《在りし日の夢の街建設中の相方さん》
NHKの番組に「明日はどっちだ!」というのがある。
その番組で関岡さんと言う女性の大工さんが取り上げられて
3ヶ月かかって家を建てる様子がドキュメントされた。
こつこつとその手を遣い、頭を使い、丁寧に仕事を進めていく。
時に涙し、時に悩み、それでも施主さんの夢を作ろうと必死で自分を奮い立たせる。
それを見ながら、いろいろ思い出す私がいた。
ここにひとつのウタがある。
「あい」 谷川俊太郎
あい 口で言うのはかんたんだ
愛 文字で書くのもむずかしくない
あい 気持ちはだれでも知っている
愛 悲しいくらい好きになること
あい いつでもそばにいたいこと
愛 いつまでも生きていてほしいと願うこと
あい それは愛ということばじゃない
愛 それは気持ちだけでもない
あい はるかな過去をわすれないこと
愛 見えない未来を信じること
あい くりかえしくりかえし考えること
愛 いのちをかけて生きること
「あぁ、なんだ」
そんなの誰だって知ってんじゃん、と思った人も多かろう。
こんな定義、誰でも感じてて、知ってるコトでしょ?と。
だけど、それがどんなことか、本当に知ってる人は、本当に少ない。
そう、私は思ってる。
たくさんの人が、いろんな愛を気軽に語れる時代になったから
みんなは愛を知ってると思ってるケド、嘘だ。
その分、人は愛を知ろうとしなくなった。
このウタはこの地上にあるもの、イヤ、宇宙の全てに、
物質でない感情のすべてに宿っている。
すべての愛のウタだ。
《夢の街の硝子の中にはイノチが潜んでいる》
「あい はるかな過去をわすれないこと
愛 見えない未来を信じること
あい くりかえしくりかえし考えること
愛 いのちをかけて生きること」
過去、未来、繰り返し、いのちをかけて生きる
そう最後で謳われている、このウタ。
そうだ。
人間って肉体としては百年足らずの人生しか生きられないのに
そのカラダの中に永遠と思うほどの時間を抱いてるから不思議だ。
なにもない闇の中、引き寄せられるように集まったモノが
ある日はじけて一つになって、星が生まれた。
星の体内で海が生まれ、その中でイノチが生まれて、
大地にイノチを繋ぎ、そして時代を紡いで今日がある。
人はその膨大な時の流れを、生まれ来るときにもう一度辿って生まれる。
この星に住む人64億人、一人一秒として全員出会おうとすれば150年かかる。
そんな出会いの奇跡の中、まるで宇宙にこの星が生まれた瞬間みたいに
なにもないところに引き寄せられた二人が出会い、見つめ合い、
そして、大きくはじけて、そのカラダの中に生命を宿す。
出会いは数え切れない時間の繰り返し。
そしてカラダの中でも、同じように何もないところに出会いが生まれ
そしてぶつかってはじけて小さなイノチの種がうまれる。
小さな種は母親の胎内に生まれた海の中で小さな魚になる。
手が生え、足が生え、しっぽが切れて、どんどん人になっていく。
母親の海の中から、這い出て陸に上がり、大地に足を踏ん張って立ち上がる。
何億万もの年月を10ヶ月で繰り返して来るのだ。
人として大地に立った私たちは、そんな永遠のような時を抱いた一人一人と
やっぱり同じように出会いの奇跡を繰り返しながら今を生きてる。
そんな人間である私の今日の足元には、
私の超えた時間の他に私のカラダにイノチを繋いだ人たちと、
その人たちが関わってきた全ての人の時間のすべてが包括されている。
喜びも悲しみも苦しみも、全て全て、そこに在る。
それが『今』という時間。
そんな尊い事実に深く気がついた、ある日。
私の中にはもう感謝しか残っていなかった。
その時間の前に、私はもう祈るが如く佇むしかなかった。
そして、さらに奇跡が起きて、何もなかったところに惹かれあうように
同じようにそんな時間に気づいた人と奇跡の出会いをし、
気持ちをぶつけ合って、お互いのココロの中にまたヒトツのイノチなるものが生まれた。
そんな永遠にも近い時間を感謝しながら今を生きられる場所を、
と私たちはある場所を作り、それを《夢の街》と呼んだ。
《ほら、夢の街の扉を通っておいでよ》
夢は見ているだけでは、儚く消える、ただの夢になってしまう。
夢のような話は、およそ夢とは似ても似つかない現実で守ってやらねば本当の夢にはなり得ない。
《夢の街》をこの世に誕生させるには、その現実に立ち向かわなくてはならなかった。
私たちには資金的に応援してくれる家族などは持っていなかった。
少なからず、私の家族はしたくてもできない立場にあったし、
相方さんは自分事だから、家族には迷惑をかけたくないし、言えない
と相談すらしなかったのではないかと思うが、私は敢えて聞かなかった。
だから、たった二人と一匹でこの街の建設を始めた。
私たちは恵まれて、ひと握りしか入れない世界にいたけれど
既にフリーで仕事をしていたから、俳優だけでは食べていけなかった。
食べるより何より、芸術を優先する二人の生活はカツカツだった。
仕事を優先するから、毎日バイトしている人のようには稼げない。
稽古も色んな出費もある。相方の給料は全部それらに消えた。
私が稼ぐわずかのお金だけで生活を切り盛りした。
100均のクズみたいな野菜くらいしか買えなくて、
立派なものなんか何も食べられない時もあった。
行けるだけ朝早くから、夜遅くまでバイトに出かけて、
ひと品でもいいものを食べさせたいと何時間も残業した。
そんな気持ちを分かってか、彼は出されるものに文句をつけたことなど一度もなかった。
もちろん、今日の今日まで、そんなことは誰にも言わなかった。
(私たちを知ってる方、そうだったのかと思っても会った時はスルーしてね)
それでも舞台が入れば、私たちは相方だ。
表と裏、分担は違うけど同時にそこに時間を費やす。
ということは働けない。私は支える側だから、
わずかな持ち物を売ったり、頭下げてお金借りたりして生きていた。
それでも、夢を現実にしたいから、諦めたことはない。
私はどうしたって、彼の夢の街を現実にしたかった。
そして、それは一個の夢を一緒に見てる自分の夢だった。
お互い二人分の夢を背負ってるから、それぞれがそれぞれの立場でできること、必死にやった。
本当に、10年前に亡くなったソウルメイトとの人生もそうだったけど、
100%のチカラで、その時に自分のできる事を全部やった。
もう、人に何を言われようが、どんな仕事だろうが、
夢を現実にするために何でもやった。本当に何でもやった。
そう言う時間をこなしながら、同時に夢を現実にするための時間を作り出し作業をしていった。
スポンサーを探し、プランをねって、自分たちの舞台を、劇場を作る努力を重ねた。
休みの日なんか、一日も無かったし、自分の為に遊ぶとかも無かった。
いや、そんなものはいらなかった。夢を叶える方が何千倍も楽しかったから。
もう、生き方としては限界ギリギリで全速力だったけど、苦しいのすら面白かった。
スポンサーがついてからは、もうさらに必死だった。
両方が空いている日は相方とピーちゃんと一緒に車に乗り込んで、
遠くの街まで材料やセットやいろんなものを探しに行った。
舞台のセットも、工場を借りて、バイトしながら徹夜して、二人で作った。
寒い冬の工場の庭で、雪が舞う中をペンキを塗った。
朝、二人共寝ないままバイトに出かけた。
そして劇場を作らせてもらえることになり、店を探すようになった。
バイトしていても上がればすぐに東京中を歩き物件を探した。
何ヶ月も何ヶ月もそれを繰り返して、原宿でやっと見つけた店。
そこが私たちの《夢の街》になった。
店が決まり、オーナーに希望を上げて試算を出した。
業者からは最低2000万、希望通りなら3000万かかると言われた。
劇場だから建設費だけではない、照明や音響や特別な資金がいる。
カルチャースクールとしても機能させねばならないから、そのための資金も出て行く。
相方さんと私はどうするかを話し合った。
そして彼が出した答えは「業者を入れず自分で作る」というものだった。
そうすれば資材費だけでいいからだ。
最低限の生活費だけ出してもらい、彼と私はバイト先に長期の休みをお願いした。
建設には3ヶ月かかった。
その間、彼は一度も自宅に帰らなかった。
私も同じで、荷物を取りに戻るだけ。ぴーちゃんも一緒だった。
秋から冬にかけて、3人でまだ床も貼られていないリノリウムの床の上に
ダンボールをしいて、その上に寝袋をおいて生活していた。
まだ暖房も、水も、なにも無かった。そんな状態で3ヶ月を過ごした。
《最初はこの床の上で寝てましたね(^◇^;)》
私は同じようなこと(エンタメカフェ)を10数年前にも経験しているので、
その時もそんな生活だったから、そのせいか今もふかふかの布団だとうまく眠れない。
今も畳の上に薄い掛け布団を二つ折にしいて転がって寝ている( ̄▽ ̄;)
なんと言うか、ベッドでゆっくり寝るようにでもなったら、
私の中の芸術人としての大事な何かが死んじゃうかも、
とか感じて怖さもあるのだ(笑)多分、私特有の職業病なんだろうな。
《材木の山を前にしばし思案する相方さん》
ぶっちゃけ、オーナーはお金は出してくれる人だったけれど、
相方と私は手放しでそれは受け入れられなかった。
―自分たちの命になるような場所を作るのだから。
他人にお金だけ出させるわけにいかないじゃないか。
出してあげようという人の汗水流して得たお金を大事にすることが、せめてもの誠意―
彼はそう言った。
資金を少しでも、減らすために材木やビスや工具も全部自分たちで探しに行き、買いに行った。
ホームセンターで処理してあるのを買えばそりゃあ楽だが高い。
一軒を丸まるっと改装するわけだから、必要な量が半端ない。
それでは経費が高くなるからと、材木問屋でザラザラの表面のままのを購入した。
大きなトラックで運ばれて来たそれは、店の前の駐車場に降ろされて
バイトに行ってる相方の代わりに、私が一人で、何時間もかかって中に運び入れた。
運んできてくれたお兄ちゃんに、「筋いいね、大工になれるよ」と言わしめたくらいだ。
確かに150センチの身長で材木を束のまま担げる女なんて、
なかなかいないんじゃないか?、とは思う(笑)
《私が一人で運び込んだ材木たち》
買った材木は表面がザラザラのままだ。表面を削らねばならない。
相方さんと時々手伝いに来てくれたチョッピーくん、そして万ちゃんと
(この二人が居てくれなかったら完成していない。本当にありがとう。)
来る日も来る日も板をカンナかけたり、サンダーで削って磨きをかけた。
部屋の中は木屑でいっぱいだった。
相方さんはその木屑や粉になったものも、ほとんど捨てなかった。
これは人から与えていただいた愛情で、その人の大切なお金だから、と言って。
そして、それらはすべて、いろんな形で工夫されて建築材料に使われていった。
相方さんは時折、バイト先に呼び出されて、断れなくて、そこから彼はバイトに出かけて行った。
そんな日、私は日がな一日、一人で材木を削って磨き続けた。
一枚、一枚、何百枚という板をひたすら削って磨いた。
ただただ作業した。毎日、木の粉だらけで、森の精みたいな香りがした。
《材木を削ってます。全く正体がわからないけど、あたしです(笑)》
結局、業者にやってもらったのはエアコンの取り付けだけだった。
あとの設置類は全部、相方さんがやった。
そして床を張り、壁をはった。
防音はプライベートビーチを持つ友人の砂浜から何度も砂をもらってきて
壁を箱状にして、中に砂を詰めて、防音シートをはって仕上げた。
この場所は相方さんの劇場だけでなく、私の個人的な奉仕活動の場でもあった。
私の中のコンセプトに合わせて、相方さんがすべてデザインした。
私の頭と心の中を一生懸命覗いて作ってくれたのだと思う。
それはそれは素敵な場所だった。
私を思ってくれたのだろう、そのイメージを最大限に表現したいと
お金がかかっても、建具や内装だけはこだわってくれて、
私の希望に合わせて、すべてアンティークを探して使ってくれた。
昔の建具だから、窓枠なんかも売ってない。だからそれも全部相方さんが作った。
ドアも、家具も、キッチンも夢の街のものは彼が作ってくれた。
《ドアを製作中の相方さん》
お互い眠らないで作業した日も何日もあった。
でもただひたすら楽しく充実していた記憶。
ぴーちゃんも一緒にそこで過ごして、3人で頑張った。
《夢の街》はシアターとして幕を開ける予定だったから、
建設途中の雑多な中で、こけら落とし公演の稽古も重ねた。
《私たちの魂の家族でもある青木結矢くん。
空気の悪いところで本当に頑張ってくれました。》
相方さんはセットや美術も作りながら作業を進めていきました。
《稽古以外の時間はひたすら作る。深夜でも作る(^◇^;)》
《疲れたらぴーちゃんと床に何か敷いて転がって仮眠》
《そんな相方さんをずっとヘルプしてくれたチョッピー君 もう一生感謝です》
途中、日本中に散らばる心友たちが、それぞれ声を掛け合って
そして、自腹でみんなでやって来ては手伝ってくれました。
《全員で板を削ったり磨いたり床を貼ったりしてくれました》
全員、木屑だらけになって、壁板をはったり、専用塗料を塗り重ねて黒板を作ったり。
みんな、本当にボロボロに疲れるまで、頑張って手伝ってくれました。
《一生懸命、掃除機をかけてくれている“お父さん”こと、大家さん》
私と地元が同じだった大家さんは、もともと日本テレビのディレクターで
同じビルの4階に住居があって深夜でも作業していいとご許可くださり、
毎日覗きに来ては、ニコニコと手伝いをしてくださって、
「ここはね、俺の夢の場所でもあるんだ。
俺が出来なかった夢が今ここで叶ってるんだよ、ありがとう」
と言って本当に家族のように良くしてくださいました。
私たちの夢に耳を傾け、ご自身が培ってきたものを分けてくれた
スポンサーさんやオーナーさんをはじめとして(一生感謝しています)
仕事の仲間や友人、いろんな立場から、たくさんのモノを分けてもらいました。
直接、ここにかかわらなくても、そこまでの日々、出会った人々が
この場所を支えてくれているというのは、紛れもない事実です。
その人たちがいなければ、誰一人欠けていたって、ココはありませんでした。
みんな、みんな、二度と返すことのできない時間や思いを惜しみなく分けてくれました。
そう言うもの全てに守られ、愛され、支えられて《夢の街》は生まれたのです。
《劇場としてのスタートが始まった夢の街の入口で…》
《稽古中の俳優たち》
《夢の街》にはいつもお芝居があって、いつも俳優たちがいました。
《お芝居がない日も、照明であちこちが彩られています》
セットも照明もすべてあって、誰でもその空間に入ることができました。
《羊毛で作られた天使さんと家具を作る相方さん》
《お客様と共に分け合う手作りのお菓子》
やわらかな手仕事が作られる空間があって
《仲間たちが訪れては音楽を奏でてくれます》
そこここに音楽やダンスがあって、共に楽しみます
《心友が描いてくれたお正月の黒板絵(チョーク画)》
芸術が当たり前のように顔を覗かせていて
《いつも自然が部屋の中に存在していました》
みんながあちこちから季節を連れてきてくれて
《たくさんの本がある小さな図書館》
手作りの図書館があって
《自然素材のおもちゃだけが置いてある“こどもの家”》
子どもが自由に遊んでいい、ちいさなおうちがあって
《ライアー(竪琴)を奏でる音に耳を澄まします》
子どもたちが楽しく笑う声が聞こえて
《朝、お客さまが来るのを待つぴーちゃん》
ぴーちゃんが当たり前のようにちょこちょこしていて
東京のど真ん中、大都会の中の原宿、原宿通りの端っこにあった《夢の街》
《夢の街》はそんなあたたかい場所でした。
世は折しも空前の不景気に突入し、この場所は姿を消すことになりました。
業者に頼んでしまえば、一瞬だったかもしれませんが、
この場所を去らねばならなくなった時も相方さんは文句ひとつ言いませんでした。
ただ静かに経費を少しでも安くしたいし、自分の作品だから自分で元の姿に戻したい、と言いました。
作った時と同じように、床に直に寝泊まりしながら、少しずつ元の姿に戻していきました。
あたかもそれが元あったところに戻すように、丁寧に丁寧に、彼は作業を進めました。
2ヶ月半かけて、さようならの作業をしました。
《どんな時もぴーちゃんは一緒》
その間、彼は買い取れるものは、全て自分が買取りました。
はがした材木も本当に使えないものだけを処分して、
友人に頼み、全て運んで大切に大切に保管しました。
本当に小さな端切れですら、ボックスに入れて大切にしていました。
そうして終わりの日を迎えたのです。
けれど《夢の街》の灯火が消えるのを惜しんでくださった人々のチカラで
小さいけれど素晴らしい場所にそのイノチを移すことになりました。
その場所は劇場としては使えないけれど、それらを全て総括した手仕事工房として再スタートしたのです。
その時、相方さんは私ともう一人の仲間の為に一生懸命手伝ってくれました。
作品に使うための額を作ってくれたり、箱を作ってくれたり。
配線や照明を変えてくれたり、本当にいろいろしてもらったんです。
ある日、仲間が彼に依頼をして工房の床を張ってもらうことになりました。
彼は忙しい中を時間を割いて床をはってくれました。
預けたり保管していた材木を持って来て、少しの無駄も出さないように
出来るだけ綺麗な仕上がりになるように、細心の注意を払って作業をしていきました。
ときには一度はったものをはがして、デザインを変えてやり直したり、
それはそれは、丁寧にやってくれました。
「仲間がやってほしいというのだから、自分のできる精一杯のことをしてあげたい」
そう言って、仕事帰りで疲れている時も、
少しでも時間があれば、やって来て作業してくれました。
少し余談になりますが、この作業をしているとき
長野に住む心友のお父さんが訪ねてくださいました。
心友のお父さんとも20年来のお付き合いです。
ちょうど作業中で相方さんもいて、心友とは相方さんも仲良しだったから
相方さんと心友父はお互いに挨拶を交わしていました。
作業に戻ります、と相方さんが部屋を出ようとした時でした、
心友のお父さんが相方さんを呼び止めました。
そして、
「K君、福ちゃんを末永く、一生幸せにしてやってください。
どうかそれだけはよろしくお願いします。」
そう言って、深々と、本当に深々と頭を下げてくださいました。
すると、人見知りで、人前では恋愛関係を一切見せないと決めている彼が
神妙な顔をして、真っ直ぐにお父さんの方に向き直り
「分かりました」
と言うと、お父さんと同じように深々と頭を下げてくれました。
いやぁ、よかった、それを聞けて、よかった、安心したよ、
とお父さんは私に言って、ニコニコとそれは嬉しそうに笑ってくれました。
彼が亡くなる半年前の出来事です。
その後、彼がなくなってからも心友のお父さんとはたまにお便りをやり取りしますが
ある時いただいたお葉書に短くこう書いてありました。
「私は自分が彼に福ちゃんの事を一生お願いしますと言ったこと、
そして彼が私の目を見てしっかりと分かりましたと返事をしてくれたこと、忘れません。」
一人になり、すべての世界から離れて郷里で暮らす私には本当に嬉しかったです。
今でも、そのはがきはタカラモノで、大切に大切にしています。
自宅とかどこかほかの場所でなく《夢の街》でそういうことがあった、
ということは、私にとっても、一生忘れえぬ特別なことです。
そんな日常を繰り返す中で、彼は一人、黙々と床を仕上げていきました。
ここから掲載するのは、全て彼のケータイに収められていた写真です。
今まであまり掲載したことがありません。
相方さんは写真が好きで、とにかく毎日写真を撮る人でしたが、
製作した全てのものもこまめに記録していたのです。
実に膨大な数の写真が残されています。
それこそ、何千、何万の単位で写真データが残っているのです。
この床などは、本当に少し張っては確認し、写真にとっていたようで、
それだけココロをこめて作業をやっていたということだと思います。
《作業のそばにはいつも愛娘のぴーちゃんが一緒》
《張られ始めた洗足夢の街の床》
《少し進んでは撮影していました》
《どこも細部までこだわり抜いた仕上がりにしてくれました》
こうして出来上がった床でしたが、いろいろなことがあり、
作られた意図の為に大切にしてあげることができませんでした。
私のために作られた床ではありませんでしたが、それが本当に悲しくてなりませんでした。
先日、「自分のものじゃないから多少手荒に使ってもいいと思った」
と言う様な考え方もあることを知りました。
もちろん、そうおっしゃった人がどうとか、攻めてるとかじゃありませんよ。
その時の私はなんといいますか、生かされない、それを見ていて、
まさに「自分のものじゃないから別にいい」と言われたような気持ちだったのです。
なぜなら、彼がこうして一枚一枚、写真を残すほどに仕事をしたのは
その板切れの、切れ端の、本当にカケラのヒトツヒトツの中に
自分が寝る間を惜しんで、その板を探しに歩き、時間をかけて吟味して購入し、
丁寧に丁寧に、一枚一枚を削り、磨きあげた、あの日々があるから。
遠くから高いお金をかけて、手伝ってくれた友のあたたかな愛と
一生懸命作業してくれた、そのぬくもりがその中にあるから。
この板切れが劇場として生きていた時、役者の持つ苦しみや悲しみを一番知っていてくれるから。
お客さんの喜びを誰よりも知っていてくれるから。
私がここまで書いてきた、太古の昔から連なるイノチがあると知っていたから。
その繋がってきたイノチは、人のイノチそのものであり、
喜びや、悲しみや、苦しみや、努力や、生きてきた思いの全てだから。
《夢の街》の魂の一部だから。
それは、彼と私の魂のカケラだから。
私そのもので、彼そのものだから。
何よりも、彼が精魂込めて、その仕事をしてくれた理由は、
依頼してくれた人がそれを、きっと理解してくれる、
この尊いモノを受け取るにふさわしいと信じていたから。
相方さんがこの世を去り、天の夢の街に身を移し
地上の私にはいろいろなことが起こりました。
彼とともに私も長く暮らした都会から、自分の故郷に身を移しました。
それまでに、私は自分の心と裏腹に、彼と私の魂の一部であるものを
それはそれは、たくさん失なわなければならなかった。
悲しかった。
納得できなかった。
でも、どうしようもなかった。
だから、少なからずとも、大切にしてくれるであろう人に分けました。
高価なものも多かったから、売ってお金にすれば?
と言われたけれど、私はそれだけはできなかった。
相方さんと歩んだ日々を、そこの込められたたくさんの人の年月を
薄っぺらいお金に変えるようなことはしたくなかった。
でも、時折、心配になります。
夢の街のカケラたちは、たくさんの人の、彼の、私のイノチはちゃんと愛されているかな?と。
もし、ここに、私からギブ・アウェイされたモノを持っている方がいたら
どうか、ホンの少しでいいのです。ここに書かれた事を思い出してください。
あなたの持っているものには、太古の昔からの大きな流れがあるのだと。
それは、誰かのイノチのカケラでもあるのだと、どうか知ってください。
それらは、私たちがいらなくなったものでは決してありません。
ゴミでも、クズでも、板切れでもありません。
私たちにとって、この世で一番尊い愛を抱いた宝物なのです。
そして、私たちの命の一部です。
そして出来ることなら、それらを愛して頂けたら、と心から願っています。
私は今まで、こういうことを語ることをタブーとしてきました。
一緒に歩いている人が誰とか、私がどんな立場で、何をしてきたかとか。
10年以上前に亡くなったソウルメイトの鎧ちゃんとの人生の時も
また相方さんとは違う形でしたが、同じように生きていましたが同じでした。
となりにいる人が夢を叶える努力をして、私がそれを支える。
でも、親しい人にもほとんど話したことがありません。
だから時には、何も知らない仲間たちに
「ちょっとぐらい、支えてやって金出してやんなよ」
と言われたりたことも多かったです。
こういうことを公にいう事が、彼らのココロの負担や
マイナスイメージになってもいけないとも思っていました。
だから言わなかった。
でもソウルメイトが亡くなって10年以上が経ち
相方さんが亡くなって3年が経つ今、
私は私たちの生き方に誇りを持って語ろうと思います。
私たちは同志で、戦友で、愛する者同士だった、から。
そうやって、二人で一つだったのだから。
それを、誇りをもって語りたいと思う。
私と歩んでいたことを語ってもいいだろうって、そう思う。
そして、そこにあったものが、彼との日々が、《夢の街》が、
どれだけ大切なものだったかを、見ないふり、気づかないふりをしてきた
私自身のココロに真っ直ぐに語ってあげたいと思う。
そして何より、私たちのそばにいてくれた人にも、それを語る事で
私たちがどれだけ周りに感謝して生きていたのかをお伝えしたいのです。
本当に、本当に、ココロからの感謝をお伝えしたい。
本当なら、一人一人の手を握り、お礼を言いたい。
そんな気持ちをお伝えしたい、と日々、思っています。
この時代の長い繰り返しが、出会うヒト、コト、モノの全てであって
彼であり、私であり、《夢の街》です。
この想いは相方さんが教えてくれたものです。
だから、私は忘れません。
どれだけ、周りの人が私を忘れてしまったとしても、私は忘れない。
皆さんとの出会いは、私のイノチの中に生きているから。
私の、彼の、一部だから。わすれない。
ご家族や親しい人は、彼らの話を、この話を読まれて複雑かもしれない。
そんな無理をしなかったら、死ななかったんじゃないか?と思われるかもしれない。
なぜ止めなかった?無理をさせた?と思うかもしれない。
それは仕方ない思いだと、私は感じる。
だから、その非難は私が背負って生きていく。そう思ってる。
だって、私は、なぜ彼がそれを選んだか知ってるから。
それを、誰が知らなくても、私が知ってるから。
私は止める気なんか、これっぽっちもなかったから。
だから、そんな非難は私が背負う。背負って生きていきます。
彼らと歩んだ日々が作る今と《夢の街》は
私の中でしっかりと生きていて、ささやかな灯火ながら
この南の地でゆっくりと確かなイノチを刻んでいます。
もしかしたら、近いうちにそんな場所から生まれる何かを
彼らのイノチを継ぐ何かをお届けできるかもしれません。
そこには、太古の昔から巡る全てがあります。
今日まで、出会った人のイノチの全てがあります。
何より大切なものがあります。
いつか、それをお届けできたらと思っています。
これをお読みくださる、あなたの持っている
ちいさな何かにだって、同じものがあるのです。
あなたの今の中に、誰かのすべてがあるのです。
家族の、友の、自然の、宇宙の、すべてが、時間の全てがある。
だから、この世に尊くないもの、価値のないものなんて一つもないと、私は知っています。
《彼が愛したこの子にも、全ての時が流れてる》
あい それは愛ということばじゃない
愛 それは気持ちだけでもない
あい はるかな過去をわすれないこと
愛 見えない未来を信じること
あい くりかえしくりかえし考えること
愛 いのちをかけて生きること
真実、愛を生きると言うこと。
そは名を《夢の街》と言ふ…