公演後の記念撮影。天使たちの肖像です。
立春も過ぎて「春」の気配が近づいています。
風花が舞う中でそれを感じました。
私はこのところ、朝ネットカフェで仕事をしています。
そして30分だけ、これらを書くことで自分の中に空気を入れます。
なので文章が少しずつ変わるのです。
何で文章が変わるの?と質問がありましたので(笑)
さて2月20日にナチュラル&ロハステイスト、アートエンターテイメントのカルチャースクール
「エンジェルシューレ*夢の街」をオープンします。
今はオーファンズから一転、その準備に追われています。
いまだ家に帰れていません(笑)
ここまでの道のりにはいろーんなことやいろーんな思いがありました。
そのベースにずっとあったものは「愛」と「演じる(俳優)」というものです。
私は「言葉」が好きです。言葉を意味を考え、話すことによって宿る言霊の力や表現というものがとても好きです。
日本で演劇を習うと、大体、その与えられた役の環境や状況を台本から読み取って考え構築しく方法を正しいとして習います。
つまり役であり、役でない、演出家の目、「第三の目」を持つ方法を習うのです。
私はそれが当たり前で、そしてそれを持つことがかなり得意な俳優でした。
分析することが得意で、またそれをそのように表現できるタイプだったので、えらそうにそうすると自分も見えてくるし、とか精神的にも超越したような気分になっちゃったりもしてましたねえ(笑)
でも満たされませんでした。何をしても。ものすごくお芝居が好きだっただけに。
だから進んでいろんな方法論に出会いました。形にも出会いました。
いろんなジャンルの演劇・ミュージカル・朗読・方法論・言語造形…。
でもどれも私の心を本当には動かしはしませんでした。
きっとどれも真実はあったし、間違ってなかったし、すばらしかったと思うけど、なぜかちっとも「感動」しなかったんです。
なんというかな~、「うーん、これは嘘だなあ。そんな風に聞こえるように話してるだけだなあ」とか「あー、しゃべるのはとっても上手だけど、それだけだなあ」とかってそのころは感じていました。
なぜそんな風に感じていたのか、今、考えてみると、それはそれらをやっている人自身に「真実を感じてなかったから」ではないかと感じています。
つまり、その人の生き方に感動できなかったせいかもしれません。
決してその人がだめだとかいってるんじゃないし、悪い人とかだったなんてなかったですよ、とてもすごかったし、すばらしかったんです。なんといっていいのかわかりませんが、ただ私の中ではぜんぜん求めているものとは「違った」んですね。
でも今、オフィス夢の街でやっている演劇に出会ったとき、ただ素直に「本物」だと思いました。
まったく色も音もない世界が一気に色がついて音が聞こえたのです。
でもよく考えたら「本物だ」とか思ったのはぜんぜん後からで、その観ていた瞬間は単純に「その世界だけが見えていた」んですね。
なぜだろうと思ったら、そこに嘘がなかったからなんだと思います。
つまりそこに立っている役者がひとつも嘘をついてなくて、その役で生きていたから「いい芝居だ」とも思わなかった訳です。
ただシンプルに目の前で起こっていたことはリアルに現実だったから。
それで聞いてみたわけなんですね、その俳優に。
「なんであんな芝居ができるんでしょうか?」と。
そしたら答えが「うん、芝居してないからだと思うよ」って(^^;)
「え、でも台本があって、それを覚えてやるときにその役を作るんですよね?」ときいたら「ううん、舞台の上で発してるのは台本の言葉を覚えてしゃべってるんでなくて、目の前にいる人と体に入っている言葉を使ってちゃんと話してるだけだよ」と。
実際にそれはありえないことでした。役を分析せず、作らず、演じもせず、そんなことができるわけない、と。
でも、それは可能なんですね。ちゃんとわかれば。とても難しいことだけど。
そして気がつきました。
普通、演劇とかやっている人が言う第三の目は、実は見えないところにあるものでなく、明らかに人間の機能の中に存在している力を使ったものだが、真実を生きれる俳優の内にある第三の眼は言葉のとおり、見えない世界、潜在意識の世界にその存在があるのだと。
そして人間の機能の中にある力(第三の眼と思っている感覚)で探っている限りは真実は理解できないし、使えないんじゃないかなーって。(あんじゅ風見解・笑)
それから私はその彼らの持っている真実を探りたいと思うようになりました。
それは不思議と自分自身を見つめることでもありました。
人は必ず何かと向き合っているという基本的なことがはじめてわかったのです。
そしてそれらと向き合うことは、実は自己と向き合うことであるということも。
人間は生み出されたその瞬間から世界と向き合い、一瞬を生きるときですら何かのなかにいきているんだなって。そしてそのことで感情(衝動)は生まれていき、そして必ず何かは休むことなく問いかけていて、それに答えながら歩いているんだ、と。
つまり私が何かを見るとき、それは私が私を見ることで、私が誰かと話すとき、私は私と話しているんだ、と。
そういったことが誰に教わるのでなく、まるでもつれた糸が解けるようにわかってきたのでした。
いえ、もちろん、それはわたしの心の中だけのことで、みんなに当てはまるとは思っていませんけれどね。
私にはそう感じられていたんです。
誰かと一緒に芝居をすると演出家のいない、そして演技をしない(わけではないのだが)私たちのスタイルにいろいろと抵抗する意見の方は多いですよ。
「それじゃあ芝居じゃないジャンか」「お客を無視してるのか?」みたいなね~
(笑・決してそんなことはございません。お芝居見ていただければ一目瞭然ですが。)
まあそうだよね、あたしもそう思ってたもん、仕方ないと思うし、きっと不思議なんだと思う(^^)
でも、わかる人はちゃんと奥の奥でわかって、あっという間に真実を生きられるようになるのです。
お客様がいるからこそ真実になろうとすること、うそをつかないように努力しようとするのだという事実がすとんと心でわかる。
これは、どんなに方法を教えられても「わかる」のはとても難しくて、結局自分でしか「わかること」を手に入れられない世界なんだなということもわかりました。
このベースはスタニスラフスキーのメソード演技にあるそうですが…。(私はまだ出会ってないんですけどね・汗)
でもわたしの知る限りでは夢の街のはそれにもっと違うものがプラスされた、ここにある独自のものといえますね。
ちなみに私が関わっているシュタイナー系で取り入れられている演劇はこれがベースで、シュタイナーという人はこれにかなり影響されていたらしいし、そのシュタイナーさんに影響された後期のメソード研究者の人もいっぱいいるそうです。
ちなみに「モモ」や「果てしない物語」のミヒャエル・エンデさんもシュタイナー学校出身でメソードを学んだ役者さんの一人です。
そう考えるとなんとなく不思議なご縁です。
私はこういった芸術のたましい(いわゆる才能)というものは天から降りてきて宿るといった風に感じてますが、このエンデの作品の中に「真実の俳優」にだけそれに触れることが神さまから許されるという様なインスピレーションがある作品があります。偶然にも親しい方のお姉さんが訳されてたりするんですが。
まあ、それはまたの機会に。でも与えられるものなので紹介はやめときます(笑)
とはいえ「しゃべる」「生きる」という本質的なことが演劇のベースだからどなたも真実の俳優にはなりえますでしょう。
けれども、やはり「素材」は神から与えられるものなのですねえ。
そればっかりは自分が身に着けようと思っても限界があります。
やはりそれらは特別な使命をもって降りてくるのだなと感じた今日この頃です。
それをきっとこの世では「才能」と呼ぶのでしょう。
どんな小さなものにしろ「才能」は隠されていて、そんな人も何か才能の種を持っていると思うけれど。
そしてその才能こそ「愛」そのものだと感じています。
演技にはいろいろな方法があって、それはそれであるようにあると私は思います。
きっといろんな人がいるようにそれぞれに必要な方法があるのでしょう。
私は何も否定しないし、あるからあるのね、と思うのでした。
だから俳優はこうあるべきであるとか、これこそが俳優の修行であるとか、やり方であるとか、思いません。
いろんな方法があるようにあり、それぞれがきっと必要な形で学ぶのでしょう。
だからこそどんな人も自信を持って自分の生き方を歩んでほしいです。
結局「こうあるべき」を唱える人はその方法論に自信を持っているのでは決してなく、結局は自分の生きられるその世界しか見ようとしてないのかもしれないなあと最近感じることがありました。
そういう人や世界はその人の見たもの以外を受け入れないし、そういうスタンスだからほかの人にも受け入れられませんよね、結局は。
けれどやはり本当に自分を信じる力のある人はわが道を歩いているようでも、実は何をも否定せず、自分の力をちゃんと使いながらまったく他の世界とも交われるのだなあと知りました。
それもこのお芝居から教えてもらったことです。
つまり私はこの夢の街の方法で真実を見たんですね~。ありがたいことです。
そしてこの「真実」というあり方がエンジェルシューレを生み出しました。
この小さなお教室にあるものはすべて「魂と向き合い、心振るわす」ものばかりです。
一番魅力的なのはその講師陣のたましいのあり方といえるかもしれません。
いろんな世界の天使たちが皆様を待っています。
その人たちが持っている「愛」シェアします。
そして皆さん一人一人が天使。
どうぞ、エンジェルシューレにいらしてくださいね。
立春も過ぎて「春」の気配が近づいています。
風花が舞う中でそれを感じました。
私はこのところ、朝ネットカフェで仕事をしています。
そして30分だけ、これらを書くことで自分の中に空気を入れます。
なので文章が少しずつ変わるのです。
何で文章が変わるの?と質問がありましたので(笑)
さて2月20日にナチュラル&ロハステイスト、アートエンターテイメントのカルチャースクール
「エンジェルシューレ*夢の街」をオープンします。
今はオーファンズから一転、その準備に追われています。
いまだ家に帰れていません(笑)
ここまでの道のりにはいろーんなことやいろーんな思いがありました。
そのベースにずっとあったものは「愛」と「演じる(俳優)」というものです。
私は「言葉」が好きです。言葉を意味を考え、話すことによって宿る言霊の力や表現というものがとても好きです。
日本で演劇を習うと、大体、その与えられた役の環境や状況を台本から読み取って考え構築しく方法を正しいとして習います。
つまり役であり、役でない、演出家の目、「第三の目」を持つ方法を習うのです。
私はそれが当たり前で、そしてそれを持つことがかなり得意な俳優でした。
分析することが得意で、またそれをそのように表現できるタイプだったので、えらそうにそうすると自分も見えてくるし、とか精神的にも超越したような気分になっちゃったりもしてましたねえ(笑)
でも満たされませんでした。何をしても。ものすごくお芝居が好きだっただけに。
だから進んでいろんな方法論に出会いました。形にも出会いました。
いろんなジャンルの演劇・ミュージカル・朗読・方法論・言語造形…。
でもどれも私の心を本当には動かしはしませんでした。
きっとどれも真実はあったし、間違ってなかったし、すばらしかったと思うけど、なぜかちっとも「感動」しなかったんです。
なんというかな~、「うーん、これは嘘だなあ。そんな風に聞こえるように話してるだけだなあ」とか「あー、しゃべるのはとっても上手だけど、それだけだなあ」とかってそのころは感じていました。
なぜそんな風に感じていたのか、今、考えてみると、それはそれらをやっている人自身に「真実を感じてなかったから」ではないかと感じています。
つまり、その人の生き方に感動できなかったせいかもしれません。
決してその人がだめだとかいってるんじゃないし、悪い人とかだったなんてなかったですよ、とてもすごかったし、すばらしかったんです。なんといっていいのかわかりませんが、ただ私の中ではぜんぜん求めているものとは「違った」んですね。
でも今、オフィス夢の街でやっている演劇に出会ったとき、ただ素直に「本物」だと思いました。
まったく色も音もない世界が一気に色がついて音が聞こえたのです。
でもよく考えたら「本物だ」とか思ったのはぜんぜん後からで、その観ていた瞬間は単純に「その世界だけが見えていた」んですね。
なぜだろうと思ったら、そこに嘘がなかったからなんだと思います。
つまりそこに立っている役者がひとつも嘘をついてなくて、その役で生きていたから「いい芝居だ」とも思わなかった訳です。
ただシンプルに目の前で起こっていたことはリアルに現実だったから。
それで聞いてみたわけなんですね、その俳優に。
「なんであんな芝居ができるんでしょうか?」と。
そしたら答えが「うん、芝居してないからだと思うよ」って(^^;)
「え、でも台本があって、それを覚えてやるときにその役を作るんですよね?」ときいたら「ううん、舞台の上で発してるのは台本の言葉を覚えてしゃべってるんでなくて、目の前にいる人と体に入っている言葉を使ってちゃんと話してるだけだよ」と。
実際にそれはありえないことでした。役を分析せず、作らず、演じもせず、そんなことができるわけない、と。
でも、それは可能なんですね。ちゃんとわかれば。とても難しいことだけど。
そして気がつきました。
普通、演劇とかやっている人が言う第三の目は、実は見えないところにあるものでなく、明らかに人間の機能の中に存在している力を使ったものだが、真実を生きれる俳優の内にある第三の眼は言葉のとおり、見えない世界、潜在意識の世界にその存在があるのだと。
そして人間の機能の中にある力(第三の眼と思っている感覚)で探っている限りは真実は理解できないし、使えないんじゃないかなーって。(あんじゅ風見解・笑)
それから私はその彼らの持っている真実を探りたいと思うようになりました。
それは不思議と自分自身を見つめることでもありました。
人は必ず何かと向き合っているという基本的なことがはじめてわかったのです。
そしてそれらと向き合うことは、実は自己と向き合うことであるということも。
人間は生み出されたその瞬間から世界と向き合い、一瞬を生きるときですら何かのなかにいきているんだなって。そしてそのことで感情(衝動)は生まれていき、そして必ず何かは休むことなく問いかけていて、それに答えながら歩いているんだ、と。
つまり私が何かを見るとき、それは私が私を見ることで、私が誰かと話すとき、私は私と話しているんだ、と。
そういったことが誰に教わるのでなく、まるでもつれた糸が解けるようにわかってきたのでした。
いえ、もちろん、それはわたしの心の中だけのことで、みんなに当てはまるとは思っていませんけれどね。
私にはそう感じられていたんです。
誰かと一緒に芝居をすると演出家のいない、そして演技をしない(わけではないのだが)私たちのスタイルにいろいろと抵抗する意見の方は多いですよ。
「それじゃあ芝居じゃないジャンか」「お客を無視してるのか?」みたいなね~
(笑・決してそんなことはございません。お芝居見ていただければ一目瞭然ですが。)
まあそうだよね、あたしもそう思ってたもん、仕方ないと思うし、きっと不思議なんだと思う(^^)
でも、わかる人はちゃんと奥の奥でわかって、あっという間に真実を生きられるようになるのです。
お客様がいるからこそ真実になろうとすること、うそをつかないように努力しようとするのだという事実がすとんと心でわかる。
これは、どんなに方法を教えられても「わかる」のはとても難しくて、結局自分でしか「わかること」を手に入れられない世界なんだなということもわかりました。
このベースはスタニスラフスキーのメソード演技にあるそうですが…。(私はまだ出会ってないんですけどね・汗)
でもわたしの知る限りでは夢の街のはそれにもっと違うものがプラスされた、ここにある独自のものといえますね。
ちなみに私が関わっているシュタイナー系で取り入れられている演劇はこれがベースで、シュタイナーという人はこれにかなり影響されていたらしいし、そのシュタイナーさんに影響された後期のメソード研究者の人もいっぱいいるそうです。
ちなみに「モモ」や「果てしない物語」のミヒャエル・エンデさんもシュタイナー学校出身でメソードを学んだ役者さんの一人です。
そう考えるとなんとなく不思議なご縁です。
私はこういった芸術のたましい(いわゆる才能)というものは天から降りてきて宿るといった風に感じてますが、このエンデの作品の中に「真実の俳優」にだけそれに触れることが神さまから許されるという様なインスピレーションがある作品があります。偶然にも親しい方のお姉さんが訳されてたりするんですが。
まあ、それはまたの機会に。でも与えられるものなので紹介はやめときます(笑)
とはいえ「しゃべる」「生きる」という本質的なことが演劇のベースだからどなたも真実の俳優にはなりえますでしょう。
けれども、やはり「素材」は神から与えられるものなのですねえ。
そればっかりは自分が身に着けようと思っても限界があります。
やはりそれらは特別な使命をもって降りてくるのだなと感じた今日この頃です。
それをきっとこの世では「才能」と呼ぶのでしょう。
どんな小さなものにしろ「才能」は隠されていて、そんな人も何か才能の種を持っていると思うけれど。
そしてその才能こそ「愛」そのものだと感じています。
演技にはいろいろな方法があって、それはそれであるようにあると私は思います。
きっといろんな人がいるようにそれぞれに必要な方法があるのでしょう。
私は何も否定しないし、あるからあるのね、と思うのでした。
だから俳優はこうあるべきであるとか、これこそが俳優の修行であるとか、やり方であるとか、思いません。
いろんな方法があるようにあり、それぞれがきっと必要な形で学ぶのでしょう。
だからこそどんな人も自信を持って自分の生き方を歩んでほしいです。
結局「こうあるべき」を唱える人はその方法論に自信を持っているのでは決してなく、結局は自分の生きられるその世界しか見ようとしてないのかもしれないなあと最近感じることがありました。
そういう人や世界はその人の見たもの以外を受け入れないし、そういうスタンスだからほかの人にも受け入れられませんよね、結局は。
けれどやはり本当に自分を信じる力のある人はわが道を歩いているようでも、実は何をも否定せず、自分の力をちゃんと使いながらまったく他の世界とも交われるのだなあと知りました。
それもこのお芝居から教えてもらったことです。
つまり私はこの夢の街の方法で真実を見たんですね~。ありがたいことです。
そしてこの「真実」というあり方がエンジェルシューレを生み出しました。
この小さなお教室にあるものはすべて「魂と向き合い、心振るわす」ものばかりです。
一番魅力的なのはその講師陣のたましいのあり方といえるかもしれません。
いろんな世界の天使たちが皆様を待っています。
その人たちが持っている「愛」シェアします。
そして皆さん一人一人が天使。
どうぞ、エンジェルシューレにいらしてくださいね。