今日は嬉しいことがあった。
言葉の教室に通ってくれている「ゆうくん」の個人レッスンをさせて頂けることになったのだ。
ゆうくんはダウン症の5年生。
やんちゃだが、とてもユーモアにあふれていて、それでいて思いやりのある気持ちの優しい男の子。
ぴーちゃんを見ては「ぴーちゃん!ぴーちゃん!か~わいい!」とニコニコ笑ってくれる。
私はそれだけでとっても嬉しい。
以前、二人でデートをしたのだが、その時もあれこれと気を使ってくれて、とっても嬉しかった。
皆さんと接する機会を頂いて分かってきたことだけれど、ダウン症はとても個体差がある様に思われる。
身体能力や知的な部分でもずいぶん幅があるようで、だからと言って知的な部分で他の方よりたけているように見えても、そういう方が選ばれてお仕事をされたりしてるわけではないようだ。
逆に言葉もなかなか出ないと言ったような、こちらからすると単純に難しく思えるような方のほうが作業所などでしっかりと働いて居られたりする。
ダウン症に限らず、すべての人において言えることだと思うが、生きる場所に対する順能力というか、適応力というか、その場を愛する力というのは大事だ。
それには育っていく環境が本当に大事なのかもしれない、と感じる。
私は恵まれてその子どもたちが育っていく環境の一部として存在させて頂けるようになった。
私は子どもたちや、仲間たちが大好きだ。
だから、彼らにとって善きものでありたい、と心から願わずにいられない。
そんな中でゆうくんの個人レッスンをさせて頂くことになったのだ。
本当に感謝、感謝である。
わたしの言葉のクラスでは「心と言葉をつなげて話す」ことを中心にレッスンしている。
今回お願いされたレッスンは「文字」や「数字」の理解を助けること。
レッスンの根本は同じだが、こちらは形を覚えてつなげる作業も出てくる。
出来るだけゆうくんの心の中をそれらと添わせてあげたいと願っている。
話は変わるが私は小さい時、ものすごく過敏な子どもだった。
たとえば、テレビで「太陽がいっぱい」というアラン・ドロンという昔の人気俳優さんの映画を観た時のこと。
それは貧しい青年が殺したお金持ちの青年になり済ましてなんとか幸福を得ようとする切ない物語だった。
その中で、主人公の青年が夜な夜な殺した青年のサインを壁に映し、その筆跡を練習するシーンがある。
私はまだ小学生にもなっていなかったが、その青年の必死さと心が切なすぎて泣けて泣けてしょうがなかった。
まあ、ニーノ・ロータの曲も哀愁を誘ったのかもだけど(笑)
お陰であの曲を聞くとパブロフの犬の如く泣けます、あたし(^^;)
やっぱ幼児体験って大きいですねー。
という訳で3歳から大人が読む本が理解を伴って読めたのですが、4歳の時にヘレン・ケラーの伝記を読んで感動して泣いたのを覚えている。
言葉という存在と心がつながる瞬間に感動をし、そこまでヘレンをあきらめなかった家庭教師のサリバン先生の愛に深く感動したのだ。
もう少し大きくなってからは女優ゆえ戯曲「奇跡の人」に触れ、また感動が深まった。
たまたま友人が出演していたこともあり、資料など目にしたことも大きい。
ということでサリバン先生は私の憧れの女性でもある。
サリバン先生は貧しい生まれで、幼少期に目の視力を失った。
若くして母親を亡くし、その後最愛の弟を亡くしたショックから精神を病み、精神病棟に入院している。
そんなサリバン先生を救ったのは、ある掃除婦。
彼女は身寄りもなく誰にも相手にされない少女に毎日会いに行っては
「あなたを気にしている人間がここにいる」
とメッセージを送り励まし続けた。
彼女のあきらめのない深い愛によって、心を救われたサリバン先生は、その後、苦学の末に有名大学へ進み、ヘレンの家庭教師となる。
そしてサリバン先生自身も、自分が愛を注がれた様に、ヘレン・ケラーに同じ様にあきらめず愛を捧げ続けた。
そしてとうとう彼女の諦めのない愛によってヘレンも愛を知った。
実はサリバン先生と私はお誕生日が2日違い、そしてちょうどぴったり私の百年前に生まれておられる。
百年と2日違いの仲である(^^)
そして彼女は私のようにPTSD、それに障害など、数々の問題を抱えながらも、その痛みと経験を愛に変えて強く生きた人。
その経験があったからこそ、諦めることない深い愛を得たのだと思う。
お恐れ多い事だが私は子どもたちとある時に彼女のようにありたい。
心から願う。
アニー・サリバン先生の愛の言葉を紹介します。
「人の唇から漏れる微笑みを、
自分の幸せと感じられる人間に私はなりたい。」
「雲に触ることは出来ないでしょう?
それでも雨が降ってくるのはわかるし、
暑い日には、花も乾いた大地も雨を喜んでいるのがわかるでしょう?
愛もそれと同じなの。
愛も手で触れることは出来ないけれど、
愛が注がれる時の優しさは感じることが出来るでしょう?
愛があるから、喜びも湧いてくるし、
遊びたい気持ちも起きるのよ。」
心と頭、そして身体、魂、人間の持てるすべてを使って「理解できる」という事はとても素晴らしい事だとと思う(^^)
すべての子どもたちに、そして大人たちに、ヘレンに与えられた様な理解への「瞬間」が訪れますように
言葉の教室に通ってくれている「ゆうくん」の個人レッスンをさせて頂けることになったのだ。
ゆうくんはダウン症の5年生。
やんちゃだが、とてもユーモアにあふれていて、それでいて思いやりのある気持ちの優しい男の子。
ぴーちゃんを見ては「ぴーちゃん!ぴーちゃん!か~わいい!」とニコニコ笑ってくれる。
私はそれだけでとっても嬉しい。
以前、二人でデートをしたのだが、その時もあれこれと気を使ってくれて、とっても嬉しかった。
皆さんと接する機会を頂いて分かってきたことだけれど、ダウン症はとても個体差がある様に思われる。
身体能力や知的な部分でもずいぶん幅があるようで、だからと言って知的な部分で他の方よりたけているように見えても、そういう方が選ばれてお仕事をされたりしてるわけではないようだ。
逆に言葉もなかなか出ないと言ったような、こちらからすると単純に難しく思えるような方のほうが作業所などでしっかりと働いて居られたりする。
ダウン症に限らず、すべての人において言えることだと思うが、生きる場所に対する順能力というか、適応力というか、その場を愛する力というのは大事だ。
それには育っていく環境が本当に大事なのかもしれない、と感じる。
私は恵まれてその子どもたちが育っていく環境の一部として存在させて頂けるようになった。
私は子どもたちや、仲間たちが大好きだ。
だから、彼らにとって善きものでありたい、と心から願わずにいられない。
そんな中でゆうくんの個人レッスンをさせて頂くことになったのだ。
本当に感謝、感謝である。
わたしの言葉のクラスでは「心と言葉をつなげて話す」ことを中心にレッスンしている。
今回お願いされたレッスンは「文字」や「数字」の理解を助けること。
レッスンの根本は同じだが、こちらは形を覚えてつなげる作業も出てくる。
出来るだけゆうくんの心の中をそれらと添わせてあげたいと願っている。
話は変わるが私は小さい時、ものすごく過敏な子どもだった。
たとえば、テレビで「太陽がいっぱい」というアラン・ドロンという昔の人気俳優さんの映画を観た時のこと。
それは貧しい青年が殺したお金持ちの青年になり済ましてなんとか幸福を得ようとする切ない物語だった。
その中で、主人公の青年が夜な夜な殺した青年のサインを壁に映し、その筆跡を練習するシーンがある。
私はまだ小学生にもなっていなかったが、その青年の必死さと心が切なすぎて泣けて泣けてしょうがなかった。
まあ、ニーノ・ロータの曲も哀愁を誘ったのかもだけど(笑)
お陰であの曲を聞くとパブロフの犬の如く泣けます、あたし(^^;)
やっぱ幼児体験って大きいですねー。
という訳で3歳から大人が読む本が理解を伴って読めたのですが、4歳の時にヘレン・ケラーの伝記を読んで感動して泣いたのを覚えている。
言葉という存在と心がつながる瞬間に感動をし、そこまでヘレンをあきらめなかった家庭教師のサリバン先生の愛に深く感動したのだ。
もう少し大きくなってからは女優ゆえ戯曲「奇跡の人」に触れ、また感動が深まった。
たまたま友人が出演していたこともあり、資料など目にしたことも大きい。
ということでサリバン先生は私の憧れの女性でもある。
サリバン先生は貧しい生まれで、幼少期に目の視力を失った。
若くして母親を亡くし、その後最愛の弟を亡くしたショックから精神を病み、精神病棟に入院している。
そんなサリバン先生を救ったのは、ある掃除婦。
彼女は身寄りもなく誰にも相手にされない少女に毎日会いに行っては
「あなたを気にしている人間がここにいる」
とメッセージを送り励まし続けた。
彼女のあきらめのない深い愛によって、心を救われたサリバン先生は、その後、苦学の末に有名大学へ進み、ヘレンの家庭教師となる。
そしてサリバン先生自身も、自分が愛を注がれた様に、ヘレン・ケラーに同じ様にあきらめず愛を捧げ続けた。
そしてとうとう彼女の諦めのない愛によってヘレンも愛を知った。
実はサリバン先生と私はお誕生日が2日違い、そしてちょうどぴったり私の百年前に生まれておられる。
百年と2日違いの仲である(^^)
そして彼女は私のようにPTSD、それに障害など、数々の問題を抱えながらも、その痛みと経験を愛に変えて強く生きた人。
その経験があったからこそ、諦めることない深い愛を得たのだと思う。
お恐れ多い事だが私は子どもたちとある時に彼女のようにありたい。
心から願う。
アニー・サリバン先生の愛の言葉を紹介します。
「人の唇から漏れる微笑みを、
自分の幸せと感じられる人間に私はなりたい。」
「雲に触ることは出来ないでしょう?
それでも雨が降ってくるのはわかるし、
暑い日には、花も乾いた大地も雨を喜んでいるのがわかるでしょう?
愛もそれと同じなの。
愛も手で触れることは出来ないけれど、
愛が注がれる時の優しさは感じることが出来るでしょう?
愛があるから、喜びも湧いてくるし、
遊びたい気持ちも起きるのよ。」
心と頭、そして身体、魂、人間の持てるすべてを使って「理解できる」という事はとても素晴らしい事だとと思う(^^)
すべての子どもたちに、そして大人たちに、ヘレンに与えられた様な理解への「瞬間」が訪れますように
