七月になり、もう10日が経ちました。
時の立つのは早くて本当に体と心がついていかない感じがしています。
こちらは久々の晴れ。南国の夏はやっぱり暑いです。
今年は雨が長くてムシッとします。
はやく毎日カラりとした青空が見えるといいな。
《実家の庭から目の前に広がる竹林と蒼空》
我が家のメガ*デカちびチワワさんたちは無事に3か月を迎えました。
今月末にはお散歩デビューです。
お散歩デビューもまだの皆さんですが、なんせもう2キロです(^_^;)
もう立派な、大人サイズ…まっ、まあねっ、大は小を兼ねるから…(笑)
中でも断トツでしっかり大きくなっている「ふう君」は
普通4か月過ぎにやってくる、チワワの生え変わり期をすでに迎えた模様。
あちこち毛が薄くなっております(^_^;)
身体が大きくなるのに、毛がおっついてない感じです。
どこまで大きくなるのか、楽しみであります。
《最近のメガちわわンズ》
《ベッド、びっちりやん(^_^;)それでも3匹で入りたいのよね~》
《ちびたちは喧嘩もするけど、兄妹とても仲良しです》
《「みーやん」のお耳掃除をしてあげる「ろまやん」》
《いや~、遺伝ってすごいよねぇ》
《*「まろとーたん」と「ろまやん」*》
3か月だけど、もう大人の皆さんとそう大きさは変わりません。
でも、心はまだまだベイビーちゃんです(^^)
私はそのギャップが可愛くてなりません。
今、ちょうど2キロ位なんで、赤ちゃん抱っこするのにピッタリです(^^)
まあ、自分が面倒見て、産婆した子たちですから、
自分のお腹で育てて産んだような気分なんですわね(笑)
《妊娠してから落着きモードだったお母さんのぴぴちゃんも》
《子どもが大きくなるにつれてお子ちゃまがえり》
《ついでにおとーさんのまろ君も一緒におこちゃま返り(笑)》
《でもまだ二人とも2歳と一歳なので仕方ないかな》
《そんなちびたちの姉さん、ぴーちゃん》
《人間にしたら、もう70歳くらいには見えませんでしょ?》
《ほーんとぴーちゃんは可愛いなぁ^^》
この子たちが傍に居てくれるおかげで、
私はこうして生きている力が与えられるのだなぁ、
と、しみじみすることが最近多くなりました。
有難いことだね。
そうそう、寂しいことが一つ。
街の6畳一間アパートの本当に真ん前が12階建てのマンションになるそうです。
9月から工事が始まるらしく。なんだか、この南の果てもどんどん街になるんだなぁ。
街のアパートは結構な街中には位置しているけど、それでも路地に入ると、
あちこちに昔ながらの古民家が在って、ブーゲンビリアの花が咲いていたり、
びわやみかんなどの実のなる樹が茂っていたりするのです。
街も人も時と共に少しずつ変わっていくものなのかも知れないけれど、
きっと、いろんなメリットもデメリットもあるのだろうけど、
そういう風情のある街の風景や自然が消えていくのは
やっぱりなんだか寂しいものだなぁ、と思ってしまうのでした。
ちょっと思う事がありました。
それは心の中をあえて探ってみる機会を与えてくれました。
なんだろうね、自分の中の「光と影」を探すような感じかな。
先日、メル友さんとそれぞれの「友達」の定義みたいなものについて語り合いました。
私は本当の友達はそんなにはいませんが、そういう人とは深く友人になります。
今、そこまでいかない人たちは、そこに行く道のりを歩んでいる人たちともいえます。
そういう人たちですから、ただのお知り合いとは違うわけで、
こちらが勝手になのですが、相手に対していろんな思いを持ったりします。
本当の友達と言う人には「揺るがない信頼」が在りますが、
大体そういう人とは、ある程度の信頼を積み重ねている段階です。
特に紆余曲折あった方とは、難しい坂を登っているようなものだから
ここまでの道のりにいろんな思いが残っていたりしますが、
今の場所によっては、それを忘れられたりもします。
でも、人間って、簡単に忘れるように見えて、嫌だったことや
悲しい思いをした事って忘れないもんなんですよね(^_^;)
絶対的な信頼まで培っていないと、何かの拍子に、
その人との間に起った悲しい思いが湧き上がってきて、
信頼どころか、疑うという経験をすることになります。
あ!でもこれは、あくまでも私の場合なのですけどねー。
先日なんですが、そういう気持ちになってしまう日がありました。
ある想いの行き違いから、誤解が発生したわけなんですが、
なんだかね~、その方の今までの元行動がうわぁ~っと浮かんできて、
本当にリアルにその人との間の出来事を再体験したような感じになりました。
持病的なPTSDのせいもあると思いますが、一気に悲しくなってしまい、
しばらく立ち上がれないくらいの衝撃でした。
その方はとても善い方なんですが、今まで結構行き違いや
ボタンのかけ違いみたいな事が多く在ったりもして、
間に他の人が入ることで、その人以外から私に対する話を聞いてしまったり、
文章を読んでしまったりと言うような経験が多くあったのです。
けれど、究極、その方の根っこがとても善い方なので、
それらの悲しい事実をその方への思いから、
自分なりに消化して信頼に変えてきたのですが……。
今回は、なんと言うか、自分の弱さの部分なんだろうなぁ、
その方の言葉を聞いたとき、その言いようから、
どうなの?と言うより、はっきりと言い切られた感じを受けてしまい、
とってもショックを受けてしまったのですよ。
「言い切られた」=「常からそう思われている」的な方程式が浮かびました。
次に以前、陰でああだこうだと言われていたという事を聞いたことを想いだし、
「以前もそうだったな」「結局、ずっとそういう思いが根っこにあるのかな」
そうなると、「今までの相手の善意は、相手の努力に寄る偽りなのか?」
と言うような、マイナー―――な気持ちに落ち込んでしまいました。
もう登ってきた坂を猛スピードで転がり落ちるくらいの速さで。
ジェットコースターか?中くらいの速さでしたね(^_^;)
さて、シェイクスピアは
「どん底に落ちたら、上を見上げるだけだ」
と、言ったそうです。
私も転がり落ちて行ったら、どん底に着きまして、
しばらくいるうちに、なんだかそんな感じになったんです。
って言うか、真っ暗闇も慣れれば何かが見えて来るって言う感じかな?
いや、違うな~、やっぱりアドベントガーデン的な感じかな?
なんじゃ、そりゃ?と思いますよねぇ(;一_一)
えと、アドベントガーデン、ってのはですね、
シュタイナー教育の中で行われる冬の行事の一つなんですが、
真っ暗な部屋の中のモミの枝で作られた螺旋(渦巻き)の道を
明かりのついていない、リンゴろうそくを持って歩き、
真ん中に置いてある火種から火をつけて、来た道を戻り、
リンゴろうそくは道に置いて帰ってくるんです。
《アドベントガーデンの樅の枝でできた螺旋の道とリンゴろうそく》
シュタイナー教育では、教師や大人の取る行動のすべてに
子どもたちや己が魂と向き合うための深い意味がありますが、
それを理屈で語る事や教えることは一切しないのです。
その代り、すべての授業や行いの始まりに、先生や大人がお話をします。
例えば、アドベントであれば、先にこんな話を聞くのです。
****************************
自分の行くべき場所を探し求めている旅人がいました。
いろいろな素晴らしい場所に、たどり着きましたが、
その度に「ここではない」と感じ、旅を続けていました。
ある日、迷宮のような暗い森に入り、
進退窮まったときに天使が現れ旅人を導いてくれます。
「あなたの行くべき場所にわたしがつれていってあげましょう。」と。
進んだ先に光がありました。
旅人が自分の来るべき場所はここだったのだ、
と感じたとき流れ星が落ちてきます。
旅人の手には、いつのまにか、ろうそくがありました。
「この光と暖かさを他の人にも伝えよう。」
と旅人は思い、ろうそくに火を灯すと歩き始めました。
そして、次に来る人のために森の入り口にろうそくを置くと
再び、旅人は歩み始めました。
*****************************
シュタイナーの思想(神秘学・人智学)では
冬は闇に向かう時期、春に向けて力を蓄える時期と考えます。
肉体と魂と霊の3つの要素が重なって初めて人となると考えるこの学問では、
自然や宇宙、霊の世界、神秘と人は密接につながっています。
ですから、冬は季節が寒く、冷たく、暗くなっていくように、
人の心も寒さや闇に向かう、つまり自分の内側に向かう時期と考えます。
ですが、宇宙が自ずから動き、春が訪れるように、
人はその春の暖かさ、生命そのものや、
自分の中にある善なるものの存在を自ら見つけだし、
自分の宇宙を動かして明かり灯していく時期、
と言ったイメージでしょうか。
わたしは根っこがオメデタくできているのか、なんなのか、
究極、落ち込むとこまで落ち込むと、這ってでも立ち上がる作業に入ろうとします。
そこまで行くと、自分を見つめるしかなくなっちゃうからかなぁ。
つか、自分に負けたくないし、それで人に迷惑もかけたくないからかな~。
とにかく、そのおかげで、何とかかんとか、自分を見つめなおしては、
体勢を立て直し立て直しして、やってこれた気がしています。
周りにはそういう作業をする人には思えてないようです(^_^;)
物をはっきり言うんで、あんまり落ち込まないとか、悩むことないとか
いろんな努力をしない人に思われているらしい…
いくらなんでも、そんなことあるか~~~い!(笑)
それも善いところと思っていいのかなとも思ってますが、
取りあえず、人並みに落ち込んだりしますのよん(・。・;
毎回、自己の精神の森で一人アドベントガーデンをやって立ち直ります(笑)
今回もそうでした。
そうやって、自分の螺旋の道を歩んで自分を見つめると、
おのずと相手も見えてくるのです。
相手の気持ちとか、いろんな事が。
結局、自分を見つめる事でしか、相手は見えてこないし、
相手を見なければ、自分も見えてきません。
まあ、当たり前と言えば当たり前です。
善も悪も可否もすべては自分のココロが決めるのですから。
そこから学ぶことは本当に多いです。相手がちゃんと教えてくれるんですよね。
そこまで行くと、相手の方の事はまた違う意識で観られるようになります。
そして、自分が何をどう信じているかとか、大切にしているかとか
そういう大事な事を思い出す事や再確認が出来ます。
結局、私にとっては目の前にいる人というのは
自分の反映した姿と言ってもいいのだと思います。
とはいえ、人間ですから傷が生っぽいうち(^_^;)は静かにしてます。
それから、また信頼を培って行こうと思います。
この経験を通して、改めて「信じる」って事や「受け入れる」って事を考えました。
それを考えている時、浮かんできた二つの作品があります。
一つは「ブック・オブ・モルモン」というミュージカル。
《ブロードウェイ・ミュージカル「ブック・オブ・モルモン」のラストシーンから》
今年トニー賞のオープニングを飾ったパフォーマンスは
昨年トニー賞を取ったミュージカル「ブック・オブ・モルモン」のナンバーでした。
このブック・オブ・モルモンと言うミュージカルは
今アメリカで一番チケットが取れない作品だそうです。
街で良く見かける2人組の外人さんを見たことがありますか?
彼らはモルモン教の宣教師さんたちです。
彼らの伝道の奮闘を描いたのがこのミュージカルです。
モルモン教はアメリカ発祥のキリスト系新興宗教です。
一般のキリスト教と違い、独自の経典を持ち、
その歴史や教義や決まりなど独特の形があります。
実は、先日この作品を、全部見る機会を得ました。
物語は、志高い若きモルモン教宣教師の2人が
派遣されたウガンダの貧村を舞台に、食料不足やエイズ、
反政府武装勢力による銃撃戦が横行するなかで、
布教活動をとおして成長する姿をシニカルにも温かく描いたもの。
まあ、傍目に見れば、カルト批判と言うか、彼らの在り方を
バカにして面白おかしく仕上げたミュージカルにも思えますが、
とてもとても大事なものが隠されているミュージカルでした。
それはなんなの?と言われても、うまく言えないのですが、
一体何が正しいのか?正しさとは何か?
自分が信じるものとはなにか?
信じているということはどういう事か?
そう言った事を笑いの中から魂の深いところで感じさせてくれるのです。
この作品を作ったのは気風刺アニメ「サウスパーク」の
トレイ・パーカーとマット・ストーンのコンビです。
彼らはこのアニメの中でもモルモン教を取り上げていて、
その作品に出てきたモルモン教の少年のセリフに
ミュージカルも凝縮されているような気がします。
サウスパークのモルモンの回で少年はこういいます。
「もしかすると僕らモルモン教徒は全くデタラメな
頭のおかしい物語を信じているのかもしれない。
そしてそれは全部ジョセフ・スミスのでっち上げなのかもしれない。
でも僕は素晴らしい人生を送っているし、素晴らしい家族がいる。
だからモルモン教典に感謝してる。
はっきり言って、僕はジョセフ・スミスの
でっち上げかどうかなんてどうでもいいんだ。
だって教会がいま教えていることは家族を愛し、
善良であり、人を助けよということなんだから。
たとえこの街の人が馬鹿げてるって思ったとしても、
僕はそれでも信仰を選ぶよ。
僕は君と友達になりたくていろいろやったのに、
スタン、でも君はすごく傲慢で、宗教をともかくとして
ただの友達になろうとはしなかった。
てんで子供だね。キ○○マ舐めやがれ!」
(*^。^*)わかる、わかるなぁ。
大事なのは「宗教の形」ではないんだよね。
むかぁし、一つ屋根の下ってドラマで、あんちゃんが言ってたさ、
「そこに愛はあんのかい?」って(笑)
そして、信じるって事に、こうありたいもんだよ。
私も自分の信じてる全てのものに対して、
この少年の様であり続けたいと思っています。
何より、自分をしっかり信じていないと、どんな道も歩めないもの。
そして、私の信じる道はどんな困難な問題であれ、苦しみであれ、
だれが笑おうが、否定しようが、愛であるべきだと思っています。
時の立つのは早くて本当に体と心がついていかない感じがしています。
こちらは久々の晴れ。南国の夏はやっぱり暑いです。
今年は雨が長くてムシッとします。
はやく毎日カラりとした青空が見えるといいな。
《実家の庭から目の前に広がる竹林と蒼空》
我が家のメガ*デカちびチワワさんたちは無事に3か月を迎えました。
今月末にはお散歩デビューです。
お散歩デビューもまだの皆さんですが、なんせもう2キロです(^_^;)
もう立派な、大人サイズ…まっ、まあねっ、大は小を兼ねるから…(笑)
中でも断トツでしっかり大きくなっている「ふう君」は
普通4か月過ぎにやってくる、チワワの生え変わり期をすでに迎えた模様。
あちこち毛が薄くなっております(^_^;)
身体が大きくなるのに、毛がおっついてない感じです。
どこまで大きくなるのか、楽しみであります。
《最近のメガちわわンズ》
《ベッド、びっちりやん(^_^;)それでも3匹で入りたいのよね~》
《ちびたちは喧嘩もするけど、兄妹とても仲良しです》
《「みーやん」のお耳掃除をしてあげる「ろまやん」》
《いや~、遺伝ってすごいよねぇ》
《*「まろとーたん」と「ろまやん」*》
3か月だけど、もう大人の皆さんとそう大きさは変わりません。
でも、心はまだまだベイビーちゃんです(^^)
私はそのギャップが可愛くてなりません。
今、ちょうど2キロ位なんで、赤ちゃん抱っこするのにピッタリです(^^)
まあ、自分が面倒見て、産婆した子たちですから、
自分のお腹で育てて産んだような気分なんですわね(笑)
《妊娠してから落着きモードだったお母さんのぴぴちゃんも》
《子どもが大きくなるにつれてお子ちゃまがえり》
《ついでにおとーさんのまろ君も一緒におこちゃま返り(笑)》
《でもまだ二人とも2歳と一歳なので仕方ないかな》
《そんなちびたちの姉さん、ぴーちゃん》
《人間にしたら、もう70歳くらいには見えませんでしょ?》
《ほーんとぴーちゃんは可愛いなぁ^^》
この子たちが傍に居てくれるおかげで、
私はこうして生きている力が与えられるのだなぁ、
と、しみじみすることが最近多くなりました。
有難いことだね。
そうそう、寂しいことが一つ。
街の6畳一間アパートの本当に真ん前が12階建てのマンションになるそうです。
9月から工事が始まるらしく。なんだか、この南の果てもどんどん街になるんだなぁ。
街のアパートは結構な街中には位置しているけど、それでも路地に入ると、
あちこちに昔ながらの古民家が在って、ブーゲンビリアの花が咲いていたり、
びわやみかんなどの実のなる樹が茂っていたりするのです。
街も人も時と共に少しずつ変わっていくものなのかも知れないけれど、
きっと、いろんなメリットもデメリットもあるのだろうけど、
そういう風情のある街の風景や自然が消えていくのは
やっぱりなんだか寂しいものだなぁ、と思ってしまうのでした。
ちょっと思う事がありました。
それは心の中をあえて探ってみる機会を与えてくれました。
なんだろうね、自分の中の「光と影」を探すような感じかな。
先日、メル友さんとそれぞれの「友達」の定義みたいなものについて語り合いました。
私は本当の友達はそんなにはいませんが、そういう人とは深く友人になります。
今、そこまでいかない人たちは、そこに行く道のりを歩んでいる人たちともいえます。
そういう人たちですから、ただのお知り合いとは違うわけで、
こちらが勝手になのですが、相手に対していろんな思いを持ったりします。
本当の友達と言う人には「揺るがない信頼」が在りますが、
大体そういう人とは、ある程度の信頼を積み重ねている段階です。
特に紆余曲折あった方とは、難しい坂を登っているようなものだから
ここまでの道のりにいろんな思いが残っていたりしますが、
今の場所によっては、それを忘れられたりもします。
でも、人間って、簡単に忘れるように見えて、嫌だったことや
悲しい思いをした事って忘れないもんなんですよね(^_^;)
絶対的な信頼まで培っていないと、何かの拍子に、
その人との間に起った悲しい思いが湧き上がってきて、
信頼どころか、疑うという経験をすることになります。
あ!でもこれは、あくまでも私の場合なのですけどねー。
先日なんですが、そういう気持ちになってしまう日がありました。
ある想いの行き違いから、誤解が発生したわけなんですが、
なんだかね~、その方の今までの元行動がうわぁ~っと浮かんできて、
本当にリアルにその人との間の出来事を再体験したような感じになりました。
持病的なPTSDのせいもあると思いますが、一気に悲しくなってしまい、
しばらく立ち上がれないくらいの衝撃でした。
その方はとても善い方なんですが、今まで結構行き違いや
ボタンのかけ違いみたいな事が多く在ったりもして、
間に他の人が入ることで、その人以外から私に対する話を聞いてしまったり、
文章を読んでしまったりと言うような経験が多くあったのです。
けれど、究極、その方の根っこがとても善い方なので、
それらの悲しい事実をその方への思いから、
自分なりに消化して信頼に変えてきたのですが……。
今回は、なんと言うか、自分の弱さの部分なんだろうなぁ、
その方の言葉を聞いたとき、その言いようから、
どうなの?と言うより、はっきりと言い切られた感じを受けてしまい、
とってもショックを受けてしまったのですよ。
「言い切られた」=「常からそう思われている」的な方程式が浮かびました。
次に以前、陰でああだこうだと言われていたという事を聞いたことを想いだし、
「以前もそうだったな」「結局、ずっとそういう思いが根っこにあるのかな」
そうなると、「今までの相手の善意は、相手の努力に寄る偽りなのか?」
と言うような、マイナー―――な気持ちに落ち込んでしまいました。
もう登ってきた坂を猛スピードで転がり落ちるくらいの速さで。
ジェットコースターか?中くらいの速さでしたね(^_^;)
さて、シェイクスピアは
「どん底に落ちたら、上を見上げるだけだ」
と、言ったそうです。
私も転がり落ちて行ったら、どん底に着きまして、
しばらくいるうちに、なんだかそんな感じになったんです。
って言うか、真っ暗闇も慣れれば何かが見えて来るって言う感じかな?
いや、違うな~、やっぱりアドベントガーデン的な感じかな?
なんじゃ、そりゃ?と思いますよねぇ(;一_一)
えと、アドベントガーデン、ってのはですね、
シュタイナー教育の中で行われる冬の行事の一つなんですが、
真っ暗な部屋の中のモミの枝で作られた螺旋(渦巻き)の道を
明かりのついていない、リンゴろうそくを持って歩き、
真ん中に置いてある火種から火をつけて、来た道を戻り、
リンゴろうそくは道に置いて帰ってくるんです。
《アドベントガーデンの樅の枝でできた螺旋の道とリンゴろうそく》
シュタイナー教育では、教師や大人の取る行動のすべてに
子どもたちや己が魂と向き合うための深い意味がありますが、
それを理屈で語る事や教えることは一切しないのです。
その代り、すべての授業や行いの始まりに、先生や大人がお話をします。
例えば、アドベントであれば、先にこんな話を聞くのです。
****************************
自分の行くべき場所を探し求めている旅人がいました。
いろいろな素晴らしい場所に、たどり着きましたが、
その度に「ここではない」と感じ、旅を続けていました。
ある日、迷宮のような暗い森に入り、
進退窮まったときに天使が現れ旅人を導いてくれます。
「あなたの行くべき場所にわたしがつれていってあげましょう。」と。
進んだ先に光がありました。
旅人が自分の来るべき場所はここだったのだ、
と感じたとき流れ星が落ちてきます。
旅人の手には、いつのまにか、ろうそくがありました。
「この光と暖かさを他の人にも伝えよう。」
と旅人は思い、ろうそくに火を灯すと歩き始めました。
そして、次に来る人のために森の入り口にろうそくを置くと
再び、旅人は歩み始めました。
*****************************
シュタイナーの思想(神秘学・人智学)では
冬は闇に向かう時期、春に向けて力を蓄える時期と考えます。
肉体と魂と霊の3つの要素が重なって初めて人となると考えるこの学問では、
自然や宇宙、霊の世界、神秘と人は密接につながっています。
ですから、冬は季節が寒く、冷たく、暗くなっていくように、
人の心も寒さや闇に向かう、つまり自分の内側に向かう時期と考えます。
ですが、宇宙が自ずから動き、春が訪れるように、
人はその春の暖かさ、生命そのものや、
自分の中にある善なるものの存在を自ら見つけだし、
自分の宇宙を動かして明かり灯していく時期、
と言ったイメージでしょうか。
わたしは根っこがオメデタくできているのか、なんなのか、
究極、落ち込むとこまで落ち込むと、這ってでも立ち上がる作業に入ろうとします。
そこまで行くと、自分を見つめるしかなくなっちゃうからかなぁ。
つか、自分に負けたくないし、それで人に迷惑もかけたくないからかな~。
とにかく、そのおかげで、何とかかんとか、自分を見つめなおしては、
体勢を立て直し立て直しして、やってこれた気がしています。
周りにはそういう作業をする人には思えてないようです(^_^;)
物をはっきり言うんで、あんまり落ち込まないとか、悩むことないとか
いろんな努力をしない人に思われているらしい…
いくらなんでも、そんなことあるか~~~い!(笑)
それも善いところと思っていいのかなとも思ってますが、
取りあえず、人並みに落ち込んだりしますのよん(・。・;
毎回、自己の精神の森で一人アドベントガーデンをやって立ち直ります(笑)
今回もそうでした。
そうやって、自分の螺旋の道を歩んで自分を見つめると、
おのずと相手も見えてくるのです。
相手の気持ちとか、いろんな事が。
結局、自分を見つめる事でしか、相手は見えてこないし、
相手を見なければ、自分も見えてきません。
まあ、当たり前と言えば当たり前です。
善も悪も可否もすべては自分のココロが決めるのですから。
そこから学ぶことは本当に多いです。相手がちゃんと教えてくれるんですよね。
そこまで行くと、相手の方の事はまた違う意識で観られるようになります。
そして、自分が何をどう信じているかとか、大切にしているかとか
そういう大事な事を思い出す事や再確認が出来ます。
結局、私にとっては目の前にいる人というのは
自分の反映した姿と言ってもいいのだと思います。
とはいえ、人間ですから傷が生っぽいうち(^_^;)は静かにしてます。
それから、また信頼を培って行こうと思います。
この経験を通して、改めて「信じる」って事や「受け入れる」って事を考えました。
それを考えている時、浮かんできた二つの作品があります。
一つは「ブック・オブ・モルモン」というミュージカル。
《ブロードウェイ・ミュージカル「ブック・オブ・モルモン」のラストシーンから》
今年トニー賞のオープニングを飾ったパフォーマンスは
昨年トニー賞を取ったミュージカル「ブック・オブ・モルモン」のナンバーでした。
このブック・オブ・モルモンと言うミュージカルは
今アメリカで一番チケットが取れない作品だそうです。
街で良く見かける2人組の外人さんを見たことがありますか?
彼らはモルモン教の宣教師さんたちです。
彼らの伝道の奮闘を描いたのがこのミュージカルです。
モルモン教はアメリカ発祥のキリスト系新興宗教です。
一般のキリスト教と違い、独自の経典を持ち、
その歴史や教義や決まりなど独特の形があります。
実は、先日この作品を、全部見る機会を得ました。
物語は、志高い若きモルモン教宣教師の2人が
派遣されたウガンダの貧村を舞台に、食料不足やエイズ、
反政府武装勢力による銃撃戦が横行するなかで、
布教活動をとおして成長する姿をシニカルにも温かく描いたもの。
まあ、傍目に見れば、カルト批判と言うか、彼らの在り方を
バカにして面白おかしく仕上げたミュージカルにも思えますが、
とてもとても大事なものが隠されているミュージカルでした。
それはなんなの?と言われても、うまく言えないのですが、
一体何が正しいのか?正しさとは何か?
自分が信じるものとはなにか?
信じているということはどういう事か?
そう言った事を笑いの中から魂の深いところで感じさせてくれるのです。
この作品を作ったのは気風刺アニメ「サウスパーク」の
トレイ・パーカーとマット・ストーンのコンビです。
彼らはこのアニメの中でもモルモン教を取り上げていて、
その作品に出てきたモルモン教の少年のセリフに
ミュージカルも凝縮されているような気がします。
サウスパークのモルモンの回で少年はこういいます。
「もしかすると僕らモルモン教徒は全くデタラメな
頭のおかしい物語を信じているのかもしれない。
そしてそれは全部ジョセフ・スミスのでっち上げなのかもしれない。
でも僕は素晴らしい人生を送っているし、素晴らしい家族がいる。
だからモルモン教典に感謝してる。
はっきり言って、僕はジョセフ・スミスの
でっち上げかどうかなんてどうでもいいんだ。
だって教会がいま教えていることは家族を愛し、
善良であり、人を助けよということなんだから。
たとえこの街の人が馬鹿げてるって思ったとしても、
僕はそれでも信仰を選ぶよ。
僕は君と友達になりたくていろいろやったのに、
スタン、でも君はすごく傲慢で、宗教をともかくとして
ただの友達になろうとはしなかった。
てんで子供だね。キ○○マ舐めやがれ!」
(*^。^*)わかる、わかるなぁ。
大事なのは「宗教の形」ではないんだよね。
むかぁし、一つ屋根の下ってドラマで、あんちゃんが言ってたさ、
「そこに愛はあんのかい?」って(笑)
そして、信じるって事に、こうありたいもんだよ。
私も自分の信じてる全てのものに対して、
この少年の様であり続けたいと思っています。
何より、自分をしっかり信じていないと、どんな道も歩めないもの。
そして、私の信じる道はどんな困難な問題であれ、苦しみであれ、
だれが笑おうが、否定しようが、愛であるべきだと思っています。