとお伝えできればいいなと思います。

どうか今年もよろしくおつきあいください。

 

 

 

 


平成30年度 想い出アルバム〜自衛隊イベント編その3

2019-01-04 | 自衛隊

お正月の三が日、皆さんはいかがお過ごしでしたでしょうか。

わたしは海保観閲式で歩いた、横浜の港に行きました。
かつて引き込み線だったレールの跡をそのまま残した歩道を
跨ぐように建つホテル「ナビオス横浜」。

ここは知る人ぞ知る「海員会館」でもあります。

新年のあけおめメールをある元海上自衛官に送ったところ、
お正月をここで過ごすのを恒例にしていると写真付きで返事が来ました。

山下公園も久しぶりに歩いてきました。

氷川丸を繋留している鎖は決して揚げられることがないため、
ゆりかもめたちがお行儀よく整列して止まっています。

「かもめの水兵さん」

という歌が浮かんできました。

このあと、TOと映画「ボヘミアン・ラプソディ」を観ましたが、
満席状態で、日本人はクィーン好き、という噂を裏付けていました。

よかったですよ〜〜〜!

男同士のラブシーンは観ていてなかなか辛いものがありましたが、
特に最後の20分間、ライブエイドのシーンは圧巻で涙が溢れました。
猫好きにもおすすめ(笑)

 

さて、昨年一年で参加した全ての自衛隊イベントを振り返って、三日目です。
自分でもよくまあこれだけ駆け回ったもんだとちょっと驚きました。
その全てについてこれだけ事細かに報告しているわけですが、
仕事でもなければしがらみがあるわけでもなく、ここで詳細に報告しても
なんの報酬があるでなく、ただひたすら好きでやっているというのがね(呆)

この熱意はどこから来るのだろうと自分なりに分析してみたところ、
やはり根源はこの組織で働く人々への興味なのだろうと思います。

そして彼らが任務に当たる姿から一般人の視点で感じたことを、
共有したいという思いから当ブログでの発信を続けています。

その際、必要以上に皮相的な賞賛をしたり、或いは浅い知識で批判したり、
ましてや良かれと思って代弁者を気取るなどという態度は厳に慎む、
というのが、自衛隊に関わる一般人としての最低限のマナーだと思っております。

 

海上自衛隊八戸基地見学 5月某日

 

先般のレーダー照射事件で世界の注目を浴びることになったP-1は、
厚木の第4航空群所属で、警備区は事件のあった
能登半島近海のFEZにも及ぶわけですが、この第二航空群は東北にあって
日本海北部、北海道周辺海域を中心とした監視活動を行なっています。

この基地見学では、基地をあげての「見学コース」をご用意いただき、
P-3Cのエンジン換装の瞬間を整備室で見せていただくことができました。

後から別の自衛官に聞いたところ、わたしたちが見学する時間に
ちょうどこの瞬間が行われるべく時間調整して下さっていたとのこと。

また、P-3Cの内部見学はもちろん、ボムベイの中を見ることもできました。

航空基地で重要なのは航空火災に備える設備。
というわけで消防車に乗って放水経験などもさせていただきました。

管制塔、地下司令室など、撮影不可の部分にも潜入したぞ。

この時、哨戒中のP-3Cをモニターできるところがあったので、
今どこにいるかリアルタイムで教えていただいたのが忘れられません。

今にして思えば、先般の能登半島沖の事案って、厚木の基地はもちろん、
米軍ともリアルタイムで共有し、経過観察していたってことですよね?

うーん・・・韓国海軍、そのことも知っていながらなぜしらばっくれる?

ついまた画像をあげて羨ましがらせてしまう、八戸基地の喫食体験。
あのね、みなさん、もう本当にお世辞抜きでマジおいしかったんですよ。

聞けば士官と曹士の間に食事内容の差別は存在しないということ。
(違うのは来客用に設えられた立派な食器だけ)

三つ葉たっぷりの二色丼、煎餅の混入した八戸名物せんべい汁、
山菜の天ぷらなど、下手な料理屋よりずっと美味しくて・・。

ここの賄い食べるためだけにもう一度八戸に行きたいくらいです。

海上自衛隊阪神基地隊 サマーフェスタ 7月21日

もうとにかく異常に暑い一日でした。
しかし炎天下で行われるステージに出演するアイドルのために
開門前からファンが列を作って並んでいたというこの日のサマーフェスタ。

鉛筆細密画の菅野泰紀氏の作品展で展示されていたP-1の絵。

韓国側が今回のレーダー照射事件で、

「神風のように低空飛行してきた。日本は謝れ」

と言ってきているそうですが、つまり心象的にはこんな風だったってことですか。
なんでも韓国側では反論のための証拠動画を鋭意製作中とのことですが、
いっそ素材としてこの画像を使っては如何か(煽りまくり)

この日の阪神基地隊プレゼンツ防衛セミナーはなんとパネリストに
神戸のご当地アイドルを大抜擢しての開催となりました。

はっきり言ってかぶりつきのアイドルのファンたちにとって
内容はどうでも良さそうな風情ではありましたし、
そもそもアイドルがアイドルらしく全くの無知だったのも何でしたが、
正直、下手に小賢しく政治に首をつっこむモデルなんかより
芸能人としてはよっぽど分をわきまえていて好感が持てました。

自衛隊の防衛イベントとしては異色でしたが大成功だったと思います。

潜水艦救難艦「ちはや」の一般公開を行っていました。
潜水艦救難艦は実に見学のしがいがある自衛艦です。

DSRV、潜水艦救難艇やその電池のための専用の電池室(冷房入り)
だけでも、大抵の人には初めて見るものとなるはず。

この時「ちはや」が行ったえひめ丸の遺体収容活動についても語ってみました。

護衛艦「さざなみ」も岸壁に繋留されていました。
格納庫ではAEDの使い方や人工呼吸のやり方を教えるコーナーあり。

とにかく暑くて、甲板に上がるのも躊躇われるほどでしたが、
そんな自分に鞭打って一通り見学を終了。

基地構内のプールでは、模型潜水艦の展示も行われていました。
オーナーはラジコン模型を水中で操縦することが目標です。

陸上自衛隊総火演

例年これも艱難辛苦を乗り越えて見学している総火演。
今回は実際に行ったわけではなく、バーチャル参加です。

ちょうど開催日に息子の大学のオリエンテーションが重なってしまい、
せっかくのチケットを友人に譲って、アメリカからリアルタイムで
譲ってあげた人に強制的に報告をさせながら、ライブ映像を見ていました。

写真は実際に参加された方のものをお借りしました。

2018年は、陸自がその主装備を水陸両用車と装輪装甲車のMCVに切り替えた、
歴史的転換点だったかもしれません。

海上自衛隊潜水艦「おうりゅう」命名・進水式

高松行われた「しらせ」の艦上レセプションが台風で中止になり、
アメリカ帰国後最初の自衛隊イベントは「おうりゅう」の進水式でした。

三菱重工業で行われる式典は写真の撮影を厳しく禁じられているため、
式典の途中の経過をここでお知らせすることはできません。

ちなみに三菱での進水式は滑り降り式ではなく、注水式なので、
「日本三大がっかり」の一つ、という人がいたくらい肩透かしでした。

注水式とは、注水された船渠に潜水艦を3時間かけて沈めるので、
ずっとそれを見ているわけにはいかないのです。

自衛隊記念日 観閲式 

今年の観閲式総合予行は体育の日に行われました。

本来なら観艦式の予定でしたが、オリンピック開催の際に陸自駐屯地が

資材置き場となるため、順番を入れ替えたという説明がされました。 

陸自主体の観閲式はとにかく行進がメインです。

スペクタクル性には欠けますが、わたしはこの全軍が
行進してくる姿に軍隊の「練度」が表れるということもあり、
つまらないなどとは一度も感じたことがありません。

軍服での行進、その統制美にとにかく心が湧き立つのを感じます。

観閲式のためだけに結成され、行進の訓練を受けるという女性部隊。

落下傘降下、航空展示も予定通り行われました。
F-35の展示、オスプレイも本番にはやってきたようです。

そしてこの観閲式でも最も注目度の高買ったのが水陸両用車部隊でした。
待ち時間には新しく作曲された「水陸起動団の歌」も披露されました。

歌詞の後半は予想通り、「すーいりーくきーどうーだん〜〜」
となっていました。

アメリカ海兵隊の水陸両用車と陸自のそれが並んで祝賀車両行進をしたのも
今年の観閲式のクライマックスでした。

海兵隊部隊からは第3強襲水陸機動大隊が参加。

 

そして今年の関越を通して強調されていたのは

「クロス・ドメイン(領域横断作戦)」

という言葉でした。

簡単にいうと、宇宙、サイバー、電磁波といった新たな領域を
防衛という軸中心に横断して実現する体制の構築です。

観閲式本番には別のイベントが入り、参加は叶いませんでした。


続く。



平成30年度 想い出アルバム〜自衛隊イベント編2

2019-01-03 | 自衛隊

関東地方は晴天に恵まれ素晴らしい陽気の元旦でしたが、
皆様はどのようにお過ごしになりましたでしょうか。

わたしは日の出の時間にいつも歩きに行く公園で初日の出を迎えました。
いつもは誰もいない公園の芝生広場にご来光を拝みに来た人がいっぱいです。

ちなみに息子は鎌倉の高校の同級生のうちに泊まりにいき、
鶴岡八幡宮に二年参りに行ったそうですが、あまりにも参拝客が多く、
拝殿にたどり着くことができなかったと言っていました。

おせちはいつもの東京駅前ホテルの加賀料理の店で。
お雑煮は薄味かつおダシの鴨入りでした。

初詣は靖國神社で昇殿参拝に上がり、御祭神の皆様に
これからの日本の安寧と、ついでに家内安全をお願いしてきました。

境内では奉納芸能や獅子舞が催され、昇殿参拝に上がる人々で賑わっていました。


さて、2018年度に参加した自衛隊イベントご報告の二日目です。

海上自衛隊練習艦隊壮行会「かしま」艦上レセプション5月11日

東京湾晴海埠頭にて行われた「かしま」艦上レセプションにご招待いただきました。

金子純一「かしま」艦長が挨拶中。
練習艦隊司令官泉海将補(右)は、このレセプションでも

「三つのC(うれCおいCうつくC)」

を練習艦隊の目標にしたい、と皆を湧かせました。

「かしま」艦上でのこの日の自衛艦旗降下。

日が沈んで夜の灯りに包まれた「かしま」を退艦したその翌日は、

練習艦隊体験航海「まきなみ」乗艦 5月12日

で、同じ晴海から横須賀に移動する練習艦隊に座乗することになりました。
自分で書いていてハードなのにちょっと驚いています(笑)

晴海埠頭を出航した後、レインボーブリッジ下を潜ります。

艦上ではSH-60ヘリのローターを回す展示などが行われました。

「まきなみ」を追い抜いていく練習艦隊旗艦「かしま」。
この追い抜きがこの日の体験航海に参加した人たちにとってある意味
最大のイベントといえたかもしれません。

追い抜かす時に、「かしま」との間では発光信号が交わされました。

横須賀港に到着すると、「かしま」は一足先に入港作業を行なっていました。

自衛隊のイベントではありませんが、このこともお話ししておかなくては。

海上保安庁の観閲式、

海上保安制度 創設70周年記念観閲式および総合訓練 5月19日

に参加しました。
もちろん海保のイベントに参加したのは初めてです。

乗船した瞬間から下船まで、とにかく海自との文化の違いに
驚かされっぱなしの観閲式でした。
同じ海の安全を守る団体でありながら、運用はもちろん全てが全く別物です。

特に驚いたのが出航作業で、革靴に真っ白な手袋をつけた姿で
舫を手に持って捌いていく海自の出航を見慣れた目には、
甲板のウィンチで淡々と舫を巻き取る海保の方法は寧ろ斬新でした。

「海自が出入港作業をほとんど海軍時代と変わらぬ方法で行なっているわけは、
おそらく、彼らが乗っているのが海軍時代とおなじ「軍艦」だからです。

古より干戈を交えた時代を経て代々受け継がれ、研ぎ澄まされてきた作業は、
恐ろしく合理的で、武器を搭載することが第一義の甲板で行うことを考えれば、
これが最良の方法であり、それがゆえに変える理由もないのでしょう。

かたや、船の甲板を埋め尽くす機械で舫を処理する海保のやり方は、
安全で確実な出入港のために考えられた最善の手段であり、むしろこちらが
『普通』なのだということを、わたしは眼下の光景を見ながら思っていました。」

とこの時のわたしは観察しております。なるほどね(笑)

乗船していた船医どのは民間人。
お祖父さんの時代から「海保の船医」だそうです。

海保の観閲式はとにかく見ていて楽しいの一言です。
招待された船舶が色付きの水を放水するなんて、信じられます?

「飛龍」という名前が海保の放水船に既に取られていたことを知りました。
しかもひらがな表記で「ひりゆう」。

海保の救難訓練展示は「本気」と書いてマジモードでした。
ケミカルタンカーから転落した人をへロー降下して救出、
その後消火活動を行う、という筋書きで展示が行われます。

ただし水はかけるフリだけ。

訓練展示でもっとも観客が湧いたのが海賊船対処訓練でした。
トッケイと呼ばれる特殊警備隊が行う高速機動連携訓練。

不審船の周りをトッケイのボートが警告(という名の威嚇)しながら
円を描いて足止めを試み、その後色々あって強行接舷、乗り込んで海賊確保。

わたしの見た日には強行接舷と乗り込みは省略されていたようですが、
その壮絶さは訓練といえども顕で、海保の皆さんが日頃どんな現場にいるのか
片鱗なりとも知ることができた貴重な機会となりました。

あのP-1の動画公開で、自衛官が日々どのように任務を行い、
いざ、という時にいかに沈着に対処しているかに初めて触れた人々から
驚嘆と賞賛の声が上がったことは、あの事件の思わぬ副産物かもしれません。

日本の平和は実はこのような人々の日々の研鑽と、
危険を顧みない任務行動によって守られているということです。

アメリカ合衆国からもコーストガードのカッターが参加し、
海上自衛隊からは護衛艦「はたかぜ」が招待されて加わりました。

白と青の船列に加わるたった一つの「鉄(くろがね)の城」。
実際は灰色ですがそれはともかく、これがどんなに頼もしく強そうに見えたか。

この日参加した知人の全てが全く同じことを言っていました。

警備区の特色を生かした最後の「フェアウェル」も、
海自の観艦式では決して見ることのできない和やかな展示です。

わたしはこのおかげで「宮古島まもる君」の存在を知りました。

高知の警備に当たる第五管区「とさ」には坂本龍馬が写真のポーズで立っています。

個人的に注目した警視庁のピーポくん(怖い)


海上自衛隊練習艦隊遠洋航海出航 横須賀 5月21日

一連の出国関連行事に一通り出席させていただいた今回、
約半年にわたる遠洋航海に出発する練習艦隊を、いよいよ

横須賀地方隊の岸壁より見送る日がやってきました。

岸壁を離れる「かしま」の艦上と岸壁とで交わされる帽振れ。

海軍時代の練習艦隊もまた、全く同じしきたりの上に行われていたことを、
わたしはこの年紹介した大正15年度練習艦隊記念アルバムで確認しました。

わたしはこの後単身車で観音崎まで駆けつけ、そこから練習艦隊を見送りました。

護衛艦「いずも」横浜大桟橋寄港

「いずも」が大桟橋に寄港したという知らせを受け、
一眼レフでの夜間撮影の練習を兼ねて、
三脚持参で
ライトアップの写真を撮りに行きました。

くじらのせなかから見る「いずも」。
ポートタワーと「氷川丸」の電飾を背景に。

ちなみにこの「くじらのせなか」は、年明けの時には周りの船舶が
一斉に汽笛を鳴らす中、愛を誓い合うカップルで満載になるそうです。


海上自衛隊 掃海隊殉職者 追悼式 5月26日

毎年5月の最終週に金比羅神社で行われる、海上自衛隊掃海隊殉職者追悼式。
ここのところ、わたしは前日の立て付けから見学させていただいています。

立て付けが始まる前に、指揮官が金比羅神宮参拝を行うのが恒例で、
これを外から見届けるために本殿までの長い石段を上っていたら、
後から来た自衛官の集団にあっという間に抜かされました。

今年初めて拝殿に向かう呉地方総監、掃海隊司令以下の写真を撮ることに成功。

次の日の本番ではわたしは来賓席での参列となり、そこから
写真が撮れないので、立て付けの時だけ儀仗隊の前から撮影しました。

追悼式のために高松港に寄港している掃海母艦「うらが」では
毎回恒例の艦上レセプションが行われます。

「うらが」で自衛艦旗降下を行った一人は女性乗組員でした。
掃海艇はようやく女性の艇長が生まれたかどうかというところですが、
掃海母艦には女性隊員が普通に乗り組んでいます。

ライトアップされた「うらが」退艦後、掃海隊の撮影がライフテーマである
カメラマンのミカさんと高松名物うどんを食べに行きました。

翌日、追悼式の本番です。
参道にいきなり現れた白いセーラー服の儀仗隊に参拝客は目を見張ります。

この日の弔辞で元民進の小物議員小川某が掃海隊への弔辞に見せかけて
モリカケ疑惑をあてこすった安倍総理批判を「言い逃げ」し、
出席者のみならずその日のうちに全国的な顰蹙を買った、
ということを除けば、粛然としたいつも通りの追悼式典でした。

艦内帽を被った一人の出席者の後ろ姿が印象的でした。

 

続く。



平成30年度想い出アルバム〜 自衛隊イベント編 1

2019-01-02 | 自衛隊

お正月の特集編として、昨年1年間に参加した自衛隊での
イベントなどを駆け足で振り返ってみることにします。

あらためて写真を掲載するために画像フォルダを
次々と検索しながら、よくもまあこれだけ参加したものだと
その頻度に我ながら驚いてしまいました。

まずは年明けに行われた陸上自衛隊第一空挺団の「降下始め」から。

毎年習志野駐屯地訓練場で1月10日前後に行われる「降下始め」。
文字通りその年の安全を祈願し、一年に先駆けて精鋭集団である
空挺団の士気を高めるための伝統的なイベントです。

一年で一番寒い日の午前中に吹きさらしの中のイベント。
この年の寒さは特に厳しく、終わった時には体が硬直して
脚がふらつくくらいでしたが、大変見ごたえがありました。

大変な思いをするだけの価値はあると思います。

以前のように戦車が走り回ることはなく、サバゲーのような模擬戦、
そして空挺降下をフィーチャーした降下始めでした。

2017年の降下始めからは、アメリカ陸軍の特殊部隊、
グリーンベレーが参加して共同で降下訓練を行うようになりました。

ちなみにこれはアメリカ軍の指揮官です。

この時一眼レフに電池を入れるのを忘れたのですが、ニコン1の
優秀な望遠レンズはグリーンベレーの女性隊員のシニヨンを捉えていました。

降下にフォーカスしただけあって、惜しげなくふんだんに落下傘がばら撒かれます。

固定翼機、ヘリと飛び降りてくる航空機も様々。
ついでに、今までせいぜい空挺団団長だけだった「指揮官降下」ですが、
いつからか下は二佐くらいまで参加させられるようになった模様。

アメリカ陸軍特有のパラシュートで降下してくる女性グリーンベレー。

観客が騒然としたこんなアクシデントもありました。
右側の隊員の傘が左の傘に絡まってしまったのです。
絡ませた方はすぐさま補助傘を開き、この状態で無事に着地しました。

今年の降下始めは1月13日、8時30分より習志野駐屯地で開催です。


海上自衛隊 東京音楽隊第57回定期演奏会 シンフォニックコンサート 2月18日

この日は小野寺防衛大臣のご来臨を仰いだコンサートとなりました。

NHK大河「真田丸」に出演した俳優の村上新悟さんが司会。
プログラムの目玉はレナード・バーンスタインの楽曲でしたが、

個人的には歌手の三宅由佳莉三曹とTr.の藤沼直樹三曹の「美女と野獣」に
ハートを鷲掴みにされました。

海上自衛隊 呉音楽隊第48回定期演奏会 2月24日

呉音楽隊のサプライズプログラムは、呉地方総監が踊る星野源の「恋」です。

 

海上自衛隊 横須賀音楽隊 第52回定期演奏会 3月2日

東音と同じバーンスタインで攻めたこの日の横須賀音楽隊。
バーンズの「詩的間奏曲」といい、チャイコフスキーのメドレーといい、
横須賀音楽隊の選曲にはいつもやるなと思わされます。
 
中でも世界初演となった八木沢教司氏の
 
「烏山頭」〜東洋一のダム建設物語 
 
八田與一の台湾での生涯とその死、夫人の自死までを表現した
吹奏楽には大変感銘を受けました。
 
 
海上自衛隊 潜水艦「せいりゅう」引き渡し式 3月12日

2月はイベントが一つもなく、3月に入って出席したのは
三菱重工神戸造船所で行われた「せいりゅう」の引き渡し式でした。

川崎ではそうでもないですが、三菱重工では制限が厳しく、
埠頭では一切写真を撮ることができないので、宴会を撮るしかありません。

そこで引き渡し式会場の配置図を適当に描いてみました。

「せいりゅう」は「そうりゅう」型の9番艦です。

潜水艦「せいりゅう」入港式典 横須賀地方総監部

引き渡し式から役約1ヶ月後、「せいりゅう」が横須賀に入港しました。
この式典にも参加させていただくことができ、横須賀でお迎えをしました。

「せいりゅう」は第2潜水艦隊群第6潜水隊に配備されました。

「せいりゅう」が沖に姿を現し、着岸して乗員が上陸したのち、
彼らが岸壁で待っていたそれぞれの家族や知人と
邂逅する様子を目の当たりにし、感動したものです。

できたばかりの潜水艦でも水垢が付いているんだと思いました。

海上自衛隊 練習艦隊歓迎のゆうべ @大阪港 3月19日

江田島の幹部候補生学校を「表門」から出航した後、
我が海上自衛隊の練習艦隊は内地を巡航して周ります。
彼らが大阪港に寄港したときの一連の壮行行事に参加させていただきました。

まずホテルでの「歓迎の夕べ」。

練習艦隊司令官泉海将補の名言は、

「彼らにここ大阪ではユーモアのセンスを教えてやってほしい。
マナーは東京で学ばせます」

大阪での祝賀会は食べ物が猛烈な速さで無くなると実感した夜でした。

 

海上自衛隊 潜水艦救難艦「ちよだ」引き渡し式 3月20日

練習艦隊壮行会の次の日、わたしは岡山の玉野にいました。
玉野造船所で行われる「ちよだ」引き渡し式に参加するためです。

わたしは「ちよだ」の進水・命名式にも参加しております。
進水式、命名式に続き引き渡し式に立ち会うことができると、
その艦の誕生の瞬間と独り立ちを見届けた気がして大変嬉しいものです。

「ちよだ」の引き渡し式では忘れ得ぬ事件が起こりました。
自衛艦の引き渡し式では、艦に「命を吹き込む」べく、
乗員乗艦に先立ち、自衛艦旗が授与され、それは副長の手で
艦内に「初めて」持ち込まれ、艦尾に揚げられる、というのが
海軍時代から続く儀礼的慣習であるはずなのですが、
その受け取るべき自衛艦旗が用意されていなかったのです。

で、どうしたかというと、呉地方総監部の管理職が
全力疾走して海曹室の自衛艦旗収納ボックスから取ってきたと。

後から聞いたところ、自衛艦旗はもともと海曹室の箱の中にあり、
式典用に出しておかなくてはならなかったのだそうです。

「初めて艦に自衛艦旗が授与される」

というストーリーだったんですね。
中から取ってきた自衛艦旗が無事に艦長に授与されています。

そして「初めて」自衛艦旗が「ちよだ」に乗艦する瞬間・・・。
ここに写っている全ての自衛官は、おそらく同じことを考えていると思う。

この後に行われた祝賀会で、村川海幕長は

「我々に取って自衛艦旗がどんなに大切なものかが改めてわかりました」

とスピーチして皆を笑わせ、前代未聞のミスに暗くなっていた(某自衛官談)
自衛隊側は、この瞬間救われた気がした、ということです。

さすがは海軍伝統のユーモアを旨とする海上自衛隊の長、とわたしは驚嘆しました。

そうして「ちよだ」は玉野を出航し、横須賀に配備されました。

就役直後の5月1日には、「ちよだ」は伊東で
プレジャーボートから転落した男女5名を救難しており、また
6月には米海軍「マーシー」と衛生共同訓練を行うなど活躍しています。

海上自衛隊 練習艦隊「かしま」艦上レセプション 3月20日

同日夕刻、わたしは大阪にとんぼ返りしておりました(笑)
昨夜大阪のホテルで行われた歓迎会に続き、自衛隊の方が招待する
艦上レセプションに参加するためです。

さすが大阪、街角にビリケンさんがいるぞ。

驚いたのは、このレセプション会場では、今朝の「ちよだ」引き渡し式の
自衛艦旗事件がすでに話題になっていたことです。

これは、朝玉野にいて、夜大阪に移動した人が官民問わず多かったためです。

「大阪では食べ物が減るのが異常に早い」

ということも実証されました。

皆が乗艦するなり乾杯の発声を待たずものを食べ出すということも・・。


海上自衛隊 呉地方総監部 観桜会 3月30日

3月末には恒例の呉地方総監部の観桜会にご招待いただきました。
この時には特に意識していませんでしたが、この写真を改めて見て
例のピンク色の船が写っているのに気がつきました。

観桜会は2回目ですが、この前年度、呉は季節外れの雪に見舞われ、
教育隊の体育館が会場となったため、(もちろん桜は咲いていない)
旧鎮守府庁舎の前庭で、満開の桜を見ながらの観桜会に感激しました。

この時には、呉地方総監肝いりで整備された鎮守府時代の
旧海軍の地下作戦壕が公開されており、わたしも見ることができました。

中は危険なので、入り口のところに立ってこうやって眺めるだけですが、
それでも戦後ずっと放置されてきた旧軍の遺産を整備し、
一般人が見ることができるようにした地方総監の尽力には頭が下がります。

夕刻から日が沈んだ後まで行われた観桜会。
素晴らしい夕焼けに照らされる満開の桜と、最高の一日でした。

日が沈んだ後のライトアップまでが観桜会です。

旧鎮守府庁舎がライトに浮かび上がって幻想的な一夜でした。

海上自衛隊 呉潜水艦教育訓練隊見学

観桜会の前に、潜水艦教育訓練隊の施設見学をさせていただきました。
まずその前に、「てつのくじら館」に連れて行っていただき、
「愚直たれ」を使った呉総監ドッグを喫食体験。

呉地方総監部の自衛官であっても潜水艦でなければ入ったこともない、
この通称「潜訓」で、潜水艦士官にエスコートしていただきながら
内部を見学させていただきました。

空襲を受けなかったため旧軍時代の建物をいまだに使用しています。
向こうにアレイからすこじまと潜水艦基地が見えています。

ここで体験したのが「そうりゅう型」の潜行訓練装置。

好きに触っていい、と言われてぐいーっとレバーを押したら、
あっという間に床が傾いてすごいことになりました。
こんなレバーひとつであの大きな潜水艦が簡単に動いてしまうとは、
と驚きの体験でした。

 

続く。


明けましておめでとうございます

2019-01-01 | 日本のこと

 

平成最後の元旦を迎え、皆様に新年のご挨拶をさせていだだきます。
本年もどうぞよろしくお願いいたします。

P-1の画像を選択した理由は、皆様のご想像通り。

わたしも、あの動画を見て、クルーの冷静さに胸が締め付けられる思いでした。
彼の国は

「火器管制レーダーを投射されてあんなに冷静でいられるわけがない」
(だからP-1搭乗員の証言は嘘)

と言ったそうです。
レーダー照射を確認した後、ごく僅かですが声が緊張していたのが
彼らには平然と聞こえたのでしょうか。

ともあれ、あの動画が公開されたことによって、我が自衛隊の
練度の高さが図らずも世界中に発信されることになりました。

トップダウンで公開を決定した首相の決断をわたしは支持します。

 

エリス中尉