津幡町から中能登町の災害ゴミ受け入れ現場へ向かう際、
必ず通過するのが「宝達志水町(ほうだつしみずちょう)」だ。
宝達志水町の場所は、石川県の中部。
上掲地図画像を見てお分かりのように、能登半島の付け根---旧能登国最南部に近く
「口能登」(くちのと)に位置する。
北は羽咋(はくい)市、南はかほく市と津幡町。
西は日本海、東は富山県氷見(ひみ)市と高岡市に隣接。
平成17年(2005年)3月1日、
羽咋郡志雄町(しおまち)と押水町(おしみずまち)が合併して発足した。
行き帰りの道すがら、常々気になっていたのが「末森城跡」の大看板。
よく晴れた先日、陽が西へ傾き始めた頃、城址を訪問した。
歴史ファン、戦国ファンならご存じの通り、ここは戦いの舞台となったところ。
「前田利家」と「佐々成正」の軍勢が刃を交えた「末森合戦」である。
『末森山(標高138.8メートル-3等三角点)にある中世から近世初期の山城跡です。
現在は本丸門の礎石、通称「本丸」、「二の丸」「若宮丸」のあった跡や、
空堀が草叢ながら歴然と遺っています。
天正12年(1584)越中富山城主 佐々成政による攻撃を受けましたが、
城主 奥村永福がこれを死守し、前田利家の来援により落城を免れています。
この戦いが加賀百万石の基礎となったと伝わる「末森合戦」です。
昭和59年度から城郭分布踏査を開始。
60年度から3カ年で城域の踏査・測量、城郭の一部発掘調査を国庫補助を得て実施し、
約36ヘクタールの踏査範囲の内、主要郭の本丸から若宮丸部分が
石川県の史跡指定となっています。
城郭南側国道沿いに案内板、本丸に説明板を設置し、
登山道(個人作業用林道)に道順案内表示と、主要郭である、
「本丸」「二の丸」「若宮丸」にそれぞれ標柱を設置いたしました。』
(※『 』内、宝達志水町HPより引用/原文ママ)
元々「前田利家」と「佐々成政」は、どちらも「織田信長」の精鋭部隊に属し、
信長の下で何度も死線を搔い潜ってきた、いわば同僚で戦友だった。
しかし、本能寺の変で「信長」が倒れ状況は一変。
「豊臣秀吉」と「徳川家康」による天下取りのせめぎ合いが始まると、
「利家」はかねてから親交のあった秀吉側に加担。
「成正」は家康側に同調し、2人は敵対関係となる。
そして「末森合戦」で両雄が激突。
天正12年(1584年)年9月9日(※日程諸説アリ)、
「成政」が1万5000の大軍を率いて末森城を包囲。
翌10日から攻撃を開始した。
これに対し、城を守る前田兵は籠城して必死に抵抗。
成政軍の猛攻により、二の丸や三の丸は落とされたが、
本丸だけは死守し、現地に踏みとどまる。
末森城ピンチの一報は10日午後には、金沢城にいる「利家」の耳に届く。
もし加賀・能登・越中の国境にある交通の要所が落ちれば、
領土分断の憂き目に遭う。
急ぎ援軍を出すことを決定した。
利家軍は金沢からの進軍途中、わが故郷の母校が建っていた場所「津幡城」に立ち寄り、
息子の「前田利長」の軍と合流。
総数2500は「成正」軍に対し数の上では劣勢。
津幡城内で軍議を開き、作戦を練ったという。
9月10日深夜、城を出て雨の中海岸沿いを北上。
翌11日未明、成政軍の背後をつき奇襲をかけた。
本丸籠城中の味方も援軍に呼応し、挟み撃ちの恰好となった「成正」は、
末森城を諦め、越中に退却した。
死傷者は両軍合わせて2000近くになると伝わる末森合戦。
特に、寡兵の前田勢の損害は相当のものだったという。
激戦だったのである。
そんな城址を登ること20分あまり。
ようやく山頂付近の本丸跡に立つ。
兵(つわもの)たちの鬨の声も、ここで流された血と汗も時の彼方に消えてしまった。
ただ春のそよ風が吹き抜けるのみ。
僕は日本海に沈みゆく夕日を眺め感慨に浸ったのである。
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