鹿島神宮参道
前回の記事でアップしたAngela Hewittの演奏動画がいつの間にか削除されていたので驚いた。
たぶん著作権を侵害していたのだろう。
それにしても、あの名演がもうみれないかとおもうと……なんともいえない気持ちになる。まさに一期一会…その前の記事に書いたあの名画と同じで、本当になんとも言えない。あの名画の場合はもう再び見れないだろうという覚悟をしながら見たので心の準備はできていたが、Angela Hewittのあの演奏だけはいつでもまた見れると思っていたので、心の準備ができておらず突然のことで喪失感が大きい。
まぁ、この辺がいかにも人生らしくていいといえばいい。
それはともかく、長年の願望だった茨城県にある鹿島神宮に参拝してきた。
関東に住みながら、しかも精神世界系のことにこれほど深い興味を持ちながら、この神社と香取神宮に行かないのはあまりにももったいないと思っていたので感慨無量である。
行ってみてまず感じたことはやさしさである。優しい神様だなと感じた。
いままでいろいろな神社に参拝してきたが、自分の信仰している神の神殿を除いてこれほどの優しい気を感じたことはなかった。
もちろん、気のせいだといわれればそれまでかもしれないが、たいていの神社は凛としていて清らかだがどこか厳しい、厳格な威厳のようなものがあって、何かかしずかなければいけないような気を感じてきた。
ところが、この鹿島神宮に関してはとにかくやさしい、たとえれば故郷の家族に歓迎されているようなそんな感覚をおぼえた。
それとこれだけの大社にもかかわらず、そして、比較的多くの参拝客がいたにもかかわらず、俗化されていない雰囲気を持っていたのも印象的だった。それはひとえにこの神の神格の高さゆえではないかと思う。
印象に残ったのは奥宮で、僕の尊敬する家康公が建てたものが移築されているとはいえ、そのまま残っていたことだ。ここにあの家康公も参拝されたのかと思うと…感無量だった。
それからだいぶたってからだが、昨日、今度は僕自身が信仰している神のもとに行ってきた。
コロナやそのたさまざまなことで少し精神的に参り気味だった時に行ったのだが、神殿の中で座っていると何とも言えない安心感に包まれていった。
そう、たとえなにがあろうと僕とこの神様のきずなは切れない。おそらくは永遠に。何者もそれだけは奪うことはできない、そう思った時自然な安心感に包まれていった。
しかも僕はこの神の実在をこの目で確かめている、このおそらく非常に稀有な幸運を授かっているということからくる安心感はたとえようもなく大きい。ブッダの言葉ではないが、「もろもろの事象はすぎゆくものである」、でも、この神とのきずなだけは時を超越している、僕にとってこの想いはどんな金銀財宝、地位や名誉などにも代えがたい宝である。
ということで、ここ最近体験した2柱の神々との邂逅を記してみました。
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