気の向くまま足の向くまま

できうるかぎり人のためになることを発信していきたいと思っています。

生きています

2023-04-24 21:29:29 | 日記

 

 

 

 

 私は生きています(笑)
しばらく更新してなかったのでもしかしたら?と思った方もいたのではないか。残念ながら、いや、幸いにも私は生きています。
 といっても特に書くことはない。ただ、この間僕が経験したことを思いつくままに書いていきたい。

 といっても...実はそれほど変わったことはない。ただ一つだけ、重大な変化はあった。それはいわゆる「彼女」といわれる存在が僕にもできたことだ。ひかりの時間にあるときはたとえようもないほど幸福だ。自分に深い好意を寄せている異性が自分の人生にいるというこの事実は、やはり大きな幸福を僕に感じさせる。同時に強い責任感も感じている。自分はこの人にふさわしい人間なのかどうか、この人の一生を預かることになった場合、自分はそれをまっとうする力があるのか、とかいろいろ考えさせられる。

 

 

 それ以外では何があるだろう、そうだ、今年の大河ドラマ「どうする家康」は僕にとってとても注目している大河ドラマだが、残念ながら多忙で見る暇がないというのが実情だ。でもこの間2回だけ見た。おもったのはなかなか面白い家康像だなということ。前回の家康を主人公にした大河ドラマで描かれているのがたぶん日本人が一般的に持っている家康のイメージだと思う。

 今回まだ2回見ただけだが、よりいままでのステレオタイプから踏み込んで、もっと深い部分に肉薄しようとしているように見える。
僕自身、本当に家康ってどんな人だったのだろうかと思うことは頻繁にある。
 彼がいま存在していない以上、彼が行ったこと、言ったこと、などから推察する以外にない。

 僕は研究者ではないので、まだまだ読んでいない資料がたくさんあるから本当に数少ない資料、史実から推測するしかない。
一つだけ思うのは、この人は江戸時代以降いわゆる世間一般に広く浸透している「ずるがしこく、慎重で、策士」というイメージとはかなり違う、むしろそれとは正反対の要素を非常に強く持った人物ではないか、というのがぼくがこの数年感じていることだ。彼ほど大きな、滑稽なほど大きな誤解を受けている歴史上の人物はたぶん日本史にいないだろうと思う。

 

 

 しかし、彼がそう誤解されているのはある意味しかたがないのかなという気もする。
というのもかれの精神の根底にある特質は一般的に外側からは見えにくいものだからだ。彼が仮に現在生きていたとしても、おそらくその特質が周りに広く理解され、愛されるということはないだろうと思う。やはりそれは外側からは見えにくいものだからだ。

 中国の偉大な歴史家、司馬遷は中国春秋時代の斉の名宰相、晏嬰(あんえい)をいたく尊敬していて、自分はこのひとの御者になってもいい、というほど敬愛の念を抱いていたという。僕は家康の馬引きか料理人になりたいと思うほど家康に対してつよい敬意を抱いている。

 これからいろんな新しい資料が発見されたり、僕自身が既存の資料を読んで、この人物にたいする印象が変化するのかしないのか、するとしたらどんな風に変化するのか、とても興味がある。そしてその過程が、どれだけぼくを真実の家康像に近づけてくれるのか...ということに興味を持っている。

 

 

 それ以外では、特にかわったことはない。あぁ、ひとつだけある。それは精神世界系の動画に実に質の高いものがたくさんあるということに最近気づき、大変な感銘と影響を受けている。正直、時代はここまで来ているのか!という思いでいる。僕が小さかった頃、若かったころにはとてもとてもこんな進んだ時代が現実に来るなんて想像だにできなかった。これはたぶん、江戸時代末期に子供時代を生きた人が年を取り老年期を迎えるころには、電話や自動車、電車などが生まれて実際にそれを目にした、そういう感覚に近いだろう。今時代は急速に変化している。ただ、それを見る「眼」をもってないひとには、何も変わっていないようにしか見えないかもしれないが。

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