
【青空の下、咲く特攻花】
一つの敗北が 次の敗北を呼んで、いつか
日本は負け戦の渦に飲み込まれる
たくさんの若者たちが天国の門をくぐって行く
南の海で 青い空で 深い森の中で
泥沼の戦争の終わり 最後を飾ったものは
深い傷跡残す花火 生命奪う 花火
(ミュージカル李香蘭より)
南の大地には、初夏から秋にかけて、
この黄色いコスモスのような特攻花があちこちに咲いている。
私の本籍は特攻隊の基地があった場所。
その周りもこの花でいっぱい。
特攻機が飛行場から旅立つとき、送り出す少女たちが兵士に花を贈った。
この黄色い特攻花を花束にして贈ったという。
この花を抱えて、若き兵士たちは特攻機に乗り込んで旅立っていった。
飛行場を飛び立つと、飛行場の上をぐるりと旋回し
3度羽を振って下にいる人たちに別れを告げる。
それから開聞岳を目指して飛ぶ。
開聞岳を抜けたら東シナ海、日本の大地との別れの時が来る。
その開聞岳を抜けるとき、兵士たちはもらった花束を
大地に向かって捧げ、この先の日本と愛する人の平和な未来を祈り、
日本の大地に永久の別れを告げて南の海に飛んでいった。
その花から種が落ちて、花が大地に根付き、一面の花畑になった。
そこは特攻岬、と呼ばれている。
私のカラダの中には、どういうわけか戦争というものを過敏に捉えるアンテナがあるらしい。
母も本当に魂の根っこから博愛の人だったけれども、
たぶん私も母のように善人ではないけど平和が好きだ。
父方、母方共に旧家で、それなりの地位にあった
我が家のルーツの中からは「戦」の姿は消せない。
シベリア帰還兵の祖父を持ち、原爆の語り部の大叔母を持ち、
特攻兵たちを涙ながらに死に送り出した祖母や母を持った私は
役者と言う仕事について以来、ライフワークのヒトツとして
イノチや愛についての小さな舞台作品を書いて上演してきた。
なんで、そんな風に思うようになったり、書くようになったのか考えると
たぶん、幼い日に南九州一の神社でもある開門神社の奥、御神体の前で、
祖母の親友だった九州一の霊能力を持つというおばあちゃん巫女さんにお会いし、
そこに、お祖母ちゃんが降りてきて、たくさんを話しをした経験が大きいかもしれないなぁ。
「今まで、イノチが続くなかで、たくさんの争いがあって
人様のいのちをとったり取られたりしてきた昔がある。
身罷ったイノチの中にはまだ迷ってる方も恨みを持つ方もいるから
そういう人たちが、はやくこちらの世界に来られるように、
もう二度とそんなことがないようにと平和を祈る生活をしているのだよ」
おばあちゃんはそんな事を教えてくれた。
そんな言葉が心の奥深くに根付いて花咲かせたのかもしれない。
私の書くものは、いずれも実話をベースにリ・イマジネーションした創作ばかり。
(もちろんオリジナルも書くけど、少ない)
舞台は世界のあちこちで起きた戦争をテーマにしていることが多い。
戦争時を描いても書きたいのは反戦じゃない。
もちろん反戦活動するつもりも、してるつもりもない。
戦争時と言う究極の時ですら、人間のイノチの生まれいづる場所から、
人のタマシイの奥深く、何かが生まれ来る場所から、
途切れず生まれてくる愛やイノチを書きたいと願う。
反戦を掲げたいのではなく、普遍的な愛や平和を語りたいって想う。
そんなココロが争いをなくし、愛を選ぶことになる
そんなちいさなカケラになったらいいと心から願いながら書く。
最初に書いたwar storyはこの地元の特攻隊が舞台の二人芝居(半朗読劇)だった。
「ホタル」という映画にもなった特攻兵のエピソードを私なりにアレンジして書いた。
それを書こうと思ったきっかけは、昔のことだけれど、まだ劇団研究生の時、
友人と一緒に帰省して、同じ劇団にいたお兄ちゃんの家に泊まりに行った時のこと。
兄ちゃんの実家も特攻隊の町にある。夏だったから慰霊のお祭りがあった。
今もゼロ戦や宿舎の残る、特攻基地のあった場所で行われる慰霊祭。
お祭りもたけなわになったときだった。
人々の群れより、ずっと後ろの方から見ていた私たちだったけど
兄ちゃんが私をイキナリ掴んだ。
びっくりして振り向くと兄ちゃんが静かに指をさした。
「福ちゃん。ほたるだよ。魂が帰ってきた。」
指さした方に小さな光がふわりふわりと飛んでいる。
本当にふわりと舞って、すう、と兄ちゃんの肩にやってきてとまると、
また舞い上がり、ふわふわと夜に吸い込まれて消えていった。
そして、驚いたことに、それは私と兄ちゃんにしか見えていなかった。
お兄ちゃんはもともと亡くなった人が生きている人のように見える人だ。
人のイノチの波動が光になって見える人で、体の悪いところとかもわかる。
優しい、本当に魂の綺麗な人だ。
ついでに自分の祖母もおじも同じような力があった。
だから、目の前で起きたことは何ら不思議じゃなかった。
光を見てるとき、不思議な感覚がした。
あぁ、この感覚…そこに人がいたんだ、と思った。
自分が初めて参加したミュージカル作品は「李香蘭」と言う戦争ものだった。
お兄ちゃんズの一人が特攻兵の役で舞台に上がっていた。
その劇場リハーサル見学の時、ちょうど特攻兵たちが言葉を残していくシーンでのこと。
後ろに誰か立つ気配がした。いや、立てるわけないのだ。
本番稽古の真っ最中で、しかも後ろには同期が座ってる。
すると、隣にいた仲良しの子が、こっちを向いて手をギュッと握ってきた。
明らかに気づいている。
すると、肩に両手が置かれた感触がして耳元で声がした。
「ホントのことだよ」
細くて優しい声だった。怖くなくて、あたたかかった。
この出来事を忘れないでね、と言われた気がした、あの時と、同じ感覚。
その時、いつか「ホタル」のことを書こう、書かなくちゃイケナイ、って思った。
山の中の町があるところから特攻基地に行くまでに川がある。
川岸には丈の高い草の葉が揺れているところも多い。
夏のはじめ、川岸に降りて、草葉を揺すると無数の蛍が天に舞う。
この町は日本でも有数の星降る町で有名な場所。
蛍たちに囲まれて、大地と天が繋がって、
まるで自分が星空に浮いているような錯覚が起こる。
私の作品には年の離れた隊長さんと若き兵士が出てくる。
その若い兵士は町の食堂に勤める女性に恋をしているが
死にゆく自分の身を知っていて、告白はしていない。
その3人で蛍を見にゆく。
そこで、こんなシーンが展開する。
飛び立つ蛍に顔をあげれば、夜空に満天の星。
まるで身体が星の中に浮かんでいるようです。
「これが知覧の蛍です。」
そう言って八重は笑顔をむけました。
「美しいです。まるで星の中にいるようです。」
「まるで別世界だな。ここで戦争しているとは思えんな」
「ほんとに…。この光の一つ一つがまるで魂のようですね。
…隊長、八重さん、お二人は魂は永遠のものだと思いますか?」
「なんだ、やぶからぼうに」
「自分は死んでも魂は生きるのだと信じてるんです。
魂は死んでも生きて、愛する者達を永遠に守ることができるのだと。
今日、このホタルを見て、ますます、その思いが強くなりました。」
「…そう、だな。そうだ!俺たちは永遠だ!
奇しくも貴様と俺は生死を共にする事になったわけだが
俺たちは死んでもこの日本を守るぞ!なぁ、椿!」
「はい!」
「そうだ、では死んでも魂は永遠だってことを俺たちで証明しようじゃないか。
おい、椿、どうする?」
「…では、我々が見事、本懐を遂げたら、このホタルの姿を借りましょう。
この美しいホタルになって帰ってこようではありませんか」
「ホタルか、…いいな、うん、それはいい」
「…八重さん。もし、自分が出撃したら、必ずホタルになって帰ります。
一番にあなたに会いに行きます。
必ず行きますから、決して追い出したりしないでくださいよ。」
椿は真剣に、それでいて満面の笑みをたたえて言いました。
それを聞く八重の目にも、隊長の目にも涙が光っていました。
(war storys「友」より 作・夢街福)
このあと、二人は出撃しますが、機体トラブルで隊長だけが帰還します。
そして、その夜、一匹の蛍が戻ってくるのでした。
私の話は想像にしか過ぎませんが、蛍になって帰ってくると言い、
本当に蛍が戻ってきて皆で迎えたというエピソードは実話です。
お話の中で、死んでしまう少尉は、隊長に悔いを残すな告白しろと言われますが
愛する人に悲しみを残して死にたくないと最後まで告白しません。
上のシーンは、そんな少尉の精一杯の愛の告白、
「あなたを愛していました。これからも永遠に愛します」
と言う、人生で最初で最後の愛言葉なのでした。
これはお話だけど、本当にそんな時代があって
そんな風に愛を終えていった人達がいる。
魂になっても、戻ってきたい人達がいる。
生きたい明日を諦めなければならなかった人達がいる。
昔も、そしてどこかで争いが続く今の時代も。
「勝てば官軍負ければ賊軍」
そんな言葉がある。
争って勝った方が「正義(正しい)」、負けたら「不義(間違い)」
「聖戦」とかって言葉もある。
バカめ。ほんと、あたしら人間ってバカだな。
勝っていい戦争も、負けていい戦争も、あっていいもんか。
聖なる戦なんか、あっていいもんか。
私は心底からそう思ってる。
こんな日に、こんな事を書けば、右翼だのなんだの騒ぐ輩もいるだろう。
言っとくけど、アタシは右翼でも左翼でも「ナイ」ぞ。
そんなもんに私を振り分けられたくない。
アタシは、種類をわけねば人と関われない世の中なら無くていい、と思ってる。
もう、そんな風になっても生きにゃならんなら人間やめてもいいと思ってるよ。
もう、そうやって、種類を分けている時点で「戦争」じゃないか。
究極、そんな風に思ってる。
この区切りのない宇宙の、どこにも線引きのない地上ですら
見えない線が引かれて、色が違うとか、言葉が違うとか、習慣が違うとか
そんなことでしか一つにしかなれず、群れて戦うなんて、私にはアホらしい。
違うのはイケナイの?
違うって、その違うものを知るためじゃないの?
知るって、愛する第一歩じゃないの?
それを「違い」と否定するなら、人は永遠に一歩を踏み出せない。
生まれた場所を愛するのが、悪いこととは思わないよ。
それはもう、当たり前の感情だし。
でも、だからって生まれた場所以外を否定するのは?
ねぇ?どうなの?本当にそれでいいの?そんな否定を繰り返しながら
「ヒトツ」「平和」とか言ってるその口は一体どんなヒトツと平和を何を語るの?
聞かせてよ。私はいつもそう思ってる。
もちろん、人にはいろんな考え方も信念もある。
それは悪くない。それもわかってる。
その考え方の下には、正しいことも、そうでないこともあると思う。
ただし、この世には真理ですら、
人がいるだけ数があるという事、私は忘れたくない。
だから私は、自分をはっきり持ちたい。でも、それは私がわかってればいい。
自分が考えて出来ることを精一杯やることが何より大事、そう思ってる。
だから、私はどんな考えも否定しない。
だけど肯定もしない。是も非も持ちたくないと思ってるから。
それは、戦争というものに対してだけでなく、何事にも。
人間関係であれ、政治であれ、なんであれ。
だからデモもやらない。
善い悪い、正しい正しくない、を宣言することには参加しない。
たとえ正しいことであっても、そこに誰かを裁く言葉や
行いがあってこその正しさなら同調はしたくない。
あたしにとっては、それはいろんな立場での
正義をかざした小さい戦争にしか思えないから。
それよりは、みんなで同じモノを見つめられるようになっていく努力をしたい。
それが今かなわないとしても、未来を見たとき、自分にはそれが大事だから。
私自身はどんな道をたどっても相手を愛したい。
「あなたはわたし わたしはあなた」
これは私のモットーだから。
この世界に存在する、すべての私とヒトツになるために。
正しさを競うより、手をつなぐため努力を続けたい、と願う。
68年前のあの暑い夏に、多くの若者たちが
愛と平和の祈りこめ空から捧げた特攻花の黄色い花。
あの小さな野の花が、今は岬をすべて埋め尽くすように
私の人生は未来に平和を咲かせるための祈りのちいさき種でありたい。
今日はひいおばあちゃんの命日です。
終戦の日に亡くなったひいおばあちゃん。
イノチのつながりをありがとう。安らかに。