ゆずりは ~子想~

幼い葉が成長するのを待って、古い葉が譲って落ちることから名付けられた「ゆずり葉の樹」。語りつがれる想いとは・・・

お墓参り

2007年08月13日 | これも自分あれも自分
今日、私の実家の人たちと墓参りに行った。
ここには、私の父方の祖父母と叔母が眠っている。

わが子らと、甥、姪たちに、行きの車の中で、これからどこへ行くのか、そしてそこには誰がいるのか、そこにいる方たちの存在のおかげで、今の私たちが生まれてきたことを話した。一番小さな3歳を目前としたエリーも、真剣に聞いていた。

お墓に着いて、なんだかテンションが高くなる子ども達。
そんなはしゃぐ子ども達を見て思い出すのは、自分の子ども時代だ。自分も、今の彼らのように、いつもとは違う場所、そしてなんだか心が開放されるような不思議な空気を持つお寺とお墓にテンションが高くなって、お堂でも墓石の周りでも、体の中から湧き上がるドックンドックンという音を制する術をしらない子だった。
あの感覚は、大人になった今も変わらない。一緒にはしゃぐことはしないけれど、君たちの動きに心が着いていっている、そんな気がした。

帰りの車の中で、
「エリー、おじいちゃんとおばあちゃん、いたかなぁ。」と聞いた。
「いた、いた。」とエリー。
「いんやぁ、めんこいねぇ。って言ってたかもしれないねぇ。」とふと口から出た。するとエリーは、
「ううん、言ってなかったよ。」と答えてから少し考えて、
「言ってたかもしれない。」と、私に合わせてくれた。
私は、本当に、そう言っていたような気がしてならなかった。

夕方からは、実家の庭でバーベキューをした。
みんなで火を囲み、おいしいジンギスカンをいただき、花火の華やかさに心を打たれ、私たちのお盆をすごした。
夫のお墓参りにいけずに申し訳ないと思いながら。
来年は、行けるかな、鳥取のお墓に。

霊とか、お化けとか、信じられそうで信じられないのだけれど、自分の中から自ずと出てくる亡き人の影を感じる感情の波は、嘘ではないと思っている。
自分の頭が作り出しているものであったとしても、その時はその人のことを脳の無意識野で考えているのだと思うから。
そして、「ご先祖様は私たちを守ってくれているんだよ。」という父の言葉に、今年も心にじんわりと沁み込んだ。
私は、そんな父の言葉に守られている。ありがとう。


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