つばた徒然@つれづれ津幡

いつか、失われた風景の標となれば本望。
私的津幡町見聞録と旅の記録。
時々イラスト、度々ボート。

昔と今の若葉のころ。

2017年05月27日 06時41分57秒 | 自然
「若葉の季節」である。
春に生え出た若葉は、初夏の季語。
まだ柔らかで、色合いも薄い。
鮮烈で瑞々しい姿を楽しめるのはあと僅か。
間もなく本格的な夏を迎える頃には勢いを増し、
強い日差しに耐えるため、分厚く、緑濃く姿を変えるだろう。

津幡中央公園の周りを囲む「プラタナス」。
日本ではポピュラーな街路樹だが、明治以降に導入された外来種。
原産地には諸説あるが、ヨーロッパでは古代から植えられていた。
命名の源は、ギリシャ語の「platys(広い)」。
彼の地では「学問の木」とも呼ばれている。
「ソクラテス」や「プラトン」などの哲人や、医学の祖「ヒポクラテス」らが、
弟子たちへの講義を行うため、プラタナスの木陰を教室代わりに利用したのだそうだ。
樹高があり、大きな葉をもつ枝は、絶好の日よけになったことだろう。

大きなプラタナスの葉を光に透かすと、葉脈がよく分かる。
切れ込みが、まるで人の掌のようだ。
見詰めているうち、懐かしい歌を思い出す。

『♪ぼくらはみんな 生きている
 生きているから 歌うんだ
 ぼくらはみんな 生きている
 生きているから かなしいんだ
 手のひらを太陽に すかしてみれば
 まっかに流れる ぼくの血潮(ちしお)』
 (作詞:やなせたかし、作曲:いずみたく「手のひらを太陽に」)

子供の頃、歌に倣って掌を太陽に透かしてみた事がある。
確かに、皮膚の薄い部分が紅く見えた。
何十年ぶりかに試してみた。
記憶の中の光景とは明らかに違う。
シワが走る乾いた肌は張りがなく、若葉みたいに瑞々しかったかつての面影はない。
しかし、血潮は視認できた。
僕は「生きて」いるんだ。
コメント
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