ゆずりは ~子想~

幼い葉が成長するのを待って、古い葉が譲って落ちることから名付けられた「ゆずり葉の樹」。語りつがれる想いとは・・・

充電した後は・・

2007年08月23日 | これも自分あれも自分
昨日、長い実家生活に別れを告げ、八戸に帰ってきました。
一年半ぶりに会う福岡の弟の顔を見るために、滞在を延期。その間に、白い恋人はことごとく店中から消えてしまいました。買っとけばよかった???記念に???なんの???

充実した夏休み。
病いを超えて、こうして元気に一緒に夏を過ごせるとは、入院した時には思っていませんでした。こんなに早く回復するなんて。
命が、その人一人だけのものではないということを実感した夏でした。
粗末にしてはいけない、命と人の心です。

「俺なんかどうせ、お母さんに嫌われてるんだから、生きている資格なんてない!自殺してやる!!」
そんなことを軽々しく口にしたかと思うと、蟻をいじめるエリーに向かって、
「蟻にだって命があるんだから、いじめちゃダメだよ!」と言う甥っこ。
近頃の思春期の子どもの二面性を垣間見た気がしました。
家に幼い子どもが加わると、お母さんの体は赤ちゃんに捕らわれてしまいます。心も、なんだか防衛本能のごとく、赤ちゃんを守る体制に変わってしまうものです。
私の場合、たとえ同じお腹から生まれた子どもでも、赤ちゃん以外の子どもは危険生物であるがごとくの態度を取ってしまう時もありました。思わず怒ってしまう、思わずきつい言葉を言ってしまう、思わず睨んでしまう・・・。その「思わず」が、なんだか「日常」になってしまって、その「日常」に麻痺してしまう自分がいました。
そんな日々を過ごしていたとき、サーヤは言いました。
「エリーが生まれてから、ママはサーヤのことを怒ってばかりいる。」と。
言われた時は、ああそうだねぇ、ごめんねぇ、だけで済ませてしまいました。
しかし、しばらくして、彼女から悲痛な手紙をもらいました。そこには、彼女の心の叫びが書かれてありました。
「ママへ
 サーヤは、ママにおこられるのがつらいです。
 つらくてつらくて、いきているのがいやになってきます。
 しにたくなってしまいます。
 だから、おこらないでください。おねがいします。
 だいすきなママへ サーヤより」

必死の訴えでした。私の眠るはずの枕元に置いて、彼女はその隣に寝ていました。その姿を見て、この子がまだここに生きていてくれてよかったと思いました。手遅れになる前に、今までの怒りが日常化し、麻痺していた自分を改めなければならないと、真剣に考えました。彼女からのサイン、見逃すわけにはいかなくなりました。

子どもと対峙しているとき、自分の思い通りに動いてくれると、何事も効率的に済み、母としてはとても楽に過ごすことができます。が、子どもだって人間です。そして、どんどん自分の考えや自分の効率的な行動パターンが出来上がってきます。そこには、親である自分のペースとは合わない部分も出てくるのが当然です。私たちは、おとな社会では、相手とのペースを上手に合わせたり、合わせてもらったりしながら自然とコミュニケーションを取っています。が、相手が我が子となると、なかなかそのように上手にペースを合わせることができなくなってしまいます。どうしても、指示指導したくなってしまうのです。子どもはもう、右も左も分からぬ赤ちゃんではなくなっているのに。
子どもは成長しているのに、親はその成長に着いていっていないのです。
子どもと自分とは、まったく違う人格であることを忘れてはなりません。
人生ゲームのコマを決めるのに、「あなたは赤にしなさい、就職はこれはやめて、少し待ってみなさい、いやこれにしなさい・・・。」
彼女の人生、私がコマを決めるのはおかしいのです。
彼女が泣きたいときは、泣かせてあげるのがいいのです。
彼女がやりたいことは、やらせてあげるのが早いのです。
彼女の思うとおりに、やらせてあげると納得するのです。
危険なこと以外ならば、気が済むまで付き合ってあげるのが、きっといいのです。

川の色や、木々の色も、彼女の思うとおりに描いたらいいのです。
なんでもかんでも、口に出してしまいそうになる私への、注意勧告!!
ほんと、誰よりも未熟者な私です。
さーて、始業式まであと残り一日。宿題残り二つ、できるのか???
母は何も言わないようにする!ぞ!!

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