KOFUKUの家から

演劇的体質の自由人
大きな愛にいだかれて
チワワたち猫たち
南のちいさな森の家にて
芸術的田舎暮らし真っ最中

我思ふ(愚痴という名の危機感を語ってみた)

2012-09-27 | KOFUKU日記



【早くお庭に出してくださ~い!by南国ちわわんず】


ここんとこ、見た目よりも内面、絶不調のワタクシ…(;´Д`A
実はこの記事もずいぶん前に書き始めたもの( ̄◇ ̄;)
目まぐるしく変わりゆく日々に殆どついていけてません…。
震災以降、本当に世の中についていけてない。

先の記事にも書いたが、人里離れた山で一人暮らしたいくらいだから、
多分、自分は現代のスピードに合ってないのだろうと思われる。
良くもまぁ、これまでやってきたもんですね?
つーくらいこの世に合っていない。
まあ、人にもよく言われる。変わってるねーと。

ぶっちゃけ、やりたい事があったから、その為に仕事はやってきて、
やれないとどうにもならないから、頑張ってやってただけだったりする。
とは言え、相当楽しんで行ってきたので嫌ではなかったけど。

そんなアタシがやってこれたのは、ひとえに生きていた世界が特殊なモノだったからだろう。
この世の中のテンポをあまり考えずとも、そこは個性で突っ走っても許される度量があった。
が、世間の波に揉まれつつとなると、オイラ生きるのは結構難しいらしい(; ̄ェ ̄)
この数年でそれをとても強く感じた。

その最たる部分は「現代的な要素のなさ」ではないかと思われる(⌒-⌒; )
多分、私はなんとか時代とか、戦前戦後とか、アメリカで言うなら開拓時代とか
レトロティックでノスタルジアあふれる時代のテンポの方がしっくりくるのだ。
多分、文明を遠くの憧れの対象としてイメージしてるくらいがいいんだろう。

私はテレビやネットを見続けたりするよりも、本を読んでイメージする方が好きだ。
実際、テレビとかネットとか究極を言えば必要ないし、
かなり長い間(何年も)全く見てもいなかった。
それよりも文章や世界にある表現や事象から
感覚や映像を感じ取っていく方が心地いい。

だからだろうか。
私は何につけても感覚の乏しい人(無頓着とも言う?)が苦手である。
そういう方とうまく交われない(´Д`;)
自分の度量の狭さに情けなささえ感じる位デスが。
なぜなら、そういう方っていうのは大抵感情に乏しく、
何を考えているか全く感じられないからなのだ。
なんというか、その人の持ってる風が吹いてこない…。

ワタクシの言い方は抽象的でわかりづらいかもだが、
具体的に言えば、例えば「味覚」とかでもそう。
何でも美味しく味わって食べられる人はいいのだが、ただなんでも食べる人は苦手。
こういう人の「美味しい」は全くあてにならない、と、私は思っている。
だって、こう言う人は、
「野菜は生でも食べられるから大丈夫だよ。えへ♪」
なんちゃって、生煮えの料理であろうが美味しく食べちゃうのだ。
これは、私に言わせれば味音痴というのに等しいし、有り得ない( ̄◇ ̄;)
多分、ディズニー映画のねずみのレミーとはかなり気が合うに違いない(笑)
まあ、家族以外では実際そういう人がいても、
その人のあり方ですから面と向かっては言いませんけどね。

料理もこれまた然りであります。
この世の中には文明の利器が転がりすぎてて、それを使って皆さん料理をなさる。
全く手を汚さないでカッターで野菜を刻み、手を汚さずに泡立て器でコメを洗い、
インスタントのスープをポンと鍋に放り込んで、電子レンジでチンする。
そんでもって、ご本人は手をかけて料理をしたと思っている。

あたしはこういうのがまたダメだ。
別に便利グッズを否定はしない。便利だし、使えば助かる人もたくさんいるのだから。
ぜひ、上手に活用すべきだと思っている。
ただ、手の感覚が育っていく機会が「便利を使うのは当たり前」の意識で
この世からなくなってしまうのは恐ろしい事だな、と心底思うのだ。

野菜を握る感触、煮えていく感触、すりおろす感触、切る感触、
舌触り、香り、そういうものを覚えて行くために感覚はあるのに、と思ってしまうのだ。
機械を使ってる人は、どれだけ料理をしても、それは絶対わからない。
ものづくりをする自分から言わせれば、その感覚がモノを作らせる。
そこが発達していなければ、どんなに器用でも作れない。
そして、その感覚を感じていることはもっと大事。私はそう思う。

生活面もそうである。
「女子力向上!」なんて言いながら、落ちてるものも跨いで歩く、
「だって、片付ける人がそのためにいるんだし…」
なんて言ってる、その感覚が苦手なのだ。

言葉にしても、そう。
最近、偶然に朝のEテレでやっている俳句の番組を見たけれど、
言葉の意味の失われ方には驚くものがあった。
文字は読めても、全く意味がわからないらしい。
「なにいってんだか全然意味わかんない」
と、出演者のギャルがあっけらかんと言っていた。

確かに昔も言葉が苦手な人はいたけど、
それは意味はわかってるけど言い違いしてしまう、
それがおかしい、と言うのが殆どだった。
でも今の時代は言葉自体が全くわかんないのだ。

言葉は確かに変わりゆくもので間違いないと思う。
例えば昔覚えた英語は今や死語もいっぱいだ。
ただ、だからと言って、元々の言葉は消えていない。
だから古い文体を読んでも理解ができるし、美しいと感じる。

ところが、日本語はちょっと危ない、と感じる。
だって日本語は言葉自体が消えてしまいつつあるから。

例えば、お侍さんの言葉は、昔は子供が時代劇を見たって理解できた。
なぜなら武家言葉はいわゆるMAX敬語に当たるものだからだ。
そういう言葉の変容が生活の中にあったのだ。
だから、今、使われていなくたって、容易に理解できた。
丁寧にしゃべるとああなるんだな、って理解して美しさを感じた。

でも今は生活で言葉が変得られる人が少ない。
みんな、ローラちゃんみたいなもの(⌒-⌒; )
(でも、ローラちゃんは意味わかってやってるけどね。)

でも、今は
「そうでござる、だって~(笑)、ってかさぁ「ござる」ってなんだよ?猿?」
「あー、きっとそうだよ、そういう猿だぞって意味じゃね?」
と本気で言っちゃうんである( ̄◇ ̄;)

それでいいのかい?と突っ込んでみても
「わかんなくても指させばわかんじゃん。わかればそれでよくね?」
ってな、もんである。

考えないし、知ろうとしない。
合理性だけを求めて、結局解ればいいとくる。
もう何もいう気がしなくなる。


私に言わせればそんなの良くない。全然、よろしくない。
意味の理解できない言葉は話をしてたって言葉じゃない。ただの音だ。
つーか、音にも意味があるから言霊と呼ぶのに、音にすら失礼だ。
ノイズだ、ノイズ!ヽ(`Д´)ノ
なーーーーんて思っちゃいますがな。

でもこのままじゃ日本語の美はなくなる。そんな気がする。


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世の中は「言葉」で成り立っている

人間性を磨くにはまずは基本の「言葉」を正すこと

「美しい言葉には、美しい魂」が、
「汚れた言葉には、汚れた魂」が込められ、
その人の人生を左右する

普段使っている「日本語」は、ひとつひとつにも意味があり、
本当にすばらしい【言葉】と言われている。

例えば、「神」/「かみ」という言葉。

「か」というのは、おかあさんの「か」。
宇宙の神の素晴らしい命が含まれているという意味がある。

「み」というのは、満ちるという意味があり、
つまり、「かみ」とは「偉大なる神の知恵が満ちあふれた素晴らしさ」という敬語。

このように日本語~大和言葉には霊的な意味がこめられていて日本人の叡智を伝えている。

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なぁんて事を感じてる人はどれだけいるのやら。
皆無に近いんではないか?と思ってしまう今日この頃。

意味を持たずに、ただ知ってる語彙を意味も知らずに発してるだけなんて、
感情を持たないロボットより、コンピューターよりダメじゃん。
そのうち、お前たちみたいな劣勢の生き物は文化を滅ぼすとかナントカ、
ターミネーターみたいなマシンたちに乗っ取られそうだ、
と本気で思っちゃいますよ、アタクシは(; ・`д・´)


それなのに2ちゃん言葉だの、ギャル語だの、生まれていく。
もちろん、生まれても廃れるのだが。
なぜ死語なんつーのがあるのか?
当たり前だ、意味もなさなきゃ、美しさもない。
第一、その時にしか使えないような価値しかないからだ。
残す必要を人間の魂が感じないから必然的に消える。
まあ、それに気づいている人も少なかろうけど。


マザーテレサが言いました。

思考に気をつけなさい、それはいつか言葉になるから。

言葉に気をつけなさい、それはいつか行動になるから。

行動に気をつけなさい、それはいつか習慣になるから。

性格に気をつけなさい、それはいつか運命になるから。


言葉の根っこには「思考」がある。
つまり、「その人そのもの」がそこにある、ということだ。
それが言葉になり、行動になり、習慣になり、性格になり、運命を定めてしまう。
意味を知らなければ、意味のある言葉は語れない。
そういうことだ。


10年前、ある人たちのやり時から、ある一つのことに気がついた。
人には、考えている人と、考えていない人がいる。
意味を持つ言葉を話す人と、話せない人がる。
そして、考えていず、話せない人ほど、意味を持って話していると信じている。
話すこと自体を、話せる、と勘違いしていて、
考えることを、考えられる、と勘違いしている、ということだった。

この違いは実に大きい。
そして、これは心しておくべきことだ、と自分の心の中にしまった。
これはある種の危機だ、と感じた。私はもう10年危機を感じ続けている。

いつから、こうなってしまったのか知らないけれど、
やっぱり世の中、自分で考える力が失われている気がするな。


友人がF1レーサーだったのだが、あるときこんな話をしてくれた。
今の人って誇りがない、本当に恥ずかしいって事がわからないね、って。
(今の人って言うけど、その人も25だったんだけどね⌒-⌒; )

その友人が言うには、レースクイーンなる方々は
売れっ子、そうでない人含め、貧富の差が激しいらしい。
で、みんな飲み水を持参しているらしいが、
以前は高価だったコントレックスとか
そう言うお高いお水を持っていらっしゃる。

あるとき、レース場の傍の公園を通りかかると、
レースクイーンたちが水道に群がっている。
遠目に見ていると、空きボトルに水を詰めている。

ところがレース会場に入ると、その公園の水を飲みながら
「やっぱり水はこだわらないとね」って話している(笑)
そして、国産の安い水を持ってきている子をけなす。
レースクイーンなのに恥ずかしい、格が落ちるよね~、って。

その友人は言っていた。
恥ずかしいのは、水ごときで見栄を張ってるお前らだ。
国産だろうが、安物だろうが、気に入ってるとか、
お金貯めたいから我慢してるとか、それの方がよっぽど価値ある。
恥かしいと思う基準が間違ってるんじゃないか?
公園の水をボトルに入れて、買ったふりして飲むのは恥ずかしくないのか?、と。

私もそう思った。
世の中、このごろ、基準がおかしい気がする。

このところ、尖閣諸島の領土問題を見ていても
世界各国でそう言う危機があるような気がしてみている。
あの略奪や暴挙はそういった表れの気がする。

尖閣に関するデモなどの事件に関しては賛否両論あるだろう。
何が一番の解決策だとは私もはっきりは言えない。


私にはいろんな国に友達がいる。日本人も外国人も様々だ。
国際結婚してる人も多い。

私の祖父は第二次世界大戦中、日本で2本指に入る竹製品の会社をやっていた。
もうひとつの会社と半分ずつ日本の家庭と日本軍の使用する竹製品をまかなっていた。
北京にも店があり、召集されてシベリアに抑留されてからも、
ロシア語、ドイツ語、中国ごと語学が堪能だった祖父は
ロシア人の心ある牢番の人に助けられて脱出、
中国人として大陸で2年を暮らし日本に戻ってきた人だ。


私もアメリカにはあちこちに友人が散らばっているし、
実家のシェアメイトさんのお母さんはご主人がイギリス人だし、
今はお二人で韓国で暮らしている。
友人はご主人が中国人だ。お嫁さんが中国人のお友達もいる。
私の出身劇団には韓国人や中国人の俳優さんだって沢山いる。

だからって、悪いことは悪いと思うし、譲れないものもある。
だけれど、とても複雑で心配な気持ちになる。


♪殺せ殺せ 裏切り者を
 憎い日本に祖国を売った
 日本人を殺せ殺せ
 殺せ漢奸 裏切り者


 この苦しみは この悲しみは
 忘れられない 消えはしない



これは某劇団に入ったとき、上演され、自分たちのデビューになるだろう
と言われていた作品「李香蘭」冒頭の中国人たちの歌である。

平和な中国の大地に、銃声が聞こえ、
日章旗が倒されて中国旗が上がる中でこの歌が始まる。

あの尖閣デモを見たとき、すぐにこの歌が浮かんだ。

当時、私たちは戦時中の日本人と中国人を演じなければならなかった。
演じるためにいろんなことを学び、いろんなことを考えた。

中国人として日本人を殺せと歌い、日本人を許さない、と歌い、
大虐殺のシーンでは車に追われて銃で撃たれ、
中国学生軍になり9月18日の心を綴った松花江上を歌った。

かたや「兄さん、お国のために頑張って」と
家族が食べるために売られていく日本の娘を演じ、
日の丸を振って勝ってくるぞと勇ましく!
兵隊さんのおかげです♪と歌う子ども達を演じていた。
ニイタカヤマノボレの手旗信号を必死に練習し、
特攻兵たちの手紙に泣き、戦闘機が落ちてゆく姿をみながら海ゆかばを歌った。


昔々の話だが、韓国人のおばあちゃんが日本に来た、日本語がとても上手だった。
子供らは屈託なく、何でそんなに日本語上手なの?と聞いた。
おばあちゃんは笑って「昔、韓国は日本だったんだよ」と言った。

その時は意味がわからなかったが、この作品を学ぶときにそれが浮かんだ。
もし、自分が、日本の片田舎に暮らしていたとして、
なんの政局も分からぬままに、国を奪われたといきなり知らされ、
お前たちはもう日本人じゃない、日本語を使うな、と言葉を奪われ、
喋れなければこうだ!と暴行を受け、虐げられる日々を経験したら
私はあのおばあちゃんみたいに笑って過去を話せるだろうか?
きっと、こんなひどいことされたと自分の子供らにはいうに違いない。
反日の根底にはそういう思いもあるだろう、そう思った。

私の地元は特攻隊の基地がある。
幼い頃から特攻兵の話を聞いて育った。
家族を守るために死を選んだ人たちの心は多分、ほかの人より理解できる。

そう言う気持ちがこの作品の中に、歌の中にあるのだ、と思った。
今の時代を感じながら、そんな事を思い出す。

今の時代からすれば、バカじゃないか?と思われるのかもしれないが、
私は、日本は世界に「戦争しません」と宣言した美しい国だと思っていた。
日本の教育の美しさは、敗戦国でありながら、
未来を作っていく若者に、憎しみを教えないことだと思っていた。

宇宙から地球を見た毛利さんが、地球に国境はない、
と言っていたけど、実際、地上ではそうはいかないらしい。

今の難しい問題には何も言えないけど、
自分自身はたった一つだけ守りたいことがある。

例え、どのような時代であり、流れがあったとしても、
チョンだの、支那だの、ヤンキーだの、
他国を侮辱するような言葉は私は使うまい。
文化や経済の差はあれど、人種の違いはあろうとも、
どの国も同じ地球に暮らす上で上も下もない。
国や人としての最低限の尊厳は守られるべきだ。
それを自らの声で破るのは、言葉の美しさ、つまりは魂の美しさに関わる。
それこそ人としての品格が失われる、と私は思う。


震災でこの世では富も権力もあまり意味をなさないと
私たちは尊い命と引き換えに思い切り知らされたはずな気もするが、
蓋を開ければ、下手したら戦争にもなりかねない騒々しさがある。
人間ってねー(´Д`;)


できれば、平和に、穏やかに。
どの国の人々とも屈託なく笑って話したい。
私はそう願う。

これは事実、そう言われた言葉らしいが、李香蘭の裁判で、
裁判官が怒りに身を任せる中国人たちに向けてこう歌う。


♪この不幸なできごとが 
 後の世のための教えとなるように
 憎しみを捨てて考えよう

 憎しみを憎しみで返すなら 
 争いは未来永劫、続くだろう

 徳をもって怨みに報いよう
 徳をもって怨みに報いよう



世の中は、そんな甘いことでは動かぬものだ、
と知ってはいるけれど、敢えて、私は思う。

できることなら、この世において、全ての争いが、
この歌のように集結を迎えて欲しいと願います。

ここにそう願う。


いつもの如く、あっちゃこっちゃと話が随分それてしまったけど(⌒-⌒; )
ひとりごとです。
そして、私はあまりこの時代にソグワナイ気がする、って話。
とにかくこの時代にはテンポがトロいんだね。うん。
やっぱ、人様に迷惑かけぬには、山にでもこもるしかないんですかね(笑)
いや、そのほうが幸せなのかもなぁ。

葛藤は続くなり(笑)

徒然便り

2012-09-27 | KOFUKU日記



【玄関横に今年も彼岸花が咲きました。秋です(もう散りました…)】

この記事を書き始めてから、はや半月( ̄▽ ̄;)
お彼岸も終わりましたし…まろたんの誕生日もすぎ、
その間に竹島に続いて尖閣で中国デモ悪化、
書き始めは荒れ狂う台風の中でしたのに…また台風が来るらしいし( ̄◇ ̄;)
時間が経つのは早いわー(しみじみ)


夏前からの不調抜けきれず、不調なところにあれこれ起こり、
さらに重くなったりもして、なかなか前に進めない日々デス。
それでも、一時期よりは動けるようになったので良しとしまふ(*´∀`*)
やっと、数枚手紙もかけたし、少しはやらなくちゃいけない事の他にも動けるし。
うんうん、よくやってる、アタシよ、なんとか踏ん張ろうね(笑)



【なんだかんだ言っても仲良しなのよね】

ちびさんたちは相変わらずお元気さんデス♪
ホントにこの子たちのおかげで元気もらって、
なんとか生かさしてもらってますなぁ。
感謝、感謝(-∧-)




【今日は快晴。全員一列で日向ぼっこ中デス(*´∀`*)】


 

【チビチビたちはお庭の探検にハマっています】



そしてお彼岸の23日はまろたん3歳のお誕生日でした~!オメデトウ(^▽^)ゴザイマース

 

【まろたんも3歳 お父さんにもなってたくましく成長!相変わらずイケワンです!(´∀`)】





【そんな3歳児まろたんのお気に入りはお米と野菜のストック箱(笑)】



 

【家族全員揃わず淋しげなお誕生日でしたが、手作りケーキでお祝いもしました。】




【ちびたちもお父さんまろくんをキッスでお祝い(笑)】





9月に入って、少しだけ手紙書いたり、やること以外にもちょっと気持ちが動くようになりました。
かなり波はあるけど、ここが大事だから良しとします。

 

庭のしそが穂を付け始めたので、シソの実漬けをしたり、
にんにくしそペーストを作ったり。




【チビ達も収穫のお手伝い】


 

【鶏ハムを仕込んだり、朝ご飯にスコーンを焼いてみたり、少しづつペース取り戻し中】



気持ちにムラがかなりでやすくなっているので、
大事にならないよう無理だけはしないように気をつけつつ過ごし中。
何にもできないときは何もしない。出来る時にさっとやる。

どうしても落ち着かないときは、11月の相方さんの命日に向けて
祈りを込めつつひたすらに折り鶴をおっています。



【千羽鶴を製作中】




最近、秋になったせいか、心が落ち込みやすいからなのか分かりませんが、
どこか遠く人里離れたところで、犬や動物たちと暮らせたらなぁ、と思ってしまうのです。
もう少し広いスペース(庭がね)があるところで、
この子たちが大声で騒いでも迷惑にならないようなところに行きたいな~って。

自分の人生の先を考えると、そう出来たらいいのになぁ、と思ってしまうのです。
今みたいに近しい人に自分の都合で迷惑かけずとも生きていけるようになればなぁ、と。
遠くに行けば、誰もいなければね、もう誰もいなくても、生きていくしかなくなるでしょうし。
今は通販もあるし、食べるくらいの野菜も作れるでしょうし。

ただ、先立つものがない( ̄▽ ̄;)
そこだな、問題は。
宝くじでも買うか?(3億9千万目指しちゃうか?笑)

どこかなぁ、家仕事でやってけるところないかしら?
どっか大勢の犬付きで暮らせる家と場所はないかしら?
そう思う今日このごろデス。


こういう風に思うのはあたしだけかなぁ、と思っていたら、
先日、小岩に住む妹と話していると、妹もそうだと言っていた。

すぐ下の妹は今はおウチで内職をして生活費を稼いでいるのだが、
外に働きに出れば、全然稼ぎがいいのはわかるんだけど、
どうしても家の中に居たいんだって。
誰にも会いたくない、一人で仕事してたい、って。
すっごく明るい妹なんだけどね。そう言ってました。

まあ、思うに、これは昔がかなり関係してるんじゃないかな?と。
我が家は特殊な環境で、いろいろ大変だったのだけど、
特に大変だったのは、周りに寄る言われない攻撃です。

貧しいからって、他の人に迷惑かけてないのに虐められたりとか、
いま社会問題になっているイジメなんて比べ物にならないくらいだったし。
周りは憶測であれこれと人の家庭に突っ込んで、
悪気もなしにあたmり前みたいに物を言うから、それに傷ついたりとか。

要は今までの人間関係の苦労が今になって出てるんだな。
苦労しなきゃいけなかった頃は、それらの関係をスルーしたくてもできなかった。
そんな中で働いたり、生きていかなきゃいけなかった。

でも、自分の平安な場所が少しでもできると、そこに居たいんだよね。
多分、そのくらい、辛かったんだな、ホントは。妹も私も。
だから、これ以上、人と関わって傷つきたくない私が内にいるに違いない。
だから、家が好きなんだなー。誰とも会いたくないんだろうな。
今の私はそのピークにいる感じがする。




【なにが起こってもマイペースのチビたち。こうなりたいものです(^-^;】


いつか、外に出たい欲求が生まれてくるのだろうか?
なぞだけど。
待つしかないのかな

希望だけは捨てるまい。