保阪正康氏が昭和史前半の研究者・ジャーナリストら12人と対談した、「保阪正康対論集 昭和の戦争」
(保阪正康、半藤一利、伊藤桂一、戸部良一、角田房子、畑郁彦、森史郎、辺見じゅん、福田和也、牛村 圭、
松本健一、原 武史、渡辺恒雄 共著。 朝日新聞社、2007)。
太平洋戦争についての深い考察を示してきた保阪氏の対論ということで期待したのですが、たいへん
不満が残りました。
まず冒頭の半藤一利氏との対論では、歴史にイフはないことを前提にしつつ、あの戦争をどこかで止める
ことはできなかったか、ということを検討しています。
まずハル・ノートを受諾したら・・・
保阪 「いわゆる最後通牒ですね。(中略) これを受諾すると日本の勢力範囲は満州事変以前に戻って
しまいます。当時の日本の権力図を見ると、とても受け入れられるものではなかったでしょう。」
半藤 「この時点でこんなものを出してくるのは外交の常識にも反しています。」 (9p)
というのですが、ハル・ノートは最後通牒ではないと東郷外相に進言した吉田茂氏の自伝をこのお二方
なら当然承知しているはず。それでいてこういうハル・ノート悪玉論は歴史研究者としてどうかと思われ、
がっかりです。
南部仏印進駐はどうか。それに対してアメリカが石油輸出禁止をしてきました。
半藤 「日本は大慌てです。(南進論の主唱者岡軍務局長は) アメリカがここまでやるとは思わなかった、
などと・・・」
保阪 「それが海軍の一方的な希望的観測なんですよ。」
半藤 「これは海軍の責任は極めて重い。」
と海軍悪者論になって行きます。しかしその直前7月2日の御前会議決定に、「対英米戦を辞せず」 と
いう文言が入っていることについては、
半藤 「それは東條らの意向を受けて、単に心がまえとしての意味だったらしいんだが・・・」(12-13p)。
何をおっしゃるウサギさん。当時はドイツが快進撃を続けている時期で、「バスに乗り遅れるな」 が
合言葉だったといわれています。石油の前に鉄くずなどいろいろな物資がすでに次々と禁輸になって
いたのですから、石油禁輸に大慌て、などというのは海軍のごく一部の人の責任逃れのジェスチャー
でしょう。
「対英米戦を辞せず」 が単なる心がまえだったとは、とても思えません。お2人になにか先入観が
あるように感じます。
戦争を始めないこと、あるいはもっと早い終結ができたのは天皇だけだった、と私は思います。しかし
半藤氏も保阪氏も、立憲君主である天皇は輔弼の臣のすることを拒否できないし、情報過疎におかれた
無力な存在で、無理に戦争を止めたらクーデターが起こったに違いない、と決めつけます。
天皇は平和志向だったのだが、反対したらテロやクーデターになったに違いないというのはこの対談で
何度も使われていて (18Pほか)、天皇免責にはとても便利な論理です。私が思うに、それなら終戦など
反乱リスクのある決断の時は、天皇を護持する側が先手を打って戒厳令を布いたらいいのではないか
と思いますが、お二人は出来ない、できないばかりですから、そのようには考えないのでしょう。
しかし、「輔弼」 とは天皇を 「補佐し助言する」 ことで、本来の権限そのものは天皇にあるわけですし、
責任を負うのは国会や国民にではなく天皇に対してであり、最終的には天皇の承認が不可欠です。
明治憲法第3条の 「天皇は神聖にして犯すべからず」 というのは、それ自体は無答責=責任を問われ
ないという明文の規定ではありません。かりに無答責と解釈したとしても、実態は違います。
総理を指名することは天皇の専権事項ですし、講和・宣戦・条約締結など国家の最重要事項はすべて
御前会議で決定されています。閣僚や重臣からの上奏も上がるし、報告を求めることもいつでも可能
でした。戦時中は詳細な戦闘報告もぼ毎日上がっている。
大日本帝国は 「万世一系の天皇之を統治す」 とある上に、特に天皇機関説を否定した1935年 (昭和10)
以降は理論上も天皇本人の直接統治になって、無答責ではなくなってしまったという解釈も可能です。
軍の統帥権はもともと天皇直属で、戦時には政府とは別に、軍事戦略・作戦を指導する大本営が設置
されるのが慣例でした。
つまり明治憲法では 「天皇は君臨し、かつ統治す」 であり、「国王は君臨すれども統治せず The King
reigns, but does not govern. (元は16世紀リトアニアの宰相ヤン・ザモイスキの言葉)」 を原則と
する西欧的な立憲君主制とは明白な隔たりがありました。立憲君主論で天皇を免責するのは牽強付会
であり、歴史を研究する態度ではありません。
保阪・半藤の2人にしてこんな話をしているとは、正直ガッカリしました。
また松本健一氏との対話では、先の戦争の呼び名 (大東亜戦争、太平洋戦争、など) を云々したあと、
保坂 「私は開戦詔書の中に、ある一文を入れて欲しかった。すなわち 『アジアの鉄鎖を打破する使命
を自覚し』 という一言があれば、われわれはどれほど 『崇高な戦争を戦った』 と思えたことか。」 (190p)
ちょっとちょっと。台湾、朝鮮を併合し満州に傀儡政権を作っていた大日本帝国がそんな文言を開戦詔書
に入れたら、それこそ反日独立運動を奨励するようなものですから、入れたくても入れられなかったのが
実情でしょう。残念な気持ちは分からなくもありませんが、保阪氏ともあろう方が何を寝ボケているので
しょうか。
続いて松本氏が 「東条英機が悪いという言い方も可能だが、私は彼に任せた近衛文麿に大きな責任が
あると考える。」 (191p) と言い出すのです。
近衛首相の和平交渉案に東條が強硬に反対して近衛が政権を投げ出したのですが、後継首班は天皇が
直接に指名するのであり、東條の場合は木戸内大臣の進言が採用されたらしいと言われています。
近衛に東條を選ぶ権限はまったく露ほどもありません。どうやったら近衛が自分の内閣を潰した東條に
「任せる」 ことができるのでしょうか。お2人とも、基本的な歴史認識が甘いように思われます。
ざっと読むだけでこれです。保阪氏と対談者それぞれに基本的な勘違いがたくさんあります。よほど気を
つけて読む必要がある本です。
(わが家で 2014年6月15日)
(保阪正康、半藤一利、伊藤桂一、戸部良一、角田房子、畑郁彦、森史郎、辺見じゅん、福田和也、牛村 圭、
松本健一、原 武史、渡辺恒雄 共著。 朝日新聞社、2007)。
太平洋戦争についての深い考察を示してきた保阪氏の対論ということで期待したのですが、たいへん
不満が残りました。
まず冒頭の半藤一利氏との対論では、歴史にイフはないことを前提にしつつ、あの戦争をどこかで止める
ことはできなかったか、ということを検討しています。
まずハル・ノートを受諾したら・・・
保阪 「いわゆる最後通牒ですね。(中略) これを受諾すると日本の勢力範囲は満州事変以前に戻って
しまいます。当時の日本の権力図を見ると、とても受け入れられるものではなかったでしょう。」
半藤 「この時点でこんなものを出してくるのは外交の常識にも反しています。」 (9p)
というのですが、ハル・ノートは最後通牒ではないと東郷外相に進言した吉田茂氏の自伝をこのお二方
なら当然承知しているはず。それでいてこういうハル・ノート悪玉論は歴史研究者としてどうかと思われ、
がっかりです。
南部仏印進駐はどうか。それに対してアメリカが石油輸出禁止をしてきました。
半藤 「日本は大慌てです。(南進論の主唱者岡軍務局長は) アメリカがここまでやるとは思わなかった、
などと・・・」
保阪 「それが海軍の一方的な希望的観測なんですよ。」
半藤 「これは海軍の責任は極めて重い。」
と海軍悪者論になって行きます。しかしその直前7月2日の御前会議決定に、「対英米戦を辞せず」 と
いう文言が入っていることについては、
半藤 「それは東條らの意向を受けて、単に心がまえとしての意味だったらしいんだが・・・」(12-13p)。
何をおっしゃるウサギさん。当時はドイツが快進撃を続けている時期で、「バスに乗り遅れるな」 が
合言葉だったといわれています。石油の前に鉄くずなどいろいろな物資がすでに次々と禁輸になって
いたのですから、石油禁輸に大慌て、などというのは海軍のごく一部の人の責任逃れのジェスチャー
でしょう。
「対英米戦を辞せず」 が単なる心がまえだったとは、とても思えません。お2人になにか先入観が
あるように感じます。
戦争を始めないこと、あるいはもっと早い終結ができたのは天皇だけだった、と私は思います。しかし
半藤氏も保阪氏も、立憲君主である天皇は輔弼の臣のすることを拒否できないし、情報過疎におかれた
無力な存在で、無理に戦争を止めたらクーデターが起こったに違いない、と決めつけます。
天皇は平和志向だったのだが、反対したらテロやクーデターになったに違いないというのはこの対談で
何度も使われていて (18Pほか)、天皇免責にはとても便利な論理です。私が思うに、それなら終戦など
反乱リスクのある決断の時は、天皇を護持する側が先手を打って戒厳令を布いたらいいのではないか
と思いますが、お二人は出来ない、できないばかりですから、そのようには考えないのでしょう。
しかし、「輔弼」 とは天皇を 「補佐し助言する」 ことで、本来の権限そのものは天皇にあるわけですし、
責任を負うのは国会や国民にではなく天皇に対してであり、最終的には天皇の承認が不可欠です。
明治憲法第3条の 「天皇は神聖にして犯すべからず」 というのは、それ自体は無答責=責任を問われ
ないという明文の規定ではありません。かりに無答責と解釈したとしても、実態は違います。
総理を指名することは天皇の専権事項ですし、講和・宣戦・条約締結など国家の最重要事項はすべて
御前会議で決定されています。閣僚や重臣からの上奏も上がるし、報告を求めることもいつでも可能
でした。戦時中は詳細な戦闘報告もぼ毎日上がっている。
大日本帝国は 「万世一系の天皇之を統治す」 とある上に、特に天皇機関説を否定した1935年 (昭和10)
以降は理論上も天皇本人の直接統治になって、無答責ではなくなってしまったという解釈も可能です。
軍の統帥権はもともと天皇直属で、戦時には政府とは別に、軍事戦略・作戦を指導する大本営が設置
されるのが慣例でした。
つまり明治憲法では 「天皇は君臨し、かつ統治す」 であり、「国王は君臨すれども統治せず The King
reigns, but does not govern. (元は16世紀リトアニアの宰相ヤン・ザモイスキの言葉)」 を原則と
する西欧的な立憲君主制とは明白な隔たりがありました。立憲君主論で天皇を免責するのは牽強付会
であり、歴史を研究する態度ではありません。
保阪・半藤の2人にしてこんな話をしているとは、正直ガッカリしました。
また松本健一氏との対話では、先の戦争の呼び名 (大東亜戦争、太平洋戦争、など) を云々したあと、
保坂 「私は開戦詔書の中に、ある一文を入れて欲しかった。すなわち 『アジアの鉄鎖を打破する使命
を自覚し』 という一言があれば、われわれはどれほど 『崇高な戦争を戦った』 と思えたことか。」 (190p)
ちょっとちょっと。台湾、朝鮮を併合し満州に傀儡政権を作っていた大日本帝国がそんな文言を開戦詔書
に入れたら、それこそ反日独立運動を奨励するようなものですから、入れたくても入れられなかったのが
実情でしょう。残念な気持ちは分からなくもありませんが、保阪氏ともあろう方が何を寝ボケているので
しょうか。
続いて松本氏が 「東条英機が悪いという言い方も可能だが、私は彼に任せた近衛文麿に大きな責任が
あると考える。」 (191p) と言い出すのです。
近衛首相の和平交渉案に東條が強硬に反対して近衛が政権を投げ出したのですが、後継首班は天皇が
直接に指名するのであり、東條の場合は木戸内大臣の進言が採用されたらしいと言われています。
近衛に東條を選ぶ権限はまったく露ほどもありません。どうやったら近衛が自分の内閣を潰した東條に
「任せる」 ことができるのでしょうか。お2人とも、基本的な歴史認識が甘いように思われます。
ざっと読むだけでこれです。保阪氏と対談者それぞれに基本的な勘違いがたくさんあります。よほど気を
つけて読む必要がある本です。
(わが家で 2014年6月15日)