

『チビさんたちの朝の風景 実家の庭で朝の太陽を浴びます』
南国も少しずつ秋の気配です。
チビさん達は朝の涼しめの時間はお庭にでてのんびりしています。
それを見ながら縫い物などして朝を過ごしております。
実は、めっちゃ気分が落ち込んでいまして…
ついでに一番体調の悪い時期が重なっちゃって…
っていうか、落ち込みすぎて、その時期を読んでしまったらしく
予定になかったので、今日はちょっと寝たり起きたりしています。
私事ですが、先日、妹と言い合いをしてしまいましたんです…
私らはあんまり喧嘩をすることはないんですが…(; ̄ェ ̄)
体調悪い前の気持ちがナーバスな時期だったのかなぁ、私が。
まあ、些細なことと言えばそうかもしれないんだけど、
大事なことって言えば譲れないくらいの意思のあるところで、
相手にとっても、そこは同じようなものだと思うから
そりゃ言い合いになるのは当然なんですけどね。
話している間にどんどん不安が募っていってしまい、
家族なので言いすぎてしまったのは事実なんですが…。
無効も売り言葉に買い言葉な部分もあるかもしれないけど、
言わなくても分かってもらえているなぁと思っていた所とか、
そうは言っても、きっとこうなんじゃないか、
お互い理解して共に会話していた部分を、
私個人の悪言と捉えられていたりとか、
自分が受け止めていたところを「そうじゃない」と言う
相手の直接な言葉で聞いてしまったので、それでちょっと凹んでいます。
私が喋ったことは、伝わったか、伝わらなかったかは
全くわかんないですが、っていうか、それ以前に、
言いたいことが伝えられてないから伝わるわけないですね( ̄▽ ̄;)
もうどうしようもありません。
相手に自分への理解が無い以上、
単純に妹を不快にさせただけで終わってしまってます。
本当に申し訳ない限りです、そんなんで迷惑かけて。

【テーブルのしたの足の上はチビ達のベッド】
私は性格的なものか、現在の精神的な病のせいなのか、
とにかく不安感と危機感がものすごーく募るのですよ(´・ω・`)
まあ、PTSDをベースにパーソナリティ障害やら
切迫性の不安障害やらパニック症やら何やらで
全くこの世に暮らしていけないって判断の適応障害なわけだから
何でもかんでもが悲しみにつながってしまって不安に変換されてしまうのです。
他人様にこれを言っても、起きていない事をいくら思ったって仕方ない、
と言われたらお話は終わりで、そこまでなんですけど…(-。-;
そう言うのが原因で、いろんなことが気になるのだって言っても、
関係の中で、飛び交うのは「現実の言葉」なので、
相手だって飛んでくるものは痛いから、その言葉に傷つくし、
私に関わるのは大変なんだろうなぁ、って思います。
それ以外には、こっちは傷も持ってないし、
相手から見たら、普通の人だろうし、余計ムカつくよね(-_-;)
しかも、集中力もないし、説明力もないから、うまく言えないし。
それは分かっているんだけど、その不安感や
焦燥感から来るものを自分でもどうしようもないんですよ。
だから病気なのかもしれないけど。
しかもね、相手に一生懸命語れば語るだけ、
結局、自分自身のことだけ考えている様に思われる。
決してそうではないんです。
相手のことを思うからここまで不安になるんです。
じゃあ、人のことなんて気にしなければ、思わなければいいじゃない?
って思うかもしれないけど、それができたら悩んだりなんかしないんですよ。
きっと共依存的な精神の構造がいけないんでしょうね。
でも、どうしたらいいんだか全くわからない。
でも、こういう事が数少ない頼れる相手とのあいだで起きちゃうと、
私の中で、またそれがトラウマになっちゃって、
人とどんどんかかわれなくなっていく自分がいるのがわかるんです。
言われてる方からすれば、ずいぶん相手を無視した勝手な言い分なんでしょうけどね。
でも実際問題に当てはめるとどんどんどんどん不安が募っていく。
事実、一人になって何かあったら?そうなったら、この子達は?
私はなんにも持ってないから余計に焦る。
そして魔のループに落ちるんです。
上がったり下がったり堂々巡り(;_;)
自分が不安だから、自分の立場と重ねて相手が見えてくる。
そして未来は見えないからとても不安。
自分の経験や、周りの相手に対する言葉とか考えて、
少しでもなんとかしなきゃ、と思ったりする。
それはかなりの切迫感を持って感じる。
でも、どうにかしてあげたくても、自分には力がない。
とっても大切なのになんにもできない。
だから余計、力が入る。
でも、こうなってくるとただの無力です。
この膨大な無力感は言い尽くせないです。
そして、孤独感がやって来る。
何もできない自分の結果はただ孤独です。
なんでそうなるの?と人はいう。
病院の医師ですら、今後、一人にならないために
人と関わり友人や仲間を作りなさいという。
ああ先生、わかるよ。言わんとすることは分かります。
ごめんなさい。でも今の私には無理。
親しい友人や仲間にだからこそ、そんなこと頼めないし、
死んでも頼みたくないんです。
失う可能性があるものはつくらないほうがいいし、関わりたくありません。
もう辛い思いはしたくないんです。それが本音デス。
それに私は性格上、頼めると思う人にしか頼めない人。
それは、自分にとって家族だと思える人にしかできない。
でも、そう言う人はもういない。
誰もいないのです。
それをもう一回作れなんて、ごめんなさい。
死ねと言われているのと同じです。
そんなに簡単に人とのつながりは作れません。
独りでいると、怪我をしても、病院に行かない限り、
自分の背中に薬を塗ることすらできません。そういうものです。
その状態で自分が果てたら、どうしようもありません。
病気とかあって発作とかあると尚更です。
伴侶を失い、一人になり、そういう状態を経験して
あまりの不の大きさに、私は唯一、
頼める人が居るところに帰ってきたのです。
誰にも頼めないから。それしか方法がなかったんです。
病気を抱えてて、発作でも起きて自分が倒れたら、
預かったイノチを守る方法がなかったから。
それと、少しは自分も安心感が出来るかと思って。
そんな期待も持って。
でもね、こういう事が起きると簡単に振り出しに戻ります。
しかも、それが深く残ってしまう。そんな悪循環な性格。
もうどうしたらいいものかわかりません。
人はどうかわからないけれど、こんな私は
不安だからエンディングノートとか書いてしまいます。
もし、自分に万一のことがあって、自分の身の始末とか、
残されたチビ達のこととか、身の回りのものの処分とか、
何をどうして欲しいかとか、度々記録に残し、書き換えています。
魂が安心する方法の一つとしてやっているのかもなんですけどね。
だって万一、私が不慮にでも死んでしまったら、
こうして欲しいって思っても伝えられないし、
こうしてあげたい、と思っても、どうやったって、
してあげられない場合の方が多いと思うから。
(中には死んだってできる人もいるだろうけど)
経験上、人はいつ死ぬかなんてわからないと思うし。
生きていても、何かが起きたとき、私の生きている所からでは、
出来ることと出来ないことも沢山あります。
私は10年の内に二度も大事な人を天に見送ったけれど、
そう思うことがたくさんありました。
この事も今に影響する大きなことなのかもしれないけれど。
ついでに言えば、もしなにか起こったとしたら、
今の私には人様に迷惑をかけることの方が多くて、
自分に大きな気持ちはあったとしても、
人にはしてあげられないことのほうが多いから。
事実、私には自分でお葬式代を出す事もできないわけだし、
自分のものもお金をかけないで片付けてもらうしかないし。
あの子達のことを頼めるのは家族しかいない。
そう思っていたんですが、でも先日のことで、
いろいろ気持ちを聞いて、とても不安になりました。
まあ、仕方ありません。私の実家はとても困難にあるので、
在り方がハードだからしょうがないんでしょう。
事実、そんなハードな出来事もこれまでに多くあったし。
仕方のないことなのです。彼らが悪いんじゃないし。
そこにお願いしようとしたことが間違っていたのでしょう。
だから、この子達のことだけでも、もっといろいろと
対策を取らないといけないかもしれないとも思います。
自分の生き方も先は一人で生きていくことを考えていかねば。
何とかして、誰にも頼らないで守る方法を考えないといけない。
そんな風に思ったりしています。
そうしないときっとまた迷惑かけちゃうし、嫌な思いさせるし、
今の私はそれが理由でまた不安が生まれるだろうし(-_-;)
ただ一つだけ、今回自分を振り返って見てわかったことがあります。
私は家族に対して無視だけはしてなかったってこと。
どんな時でも、家族から勝手に消えたことはなかったってこと。
どこに移動するにも事前に連絡は必ずしていたってこと。
出来る出来ないは別として、家族から求められることには
どんな状況にあったとしても、必ず答えたってこと。
私は自分がされて悲しいことだけはしてないってこと。
それだけはしてない事は、相手に対しても良かったと思える。
そして、そこだけは大切にしたいと思うってこと。
それがわかっただけでも良かったかなと思いました。


【寄り添える相手がいるのは素敵だね】
つくづく、自分の隣にいる人って大事だと思います。
自分の感覚や思いを完全に理解できなくても、
解ろうとする努力ができる相手ってすごく大切。
相手の思いを大切にしようとする努力が出来る相手って大事。
そう思います。
特にね、こんなふうに突然一人になると思いは大きい。
生活の中に失くした相手の影を見ます。
ほんと大きいよ。大きな力なんだなぁ、って思います。
そんなお互いの安心感を生み出せる大切な人が亡くなって、
一人はもう十年以上、そして相方さんは2年が経とうとしていますが、
悲しさやさみしさは募るばかりです。
多くの人は長く悲しみを抱えて持っていると、
そんなことばっかり考えてると相手も悲しいとか、
それは相手に対してじゃなくて自己憐憫なんだって、
と言った言葉で残された人の心を簡単に傷つけるけど、
そうじゃない。そうじゃないと私は思う。
確かに短時間で明るい思いに行ける人もいるでしょう。
でも、それが正しいとなぜ言える?
悲しいのがなぜ悪い?
相手への愛が深いからいつまでも悲しいんだよ。
それだけ、引きずる位、深い愛ってあるんだよ。
無くしても手放せない愛ってあるんだよ。
忘れられない愛ってあるんだよ。
私はそれでいいと思う。
悲しいのも嬉しいのも苦しいのも愛だから。
否定することなんかなんにもないと思います。
きっと、世界には私と同じような不安にある人がたくさんいるでしょう。
震災のあった日本にはそれこそ多いに違いない。
心の病は見えないから、パラリンピックにも出られません。
傷もないから、人からなかなか痛みを理解されません。
自分で何とかしたくても、難しいことの方が多いです。
そう言う人が少しでも多く、ご自身が安心できる日々を
静かにおくれたらいいなぁと心から願っています。
どん底でも、何か、何か一つでいいから大事なものを握って歩けますように。
人のことは言えませんが(^_^;)
私も細々でも、あゆみが人から見えなくても、
自分の中だけででも頑張りたいと思います。