“リスクの高い道は選ばないだろう”
そう読んだ僕の予想は見事にハズレた。
ロシアの、いや「プーチン」の選択は、鉄と血による「侵略」だった。
しかも、武力行使のこじつけにした一部地域に留まらない全面攻撃。
大胆不敵、厚顔無恥、傲岸不遜とはこの事である。
歴史を振り返れば、類似例があった。
それは今から54年前のチェコスロバキア。
社会主義の枠内で民主化を目指した政治改革「プラハの春」が、
軍事力によって叩き潰された一連の出来事だ。
愛読する小説の中に、こんなセリフを見つけた。
『彼らにとって、武力行使は対外的な政策を実行する当然の手段なのです。
彼らは力がすべてなのです。なんといってもイワン雷帝の末裔ですから。
個人的見解ですが、彼らは目的のためであれば、
手段を使い分ける忍耐と繊細な神経を持ち合わせていないのです。
例えが悪くて恐縮ですが、女をベッドに誘うのに優しく口説くのではなく、
殴りつけて失神させておいて事に及ぶのがソ連なのです。』
ソ連は地上から消えて久しいが、獰猛な赤熊は生き永らえていたのだ。
今回は、前述引用した小説「プラハの春」について投稿したい。
ほんの手すさび 手慰み。
不定期イラスト連載 第百九十六弾「カテリーナ」。
小説「プラハの春」の舞台となるのは1960年代。
世界は、今とは違う。
<資本・自由主義陣営> 対 <共産・社会主義陣営>
<アメリカ一家> VS <ソビエト連合会>
乱暴に言えば2大勢力が睨み合い、鍔迫り合いをしていた。
そんな時代のお話である。
メインキャストの一人は「堀江亮介(ほりえ・りょうすけ)」。
クラシック音楽と絵画を愛する、20代の若き外交官。
神経質で理屈っぽい面、明るく陽性で行動的な面を併せ持つ。
ある日、彼がウィーンへ外交文章を届ける役目を終え、
プラハに帰る途上、偶然、運命の女性とめぐり合い恋に落ちる。
ヒロインの名は「カテリーナ・グレーべ」。
豊かな亜麻色の髪、白磁を思わせる肌。
整った顔立ちを引き立てるブルーサファイアの瞳。
30代半ばの女盛り。
大学講師を生業にする。
慈愛に溢れた聖母やモナ・リザを連想させた。
しかし、彼女は曰く付き。
日本と国交のない東ドイツ(DDR)出身で、
反体制活動家の烙印を押され、国外追放された身の上。
しかも、気持ちは冷え切り、離れて暮らしているとはいえ、
まだ婚姻関係を解消していない人妻。
自身の生き写しのようなローティーンの娘を持つ、一児の母でもあった。
日本の官僚「亮介」にとっては、相応しい相手ではない。
一方の「カテリーナ」にとっても、危険を孕んでいた。
西側の人間と親密になれば、スパイの嫌疑をかけられかねない。
2人それぞれに事情を抱えた恋の道行きは、様々な苦難に直面。
また、時代の波にも翻弄される。
チェコスロバキア政府が「プラハの春」を広くPRするため、
ラジオ国際放送による政治広報番組を企画した。
<形態は音楽プログラム。
パーソナリティには、ロシア語、ドイツ語に通じた、
30代の教養ある魅力的な女性を起用の事>
---「カテリーナ」に白羽の矢が立った。
果たして番組は大ヒット。
チェコスロバキアに留まらず、ポーランド~ルーマニア~DDR~ソ連、
各国で平均聴取率30%を超える人気番組へ成長。
「カテリーナ」はヨーロッパのラジオスターになった。
だが、リスナーが増えれば増えるほど、
人々の関心が集まれば集まるほど、影響力が高まるほど、
行く手に暗雲が立ち込める。
改革を快く思わないクレムリンが、番組を槍玉に挙げはじめたのだ。
「カテリーナ」とチェコスロバキアに危険が迫っていた。
小説「プラハの春」の著者は「春江一也(はるえ・かずや)」氏。
在チェコスロバキア日本大使館に勤務した外交官で、
1968年、ソ連の軍事進攻第一報を打電した人物。
その時の経験を元に著した処女作である。
僕はまだプラハへ足を運んだことはない。
もちろん、半世紀以上前の彼の地には行くことはできない。
しかしページをめくる度に「その時のプラハ」を生々しく感じた。
ナチス占領下にあっても戦場にならならなかったお陰で、
“百塔の街”と呼ばれる景観が残り、
石造りの建物の間を縫って石畳の道が続く街並み。
真ん中を割って「モルダウ(ブルタバ)」が滔々と流れるプラハ。
その美しい都をソ連の戦車が蹂躙する。
排気ガスをまき散らすディーゼルエンジンの轟音。
無限軌道(キャタピラ)が石畳を破壊して突き進む。
火を噴く銃口。
逃げ惑う群衆。
倒される人々。
火炎瓶の黒煙。
支え合う2人。
悲劇。
絶望。
歴史上の事件が、一人の日本人の視点から描写され、
市民たちが「プラハの春」に沸き、これを守ろうとする姿を追体験出来た。
そして、今のウクライナに、首都キエフに思いを馳せることが出来るはずだ。
結びに、小説「プラハの春」からもう一節引用したい。
『わたくしは、権力は本質的に悪である、善なる権力は存在しないと確信しています。
しかも本質的に悪である権力を行使するものは人間です。
神ではありません。
だからこそ権力を手にするものは、不断に腐敗するのであり、
絶対的権力者は絶対的に腐敗するのです。
<中略>
しかし絶対的権力者でさえ、大いなる摂理のもとでは矮小なる存在にすぎません。
いずれにせよ歴史の大河の流れにおいて断罪され破滅する運命にあるのです。』
(※本文赤文字「春江一也」著「プラハの春」より引用/原文ママ)
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