先日、愛犬の散歩をするために昭和記念公園に行ってきた。
実はパステル画を習っている先生がこの公園を中心に描いている人なのだ。
今日その先生のブログを見て、ちょっと考えることがあった。その中の「負けず嫌い力」と題された日記である。
そのことを書く前に、先日昭和記念公園に行って思ったのは、僕にはあらゆるものが平凡にしか見えなかったということ。
なのに、あの先生はこの「平凡な」風景をあれほど豊かに描いている…
実は僕は、自分の自然を見る感受性に多少の自惚れがあった。でも、どう見てもあの先生が描いた絵のようには見えない。
あの先生には僕に見えないものが見える、この僕には平凡にしか見えない風景を見てあれほど豊かに、美しい絵を作り出す。
もちろん、絵というものはどんなに精密なリアリズムによって描かれたものでも、その人の内面世界の反映であるのかもしれない。
あの日記の中に述べられているあの先生の「公園」というものに対する特別な思い、があのような見事な絵を生み出しているともいえるだろう。
しかし、それだけなのだろうか。あの人には僕には見えない「何か」が見えているのではないだろうか…そのことがずっと心の片隅に引っかかっている。
あの先生のツイートは時々読んでいる。たまにツイートを送ったりもする。
きちんと返事が返ってくるので、とても誠実な人なのだな、という印象を持っている。
それらのツイートを読んでいて、確かにたまに「おや」と思うものもないわけではない。
ただぼくはそれをよんで「どうしたの?」なんてわざわざ思わないし、またそれをあの先生に伝えたりもしない。
この世で生きている生の人間である以上、「暗さ」「闇」の部分があるのは当然だし、そういうところに僕はかえって親しみを感じてもいた。
ゴッホはもちろんだが、ゴーギャン、レンブラント、ドガ、ユトリロ、ムンク、ルオー…みんなそういう一面を表現することを厭わなかった。
彼らがもしそういう一面を持たず、また、表現しなかったら、彼らの作品はただのポスター、あるいはよく町で売られているファンタジーっぽい絵と同じではないだろうか。
それはよくできた絵ではあるかもしれないが、芸術ではない。
「画壇に出られない」「同じところばかり描いている」
こんな失礼なことを直接言う人はまさかいないと思うので(ごくまれにいるが[笑])、たぶん第三者の口からあの先生の耳にでも入ったのだろうと思う。
それを受けてのあの日記なのだろうと想像する。
画壇に出られないということは僕は考えたことはなかったが、今回昭和記念公園に行ってみて、僕の眼にはおおむね平凡にしか映らない「同じところを」長い期間、あれほど変化に富み、美しく、愛情をこめて描きこんでいるという事実に、かえって僕は感心している。「愛」がなければできないと思うからだ。
彼女の文面からも想像できるように、彼女のツイートに、ある「暗さ」がにじみ出ているとしたら、それは他人が詮索するような通俗的なことではなく、もっと人間存在の根源的な苦悩、あるいは根源的な闇であろう。特に彼女のように将来への不安や生活苦を厭わず、芸術を極めようとしている人ならばなおさらそのようなものを持っていて当然である。
ちょうどこの日記と符合するように、ルノアールを描いた映画のCMに印象深い彼自身の言葉があったのを思い出す。
「現実の世界には悲しい出来事がいっぱいある。だから、私の絵は美しく愛らしいものでなくてはならない」
あの楽園のような絵をかくルノアールがこのような言葉を残しているのだ。
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