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森長可の遺言状

2014-04-14 02:29:44 | 歴史
 大河ドラマを見ていたら、加古川評定というのが昨日放送されていたので、いろいろと調べていると森長可という戦国武将の遺言状についての記事にたどり着いた。
正直、衝撃を受けた。あまりにもなまなましく書いた人の心の内側が垣間見えるからだ。

 僕の昔のブログに斉藤道三の遺言状を読んだ時のことを書いたことがあった。道三が討ち死にする前日ぐらいに書いた遺言状だが、あれを読んだ時の衝撃以来である。
この遺言状には司馬遼太郎も心動かされたらしく、わざわざそのテーマでエッセイを書いている。

 
 森長可というひとは美濃のいわば国人衆といわれる人であろう、早くから信長に帰属してその配下で活躍している。彼の弟に本能寺で信長と一緒に亡くなった森蘭丸がいる。
さてとりあえず彼の遺言状を紹介したい。

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『覚

一・澤姫の壺、秀吉様へ進上、ただし今は宇治にあり。
一・台天目、秀吉様へ進上。仏陀(寺)にあり。
一・もし討ち死に候はば、此分に候。母に候人は、堪忍分秀吉様へ御もらい、京に御入り候へく候。
  せん(忠政)は今の如く御側に奉公の事。
一・我々の跡目くれぐれ嫌にて候。この城(兼山城)は要にて候間、確かなる者を秀吉様より置かせられ候へと
  御申之事。
一・女共は急ぎ大垣へ御越候へく候。
一・悪しき茶の湯の道具、刀、脇差、せんに御取らせ候べく候。何れも何れも仏陀の如く御届け候へく候。
  仏陀の他は皆せんに取らせ申し候。但成次第此由御申候へく候。

天正十二 三月廿六日あさ     むさし

尾藤甚右衛門(知宣)さま 申給へ


又申候、京の本阿弥所に、秘蔵の脇差二つ御入り候。せんにとらせ申候。尾甚(尾藤甚右衛門知宣)に御申候へく候。
おこう事京の町人に御取らせ候へく候。薬師のやうなる人に御し付け候へく候。母に候人は、
かまいてかまいてかまいて京に御入り候へく候。せんもここもと跡継ぎ候事嫌にて候。
十万に一つ百万に一つ総負けになり候はば、皆々火をかけ候て御死に候へく候。
おひさにも申候。以上。』


「戦国ちょっといい話、悪い話」より
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末弟の千丸は今のまま秀吉様に奉公しなさい。千丸を自分の後継者にすることは絶対にいやである。
おこうは京都の町人か医者に嫁がせなさい。
千丸にこの金山城を継がせるのはいやだ。けれども万が一秀吉方が敗北したら、全員火をかけて死ぬこと。」


 この遺言状は長可が討ち死にする約2週間前に書いたものである。
この人はこれまでにも死地を何度もくぐってきており、なぜこの時だけ遺言状を書くことになったのか…虫が知らせたのかもしれない。
 森家はほとんど全滅といってもいいほど、家族のほとんどが戦死している。
兄、父、3人の弟、すべて戦死である…壮絶といっていい。

 その視点から上の遺言状を見ると、

「せん(忠政・長可の末弟)は今の如く(秀吉の)御側に奉公の事。」つまり、危ない戦場に出る国もち大名ではなく、秀吉の御側衆として安全な場所にいてほしいということを意味している。

また、
「おこう事京の町人に御取らせ候へく候。薬師のやうなる人に御し付け候へく候。」
おこう(長可の娘と推測される)は、町人の嫁にしてくれ、いつ死ぬかわからない武士の嫁にしてはいけない、と言っているように見える。

「我々の跡目くれぐれ嫌にて候。」 我々とは複数形だが長可のこと、つまり、自分が死んだ後に弟に後を継がせるのは絶対に嫌だ、と言っている。この「くれぐれ嫌にて候」の「嫌」という言葉は、まさに我々が今現在使っている「嫌だ」と全く同じ言葉づかいであり、非常にエモーショナルないい方であることにひきつけられる。
 とくに、この遺言状は主君である秀吉の目に最後は触れることを前提に書いており、その見地から言っても異様といっていい。

 長可の半生と彼の一族の命運を知るにつけ、ぼくはこの「くれぐれ嫌にて候」「せんもここもと跡継ぎ候事嫌にて候」という言葉にこめた彼の悲痛な叫びとでもいえるものを看過できない。彼は決して臆病者などではなく、戦場での勇猛さから鬼武蔵という異名を持っていたという。それほどの人がここまで書くのである。彼の人生が、戦国という時代が、いかに壮絶悲惨、酷薄無情な、現代人の想像を絶する世界であったことをうかがわせる。

そして末尾の言葉を見た時、…絶句した。

『十万に一つ百万に一つ総負けになり候はば、皆々火をかけ候て御死に候へく候。
おひさにも申候。』 

 10万に一つ、100万に一つこの戦(小牧長久手の合戦)で秀吉方が負けるようなことになったら、一族全員郎党火をかけて死になさい。
『皆々火をかけ候て御死に候へく候』これは冗談でも比喩でもない、まさに文字通りの命令である。しかもおひさというのは女性であろう。こういう言葉を自分の家族に残さざるを得ない時代、というものがこの日本に存在していたのだということ…修羅という言葉があるが、まさに、修羅の世そのものである。

 この遺言状に残された「くれぐれ嫌」という言葉に、生の人間の息吹、嘆息、叫びさえ聞こえてきそうな思いがした。そして短い淡白な戦国人らしい文章の行間から垣間見える優しさ、人間味、それに加えて、戦国時代というものの特異性とそれが当時の人間に強いた運命というものをおもうとき、もうそれを表現する言葉などは出てこない。 
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