気の向くまま足の向くまま

できうるかぎり人のためになることを発信していきたいと思っています。

陰陽の反転

2014-10-24 04:37:50 | 日記

 最近時々ユーチューブでホームレスの動画を見たりする。
なぜかというと、自分がもし食いあぶれたらやはり彼らのようにならざるを得ないだろうし、どうやって食料を手に入れているのか等、そうなった時に備えて彼らの暮らしぶりを見ておこうという意図からである。

 なんて馬鹿なことを縁起でもない、と思う人が大半かもしれない。
でも僕の場合、そうやって心の片隅で最悪の場合を想定して準備しておくことで、何か逆に肝が据わってくるのだ。

 曽野綾子もまだ駆け出しの作家のころは、よく新聞の求人欄に目を通していたという。
もし作家で食べていけなくなったら何をやろうかと考えていたからだそうだ。
 僕には彼女の気持ちはよくわかる。

 あらかじめ最悪の事態にどうなるか想像しておくことで、恐怖心をコントロールしようとしていたのだろうと思う。

 最近はやりのなんでもポジティブに考よう、というのとは真逆の生き方である。
でもこういう備え方が僕のような人間には、やはり合っている。
 無理にポジティブなことばかり考えようとすると、かえって不安が大きくなってくるのだ。
ネガティブシンキングが僕の場合、かえって力を与えてくれている。

 これが結局僕の「器」なのだろうと思う。
やはり成功する人、いわゆる人もうらやむ人生を生きられる人々は、こういうときでもポジティブに考えられるのだろう。そしてそうしても何のストレスも感じないのだろう。
もともと、心の耐性、筋力が違うのである。

 そういう人々と僕のような人間を同列に並べて、ポジティブに生きていこう!と明るく言われても土台無茶な話である。
普段継続的に思考していることが、物質化してその人の現実になるということを体験的に知っている僕でさえそう思うのだ。

 いずれ近い将来、日本が経験するかもしれない戦争直後以来の財政破たんにしても、そういうことに全く興味のない人、わからない人を除いて、多くの人々はあえてそんな暗いことは考えないようにしているのだろうと思う。そんなことは考えても仕方がない、その時はその時だ、と。

 僕はそれではかえって不安なのである。
僕は、いろいろと考えている。ハイパーインフレが来て日本の通貨が事実上、無価値になって、ワイマール共和国時代のドイツのように紙切れになったとしたら、どうやって生きていくかしきりに考えている。

 普通は最悪の事態を考えることによって不安になるのだろうが、僕の場合は考えることによって不安や恐怖を排除しようとしている。
幸いにも原発事故直後から郷里の田舎に避難しそこで生活した経験が、この先日本の財政破たんが来て通貨が役に立たなくなった時にどうすればいいのかのヒントを与えてくれている。
そしてその「ネガティブ」な思考が、かえって僕に力を与えてくれている。

 ヨーロッパの一部の国やアメリカの一部の州では、安楽死が合法化されている。
もちろん、末期の不治の病に侵されていてもはやどのような医学的治療を用いても回復の見込みはなく、その病気から生まれる言語に絶する苦痛、激痛、苦悩から解放されない場合のみという厳格な条件付きであることは言うまでもない。

 これにちなんだある人の言葉が報道されていて、それがとても印象的だった。
それは、この制度(安楽死)があるおかげで、苦しみなく眠るように死ねるという保証ができたわけだから、これで生きていくことが怖くなくなり、生きる勇気が出てきたというものだった。
僕にはこの人の気持ちがよくわかる。

 人生の最大の恐怖はやはり死である。しかも、多大な苦痛を伴う死である。
現代の不治の病にはそれが伴う可能性が高い場合が多い。だから、それをさけるためにその前に自死を選ぶ人も多いと想像する。
しかし、自死を選ぶまでの心の軌跡そのものも地獄の苦しみであろう。

 それに対する恐怖に、たとえ健康な人でさえも、生きる気力を奪ってしまうほどに絶大な影響力を持って支配されてしまうこともあるのは、僕にはよくわかる。
とくに、だれか親しい人を不治の病で亡くしたその過程を見た経験のあるものほど、そう思うだろう。
 やがては自分も苦痛、苦しみの中で死ななければならないのかもしれないということへの恐怖は半端なものではない。

 安楽死は悪である、と物知り顔で説教をする人は、ちょうど戦場に行ってそこの阿鼻叫喚の生き地獄を見たことのない人が、自分は安全な場所にいながら自国の民に向かっては国のために戦って死んでくれ、というようなものであろう。すくなくとも「戦場」を見てきた僕にはそう思える。

 ところが、合法的に最後の最後には安楽死が認められている場合、その恐怖からは解放される。
ちょうど例えれば、下にセーフティネットが張られた空中ブランコに乗るようなものであろう。たとえおちてもけがをすることもなく激痛を感じることはないので、思いっきり飛べる。

 これなどもネガティブな(と考えられている)要素が、かえってポジティブな結果を生み出す具体例だろう。
要は覚悟が決まり肝が据わってきて、なんでも来い、という気持ちにさせてくれるのである。
 
 いわゆるポジティブ思考とは真逆の考え方だが、それはそれでよく、どちらが優れていてどちらが劣っているという問題でもない。
ただ「違う」というだけである。




   


 

 

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