アジア太平洋戦争を戦った大日本帝国の、巨額の戦費をまかなった魔法の仕組みを解き明かす、
「臨時軍事費特別会計」 鈴木晟 (講談社、2013)。
シナ事変以来の軍事費は、一般会計に計上される予算の他に、臨時軍事費特別会計というもの
があったそうです。
臨時軍事費特別会計とは、対象とする事変・戦争の戦費を開始から終了まで1会計年度として
処理するもので、日清、日露、第1次大戦、シベリア出兵の際に先例があり、1937年 (昭和12)
9月10日に第1次近衛内閣で成立しました。
「予算案を議会に提出し、あれこれ論難され、時として否決されるというようなことから免れる
わけで、 (中略) 政府・軍部にとっては便利この上ない制度であった。」(92p)
一般会計全体と臨時軍事費特別会計は昭和12年から16年まではほぼ同額でしたが、昭和17年
以降臨時軍事費特別会計が一般会計全体の数倍に上るほどに膨張 (95p) 。昭和18年には
臨時軍事費に関する限り無制限に国債を発行できるよう法律を改正しました。その国債は大半
が日銀直接引き受けで賄われたのでした (昭和12~20年の国債の7割)(97p)。国民には貯蓄や
国債購入が奨励または割り当てられたのです。そういう仕組みのおかげでお金の心配をせずに
戦争が遂行できたわけです。(国債の日銀による直接引き受けは、昭和恐慌からの脱出のために
昭和7年=1932年11月に蔵相高橋是清が初めて実施したものでした。)
また、アメリカは実は1940年の南部仏印進駐に対して日本に徹底的な経済制裁をするまで、
日本にとって最大の貿易相手国として留まっていました。「シナ事変の勃発と拡大過程で日本
の経済封鎖について米英両国の共同行動は見られなかったし、アメリカ単独の行動もとられず、
日本のパートナーであり続けたのである。」 (161p)
その理由として著者は、アメリカ伝統の孤立主義と大恐慌克服優先の2つを上げています。また
「石油禁輸が日本を蘭印に駆り立て、日米戦争が惹起する」 という不安が米国務省にあった
としています。
総力戦を戦う経済力については、1940年春から陸軍の秋丸主計中佐のもとに秋丸機関と呼ば
れる4班体制の調査チームを編制し、日本・ドイツ・英米・ソ連の生産力調査を行いました。
その結果、「日本の経済力はもうこれ以上増加する可能性はないということだった。軍の動員
と労働力とのあいだの矛盾がはっきりと出てきていた。ドイツ班の中間報告もドイツの戦力は
今が峠であるということだった。英米班の暫定報告は、日本が約50%の国民消費の切り下げに
対し、アメリカは15~20%の切り下げで、その当時の連合国に対する物資補給を除いて、約350
億ドルの実質戦費を賄うことができ、それは日本の7.5倍に当たること、それでアメリカの戦争
経済の構造はさしたる欠陥は見られない」 ということになったそうです。
この中間報告を1941年9月に陸軍で発表しましたが、杉山参謀総長が 「本報告の調査はおお
むね完璧で間然するところ (非難すべき欠点) がない。しかしその結論は国策に反する」 として
報告書を全部焼却させたそうです。(189-190p) 敵を知ろうとしないようでは戦って勝てる
はずがありません。見境なくバクチで戦争に突入したというほかありません。
(その大差を無理やり忠君報国の精神力、大和魂で埋めようとするから、悲惨な特攻や玉砕が
生まれたのです。)
ともかく、お金がなければ戦争は出来ないので、戦争を経済の面から見て、そのお金をひねり
出す仕組みには、たいへん考えさせられました。
しかし著者の歴史観にいくつか不満もあります。
著者は1941年7月28日の南部仏印進駐に対するアメリカの8月1日の石油全面禁輸について、
近衛首相をはじめ我が国の当事者たちが予想外だと感じた (173-174p) とし、米グル―駐日
大使の日記でもそう観測していると紹介しています。しかし現実には南部仏印進駐の20日前、
7月2日の御前会議で 「南方進出を強化し、対英米戦を辞せず」 とする 「情勢の推移に伴ふ
帝国国策要綱」 を決定しています。これはアメリカとの戦争の可能性がいことを明白に
意識していたことを示しており、単に言葉の上だけというには重すぎる表現です。グル―
大使の日記は7月26日付で、おそらくまだこのことを知りません。
逆にアメリカ側では、圧倒的に経済力に劣る日本が本気で対米戦争を起こすとは思わなかっ
た、という話もあります。
また、日本が世界的な孤立に進む原因となった満州事変について、日本は満州の治安を
回復し産業振興や教育・医療の普及など良いことをしたとし (35p)、 そもそも満州は 「いつ
から中華民国の領土になったのか、それは正当な手続きを経たものなのか」 (31p) と
疑問を提出します。しかし蒋介石が1928年北伐完了を宣布し、アメリカが先頭を切って
11月3日に中華民国を承認した7か月後、1929年6月に日本も中華民国を承認しています。
著者はこれを忘れているのでしょうか。これが正式手続きでなくて何でしょう。満州事変
はその1年3か月後に起こされたのです。
著者も書いているように満州は清王朝発祥の地で、日本の領土であったことはかつて
一度もありません。中国に関し門戸開放・機会均等・主権尊重の原則をうたった9ヵ国
条約は日本も加わって1922年2月に締結されています。事変を起こした関東軍も、満州を
日本領土に併合してしまうのは無理がある、というので満州人民の自主独立を名分に
傀儡政権を立てたのは明らかです。「いつから中華民国の領土になったのか」 などという
愚問は、日本の侵略を合法化したい論者の欲目に過ぎません。
植民地化して 「良い統治をした」 というのはこちらから言うことでなく、相手が言って
初めて意味があります。事変を主導した石原莞爾が満州国に戻って、日本人の横暴な
やり方に激怒したという事だけでも、その実態がどういうものか分かるでしょう。
(また蛇足ながら、1933年5月の塘沽休戦協定で満州事変は一段落したとし、シナ事変
以降と切り離す考え方がありますが、塘沽はあくまで現地軍責任者同士の休戦協定に
過ぎず講和条約とは違います。その後日本による河北分離工作や内蒙古工作などが
継続され、シナ事変につながっていくのですから、切り離すのは無理があるでしょう。
私は満州事変以降の足かけ15年戦争、アジア太平洋戦争、と考えます。)
戦費調達の仕組みや当時の経済を知るには貴重な本ですが、著者の基本的な歴史観に
疑問を持って読む必要があります。
(わが家で 2014年6月13日)
「臨時軍事費特別会計」 鈴木晟 (講談社、2013)。
シナ事変以来の軍事費は、一般会計に計上される予算の他に、臨時軍事費特別会計というもの
があったそうです。
臨時軍事費特別会計とは、対象とする事変・戦争の戦費を開始から終了まで1会計年度として
処理するもので、日清、日露、第1次大戦、シベリア出兵の際に先例があり、1937年 (昭和12)
9月10日に第1次近衛内閣で成立しました。
「予算案を議会に提出し、あれこれ論難され、時として否決されるというようなことから免れる
わけで、 (中略) 政府・軍部にとっては便利この上ない制度であった。」(92p)
一般会計全体と臨時軍事費特別会計は昭和12年から16年まではほぼ同額でしたが、昭和17年
以降臨時軍事費特別会計が一般会計全体の数倍に上るほどに膨張 (95p) 。昭和18年には
臨時軍事費に関する限り無制限に国債を発行できるよう法律を改正しました。その国債は大半
が日銀直接引き受けで賄われたのでした (昭和12~20年の国債の7割)(97p)。国民には貯蓄や
国債購入が奨励または割り当てられたのです。そういう仕組みのおかげでお金の心配をせずに
戦争が遂行できたわけです。(国債の日銀による直接引き受けは、昭和恐慌からの脱出のために
昭和7年=1932年11月に蔵相高橋是清が初めて実施したものでした。)
また、アメリカは実は1940年の南部仏印進駐に対して日本に徹底的な経済制裁をするまで、
日本にとって最大の貿易相手国として留まっていました。「シナ事変の勃発と拡大過程で日本
の経済封鎖について米英両国の共同行動は見られなかったし、アメリカ単独の行動もとられず、
日本のパートナーであり続けたのである。」 (161p)
その理由として著者は、アメリカ伝統の孤立主義と大恐慌克服優先の2つを上げています。また
「石油禁輸が日本を蘭印に駆り立て、日米戦争が惹起する」 という不安が米国務省にあった
としています。
総力戦を戦う経済力については、1940年春から陸軍の秋丸主計中佐のもとに秋丸機関と呼ば
れる4班体制の調査チームを編制し、日本・ドイツ・英米・ソ連の生産力調査を行いました。
その結果、「日本の経済力はもうこれ以上増加する可能性はないということだった。軍の動員
と労働力とのあいだの矛盾がはっきりと出てきていた。ドイツ班の中間報告もドイツの戦力は
今が峠であるということだった。英米班の暫定報告は、日本が約50%の国民消費の切り下げに
対し、アメリカは15~20%の切り下げで、その当時の連合国に対する物資補給を除いて、約350
億ドルの実質戦費を賄うことができ、それは日本の7.5倍に当たること、それでアメリカの戦争
経済の構造はさしたる欠陥は見られない」 ということになったそうです。
この中間報告を1941年9月に陸軍で発表しましたが、杉山参謀総長が 「本報告の調査はおお
むね完璧で間然するところ (非難すべき欠点) がない。しかしその結論は国策に反する」 として
報告書を全部焼却させたそうです。(189-190p) 敵を知ろうとしないようでは戦って勝てる
はずがありません。見境なくバクチで戦争に突入したというほかありません。
(その大差を無理やり忠君報国の精神力、大和魂で埋めようとするから、悲惨な特攻や玉砕が
生まれたのです。)
ともかく、お金がなければ戦争は出来ないので、戦争を経済の面から見て、そのお金をひねり
出す仕組みには、たいへん考えさせられました。
しかし著者の歴史観にいくつか不満もあります。
著者は1941年7月28日の南部仏印進駐に対するアメリカの8月1日の石油全面禁輸について、
近衛首相をはじめ我が国の当事者たちが予想外だと感じた (173-174p) とし、米グル―駐日
大使の日記でもそう観測していると紹介しています。しかし現実には南部仏印進駐の20日前、
7月2日の御前会議で 「南方進出を強化し、対英米戦を辞せず」 とする 「情勢の推移に伴ふ
帝国国策要綱」 を決定しています。これはアメリカとの戦争の可能性がいことを明白に
意識していたことを示しており、単に言葉の上だけというには重すぎる表現です。グル―
大使の日記は7月26日付で、おそらくまだこのことを知りません。
逆にアメリカ側では、圧倒的に経済力に劣る日本が本気で対米戦争を起こすとは思わなかっ
た、という話もあります。
また、日本が世界的な孤立に進む原因となった満州事変について、日本は満州の治安を
回復し産業振興や教育・医療の普及など良いことをしたとし (35p)、 そもそも満州は 「いつ
から中華民国の領土になったのか、それは正当な手続きを経たものなのか」 (31p) と
疑問を提出します。しかし蒋介石が1928年北伐完了を宣布し、アメリカが先頭を切って
11月3日に中華民国を承認した7か月後、1929年6月に日本も中華民国を承認しています。
著者はこれを忘れているのでしょうか。これが正式手続きでなくて何でしょう。満州事変
はその1年3か月後に起こされたのです。
著者も書いているように満州は清王朝発祥の地で、日本の領土であったことはかつて
一度もありません。中国に関し門戸開放・機会均等・主権尊重の原則をうたった9ヵ国
条約は日本も加わって1922年2月に締結されています。事変を起こした関東軍も、満州を
日本領土に併合してしまうのは無理がある、というので満州人民の自主独立を名分に
傀儡政権を立てたのは明らかです。「いつから中華民国の領土になったのか」 などという
愚問は、日本の侵略を合法化したい論者の欲目に過ぎません。
植民地化して 「良い統治をした」 というのはこちらから言うことでなく、相手が言って
初めて意味があります。事変を主導した石原莞爾が満州国に戻って、日本人の横暴な
やり方に激怒したという事だけでも、その実態がどういうものか分かるでしょう。
(また蛇足ながら、1933年5月の塘沽休戦協定で満州事変は一段落したとし、シナ事変
以降と切り離す考え方がありますが、塘沽はあくまで現地軍責任者同士の休戦協定に
過ぎず講和条約とは違います。その後日本による河北分離工作や内蒙古工作などが
継続され、シナ事変につながっていくのですから、切り離すのは無理があるでしょう。
私は満州事変以降の足かけ15年戦争、アジア太平洋戦争、と考えます。)
戦費調達の仕組みや当時の経済を知るには貴重な本ですが、著者の基本的な歴史観に
疑問を持って読む必要があります。
(わが家で 2014年6月13日)