お友達のreraさんが「あんじゅさんは赤毛のアン」のようだとコメントを下さった。
「赤毛のアン」みたいだなんてもったいないお言葉だが、私がアンのような素敵な人間でないにしても、自分で言うのもなんですが、振り返れば私の歩いてきた道はかなり赤毛のアンちっくな面白さにみち満ちているのでありました(笑)
というか、かなり現代に生まれ育った割に、田舎だったことも良かったのか、周りにはまだ自然がいっぱいあり、高まる近代化の波にぐいぐい押されながらも、古きよき時代を振り返る余裕なんていうのも出てきたころだったのかも知れません。
とにかくあんじゅの周りはアン以上に面白い珍事件に満ちておりました。
赤毛のアンの中で、町を上げてのピクニックにアンがはじめて参加してアイスクリームを食べるってシーンがあるけれど、ピクニック、遠足といえばかなりの思い出があります。
うちの両親はあたし以上に飛んじゃってる面白い方々で今思い返しても「うーんすごかったなあ~」と言うことが多々あります(^^;)
たとえば遠足のとき、貧しいのになぜかお弁当が「五段重」くらいありました。
実は私の家は私が2年生くらいまでは、県でも有数のお金持ちだったのです。
お金があるときもなくなってからも変わらなかったのは「イベント」を大事にすること。
そう、季節の行事をとっても大切に面白おかしく楽しく祝うのであります。
まあ、さすがにその金額には差がありますから、結構違ったんでしょうけど、
そのときの精一杯で祝うもんですから、いつも目いっぱい「豪華」でした。
そんな中に「遠足」というイベントがあります。
私は体が弱かったので行けた遠足も数えるくらいですが、その数えるくらいの遠足で持っていったお弁当が持っていけないくらいの大きさだったんですねえ(^^;)
だって~リュックのほかに風呂敷とか紙袋で持っていくんですよ?
「何人分だっつの?」って位の量を。
で、持たされるとき「みんなで食べなさい」って言われるんです。
私、学校に言ってない上に、ちょっとつーか、かなり変わった子で全然友達作らなかったんです。つうか、いらなかったんですよね、そこころは。必要性感じなくて。
だーって話し合わないし、一緒に遊んでも全然つまんないんだもん(笑)
それくらいなら図書館で本読んでた方がよっぽどましだったの。
でも三つ下の妹は明るく可愛くなんと言うかアイドルだったんでお友達もたくさんいて、きっと親は(母は)なんかそういう差を感じてたんでしょうねえ。
私はなんとも思ってませんでしたが。
反比例して父は「豪勢な弁当作ってもたせてやれ!」ってそれだけだった気がしますけど。
おかげで遠足のときは人が群がってきてましたね。(弁当に)
そのお弁当で一番心に残ってるのが、忘れもしない小6の時のスケッチ大会の時のお弁当です。
朝出かけようとしたら父が「弁当は届ける」って言うんですよ。
「はい?」と思い、「いや、届けられても困るんだけど・・・」って言ったら、
「俺がいなくちゃ成立しない弁当だから届ける」って言い張るんで、
「じゃあ来てもいいけど、先生にちゃんと説明しなさいよ」って言って出かけました。
港で「おいおい一体あのおっちゃんは何をする気なんだよう;。;」
って来もそぞろで絵を書いておりますと、来ちゃいましたよ、お弁当の時間が。
するとやってきました「父」が。両手にでっかいビニール袋二つもって、母を従えて。
入ってたのは「バンズ」と「野菜(トマト)(レタス)(たまねぎスライス)」と「ハンバーグ」です。
そう、まだそんなにマックも浸透してなかった田舎ではハンバーガーは珍しかったのです。
父はあっけにとられているみんなの前(つか、あきれている私の前)に座りますと、おもむろにシートを広げ、バットを並べ、材料を盛り付け、パン1個とってバターを塗るとハンバーグを乗せ、レタスを載せ、たまねぎを載せ、トマトを載せて、ケチャップとマヨネーズかけて、その両親の連携プレーのすばらしかったこと。
出来上がったハンバーガーを「ほい」と私に渡しました。
「・・・。」私は黙ってそれを食べました。いや、それが以外にうまかった(笑)
すると父はクラスの違う親友の女の子を手招き「Sちゃんもたべるかあ?」といいつつすでに作っている(^^;)
私と親友は見つめあい、無言のままアイコンタクトを取り、
ならんで海を見ながら黙々とそれを食べました。
ハンバーガーを食べたことのない子達が遠巻きにそれを見ています。
すでに先生たちは近寄ってくる気配すらない。。。
父はまだ30個ほどあるパンの横で手招きをし、「食べるか?」と。。。
そのうち周りはハンバーガーを持つ子供だらけになって。
父はすべての材料ががなくなると何事もなかったようにさっさと片付け、横で笑っている母を連れて去っていきました。
と、まあ強烈におもしろい出来事だったわけです。
その日をきっかけに私は生のたまねぎをおいしいと思えるようになりましたが。
とにかくそんなおもしろーいことばっかりがあった気がします。
学校行かずに森や野原に潜んだり、空家に忍び込んで部屋作ったりなんてしょっちゅうでしたねえ。
赤毛のアンには無二の親友「こころのとも」のダイアナって子が出てきますが、私にもそういう親友が二人いたんです。
なんでそのこたちとは話せたのかって言うと二人とも本当の意味で頭が良くて面白かったんです。
多分、大人たち、ふつうの子供たちから見たら相当変わってる二人だったと思いますけどね。
特にSちゃんは私から見たら「赤毛のアン」に匹敵する人でした。
彼女とは小さいときからの友人でしたが、二人の時間はとてもエキサイティングでしたね。創造に満ちてました。
彼女は画才と文才にものすごく秀でていたんです。
彼女の感覚のすばらしさにはもう拍手するしかないくらいで。本当に頭良かった。
ところが彼女は学校では一言もしゃべらない。だからみんな彼女のすごさがわかんないんですね。
彼女との思い出の中で特に覚えているのはクリスマスや誕生日などの贈り物です。
二人の間では「手作り」が暗黙の了解とされていて、いろいろと工夫しては贈り物を作り上げていました。
彼女の大好きな本の主人公を人形に仕立て、クッキーの空き箱をうまく作り変えて箱詰めしたり、あるときは彼女からカップをもらい、その中に紅茶パックがひとつ入っていて、あけてみるとその紅茶パックの中身が手紙になっていたりしました。
あるときはなぜ今日プレゼントがないのかを説明したマンガをもらったり(笑)
(後日、この体験をもとにテストのとき「なぜに自分はこの答案を白紙状態で出さねばならぬのか」うをテーマにテスト用紙の裏に延々とエッセイを書き、理系のテストで40点もらったのは紛れもないこの私である^^;)
いらない布や紙を集めて貼り絵をし、世界に一冊しかない絵本を作ったり、詩集を作ったり、小説を書いたりしました。
ただそれを理解して応援してくれたのはたった一人、私の母だけでした。
母もずっと少女のような人でそのような遊びを家の中に持ち込んでは楽しんでいた人だったから。
赤毛のアンは同じようにそんな楽しみに満ちています。
いま大人になって、また同じような楽しみを持てる人々と出会いました。
これからまた昔のような喜びと驚きに満ちた、アンに言わせるところの「希望の道」をわらいながら歩んで行きたいなあと思っています。
「赤毛のアン」みたいだなんてもったいないお言葉だが、私がアンのような素敵な人間でないにしても、自分で言うのもなんですが、振り返れば私の歩いてきた道はかなり赤毛のアンちっくな面白さにみち満ちているのでありました(笑)
というか、かなり現代に生まれ育った割に、田舎だったことも良かったのか、周りにはまだ自然がいっぱいあり、高まる近代化の波にぐいぐい押されながらも、古きよき時代を振り返る余裕なんていうのも出てきたころだったのかも知れません。
とにかくあんじゅの周りはアン以上に面白い珍事件に満ちておりました。
赤毛のアンの中で、町を上げてのピクニックにアンがはじめて参加してアイスクリームを食べるってシーンがあるけれど、ピクニック、遠足といえばかなりの思い出があります。
うちの両親はあたし以上に飛んじゃってる面白い方々で今思い返しても「うーんすごかったなあ~」と言うことが多々あります(^^;)
たとえば遠足のとき、貧しいのになぜかお弁当が「五段重」くらいありました。
実は私の家は私が2年生くらいまでは、県でも有数のお金持ちだったのです。
お金があるときもなくなってからも変わらなかったのは「イベント」を大事にすること。
そう、季節の行事をとっても大切に面白おかしく楽しく祝うのであります。
まあ、さすがにその金額には差がありますから、結構違ったんでしょうけど、
そのときの精一杯で祝うもんですから、いつも目いっぱい「豪華」でした。
そんな中に「遠足」というイベントがあります。
私は体が弱かったので行けた遠足も数えるくらいですが、その数えるくらいの遠足で持っていったお弁当が持っていけないくらいの大きさだったんですねえ(^^;)
だって~リュックのほかに風呂敷とか紙袋で持っていくんですよ?
「何人分だっつの?」って位の量を。
で、持たされるとき「みんなで食べなさい」って言われるんです。
私、学校に言ってない上に、ちょっとつーか、かなり変わった子で全然友達作らなかったんです。つうか、いらなかったんですよね、そこころは。必要性感じなくて。
だーって話し合わないし、一緒に遊んでも全然つまんないんだもん(笑)
それくらいなら図書館で本読んでた方がよっぽどましだったの。
でも三つ下の妹は明るく可愛くなんと言うかアイドルだったんでお友達もたくさんいて、きっと親は(母は)なんかそういう差を感じてたんでしょうねえ。
私はなんとも思ってませんでしたが。
反比例して父は「豪勢な弁当作ってもたせてやれ!」ってそれだけだった気がしますけど。
おかげで遠足のときは人が群がってきてましたね。(弁当に)
そのお弁当で一番心に残ってるのが、忘れもしない小6の時のスケッチ大会の時のお弁当です。
朝出かけようとしたら父が「弁当は届ける」って言うんですよ。
「はい?」と思い、「いや、届けられても困るんだけど・・・」って言ったら、
「俺がいなくちゃ成立しない弁当だから届ける」って言い張るんで、
「じゃあ来てもいいけど、先生にちゃんと説明しなさいよ」って言って出かけました。
港で「おいおい一体あのおっちゃんは何をする気なんだよう;。;」
って来もそぞろで絵を書いておりますと、来ちゃいましたよ、お弁当の時間が。
するとやってきました「父」が。両手にでっかいビニール袋二つもって、母を従えて。
入ってたのは「バンズ」と「野菜(トマト)(レタス)(たまねぎスライス)」と「ハンバーグ」です。
そう、まだそんなにマックも浸透してなかった田舎ではハンバーガーは珍しかったのです。
父はあっけにとられているみんなの前(つか、あきれている私の前)に座りますと、おもむろにシートを広げ、バットを並べ、材料を盛り付け、パン1個とってバターを塗るとハンバーグを乗せ、レタスを載せ、たまねぎを載せ、トマトを載せて、ケチャップとマヨネーズかけて、その両親の連携プレーのすばらしかったこと。
出来上がったハンバーガーを「ほい」と私に渡しました。
「・・・。」私は黙ってそれを食べました。いや、それが以外にうまかった(笑)
すると父はクラスの違う親友の女の子を手招き「Sちゃんもたべるかあ?」といいつつすでに作っている(^^;)
私と親友は見つめあい、無言のままアイコンタクトを取り、
ならんで海を見ながら黙々とそれを食べました。
ハンバーガーを食べたことのない子達が遠巻きにそれを見ています。
すでに先生たちは近寄ってくる気配すらない。。。
父はまだ30個ほどあるパンの横で手招きをし、「食べるか?」と。。。
そのうち周りはハンバーガーを持つ子供だらけになって。
父はすべての材料ががなくなると何事もなかったようにさっさと片付け、横で笑っている母を連れて去っていきました。
と、まあ強烈におもしろい出来事だったわけです。
その日をきっかけに私は生のたまねぎをおいしいと思えるようになりましたが。
とにかくそんなおもしろーいことばっかりがあった気がします。
学校行かずに森や野原に潜んだり、空家に忍び込んで部屋作ったりなんてしょっちゅうでしたねえ。
赤毛のアンには無二の親友「こころのとも」のダイアナって子が出てきますが、私にもそういう親友が二人いたんです。
なんでそのこたちとは話せたのかって言うと二人とも本当の意味で頭が良くて面白かったんです。
多分、大人たち、ふつうの子供たちから見たら相当変わってる二人だったと思いますけどね。
特にSちゃんは私から見たら「赤毛のアン」に匹敵する人でした。
彼女とは小さいときからの友人でしたが、二人の時間はとてもエキサイティングでしたね。創造に満ちてました。
彼女は画才と文才にものすごく秀でていたんです。
彼女の感覚のすばらしさにはもう拍手するしかないくらいで。本当に頭良かった。
ところが彼女は学校では一言もしゃべらない。だからみんな彼女のすごさがわかんないんですね。
彼女との思い出の中で特に覚えているのはクリスマスや誕生日などの贈り物です。
二人の間では「手作り」が暗黙の了解とされていて、いろいろと工夫しては贈り物を作り上げていました。
彼女の大好きな本の主人公を人形に仕立て、クッキーの空き箱をうまく作り変えて箱詰めしたり、あるときは彼女からカップをもらい、その中に紅茶パックがひとつ入っていて、あけてみるとその紅茶パックの中身が手紙になっていたりしました。
あるときはなぜ今日プレゼントがないのかを説明したマンガをもらったり(笑)
(後日、この体験をもとにテストのとき「なぜに自分はこの答案を白紙状態で出さねばならぬのか」うをテーマにテスト用紙の裏に延々とエッセイを書き、理系のテストで40点もらったのは紛れもないこの私である^^;)
いらない布や紙を集めて貼り絵をし、世界に一冊しかない絵本を作ったり、詩集を作ったり、小説を書いたりしました。
ただそれを理解して応援してくれたのはたった一人、私の母だけでした。
母もずっと少女のような人でそのような遊びを家の中に持ち込んでは楽しんでいた人だったから。
赤毛のアンは同じようにそんな楽しみに満ちています。
いま大人になって、また同じような楽しみを持てる人々と出会いました。
これからまた昔のような喜びと驚きに満ちた、アンに言わせるところの「希望の道」をわらいながら歩んで行きたいなあと思っています。