わが津幡町には、川が流れている。
街中を流れる下流域は、正直、淀んでいる。
雄大な流れでも、美しい清流でもない。
しかし、僕は、この川が好きだ。
思い起こせば、幼い頃から何度足を運んだか分からない。
習慣は、今も変わらず続いている。
よく晴れた今朝、愛犬を伴い「津幡川」沿いを散歩した。

出発地点は「白鳥橋」。
名前の由来は、町の鳥「コハクチョウ」。
終ぞ辺りで姿を目撃した事はないが、鴨の類は多い。
季節に関係なく見止められるから、渡りではなく居着いていると考えられる。

ちょうど川が大きく蛇行していて、泥が堆積し、葦が生え、生物の生息場所になっている。
エサが多く、程よい隠れ場所になり、暮らしやすいのだろう。

津幡川沿いにランドマークが2つある。
一つは「津幡電話交換所」。
現在、人は常駐していないものの鉄塔が目を引く。

もう一つは「弘願寺(ぐがんじ)」。
『一向一揆時代には、津幡町笠谷地区の鳥越区にありました。
1580(天正8)年に織田信長(おだ・のぶなが)勢の佐久間盛政(さくま・もりまさ)が
能登の末森城攻略の途中、鳥越弘願寺を陣営にしようとしましたが断られたため、
寺が焼き払われ、後にここ加賀爪に移されました。
かつての宿場町、津幡宿があった旧北陸道沿いに建つ弘願寺は、
その当時、脇本陣的な役割を担っていました。
加賀藩前田家の歴代の殿様は本陣(ほんじん)御旅屋(おたや)にお泊まりになり、
その家来たちは同寺院に泊まったそうです。
1878(明治11)年には、明治天皇が北陸巡幸(じゅんこう=天皇が出かけること)の際、
同寺が昼食休憩所となりました。』
(※津幡町観光ガイドより引用・抜粋)

記述の通り、威容を誇っている。

さて「弘願寺」の表口近くには「災害復興記念碑」がある。

『昭和三十九年七月集中豪雨による大災害は、
本町住民に甚大な被害を与え町政も将に麻痺状態に陥ろうとした。
このときに当たり国は本町を激甚災害地に指定し
県並びに関係機関と緊密な連携の上
復旧工事とともに抜本的な一大改修工事が進められ
五ヶ年の歳月を閲し、総額三十六億円余に達する工事が完成した。
即ち津幡川本支流の大改修、道路の改良工事、
農林被災地の復旧並びに関連工事により、
本町は面目を一新し飛躍的な町勢への礎が築かれた。
ここに関係当局の援助を感謝し災害復興を記念するとともに
町勢今後の発展を念願し、この碑を建立する。
昭和四十四年十一月
津幡町』
(※災害復興記念碑裏面より引用)
ナイル、チグリス・ユーフラテス、インダス、黄河。
いわゆる四大文明は、川の畔で生まれた。
河川は農耕地を潤し、移動・運搬ルートにもなる。
その流れを見つめる事で感慨を育む。
一方、時に生活を脅かす洪水の源にも変貌するため、
治水・利水の技術とルールが発達したのだ。

そして到着した「おやど橋」。
『津幡町津幡地区の加賀爪区のおやど商店街は、
かつての宿場町、津幡宿があった旧北陸道沿いにあります。
当時はおやど橋を中心に、津幡川右岸には茶屋や木賃宿、馬屋などが立ち並び、
対岸の左岸には本陣(ほんじん)や旅籠(はたご)、商家などが軒を連ねていました。』
(※津幡町観光ガイドより引用・抜粋)
今は昔。
風が吹き抜ける橋の上は、人通りもなく静かだ。
時間旅行が叶うなら、往時の賑わいに見て、触れて、体感したいものである。
・・・以上、今朝のリバーサイド散歩でした。
街中を流れる下流域は、正直、淀んでいる。
雄大な流れでも、美しい清流でもない。
しかし、僕は、この川が好きだ。
思い起こせば、幼い頃から何度足を運んだか分からない。
習慣は、今も変わらず続いている。
よく晴れた今朝、愛犬を伴い「津幡川」沿いを散歩した。

出発地点は「白鳥橋」。
名前の由来は、町の鳥「コハクチョウ」。
終ぞ辺りで姿を目撃した事はないが、鴨の類は多い。
季節に関係なく見止められるから、渡りではなく居着いていると考えられる。

ちょうど川が大きく蛇行していて、泥が堆積し、葦が生え、生物の生息場所になっている。
エサが多く、程よい隠れ場所になり、暮らしやすいのだろう。

津幡川沿いにランドマークが2つある。
一つは「津幡電話交換所」。
現在、人は常駐していないものの鉄塔が目を引く。

もう一つは「弘願寺(ぐがんじ)」。
『一向一揆時代には、津幡町笠谷地区の鳥越区にありました。
1580(天正8)年に織田信長(おだ・のぶなが)勢の佐久間盛政(さくま・もりまさ)が
能登の末森城攻略の途中、鳥越弘願寺を陣営にしようとしましたが断られたため、
寺が焼き払われ、後にここ加賀爪に移されました。
かつての宿場町、津幡宿があった旧北陸道沿いに建つ弘願寺は、
その当時、脇本陣的な役割を担っていました。
加賀藩前田家の歴代の殿様は本陣(ほんじん)御旅屋(おたや)にお泊まりになり、
その家来たちは同寺院に泊まったそうです。
1878(明治11)年には、明治天皇が北陸巡幸(じゅんこう=天皇が出かけること)の際、
同寺が昼食休憩所となりました。』
(※津幡町観光ガイドより引用・抜粋)

記述の通り、威容を誇っている。

さて「弘願寺」の表口近くには「災害復興記念碑」がある。

『昭和三十九年七月集中豪雨による大災害は、
本町住民に甚大な被害を与え町政も将に麻痺状態に陥ろうとした。
このときに当たり国は本町を激甚災害地に指定し
県並びに関係機関と緊密な連携の上
復旧工事とともに抜本的な一大改修工事が進められ
五ヶ年の歳月を閲し、総額三十六億円余に達する工事が完成した。
即ち津幡川本支流の大改修、道路の改良工事、
農林被災地の復旧並びに関連工事により、
本町は面目を一新し飛躍的な町勢への礎が築かれた。
ここに関係当局の援助を感謝し災害復興を記念するとともに
町勢今後の発展を念願し、この碑を建立する。
昭和四十四年十一月
津幡町』
(※災害復興記念碑裏面より引用)
ナイル、チグリス・ユーフラテス、インダス、黄河。
いわゆる四大文明は、川の畔で生まれた。
河川は農耕地を潤し、移動・運搬ルートにもなる。
その流れを見つめる事で感慨を育む。
一方、時に生活を脅かす洪水の源にも変貌するため、
治水・利水の技術とルールが発達したのだ。

そして到着した「おやど橋」。
『津幡町津幡地区の加賀爪区のおやど商店街は、
かつての宿場町、津幡宿があった旧北陸道沿いにあります。
当時はおやど橋を中心に、津幡川右岸には茶屋や木賃宿、馬屋などが立ち並び、
対岸の左岸には本陣(ほんじん)や旅籠(はたご)、商家などが軒を連ねていました。』
(※津幡町観光ガイドより引用・抜粋)
今は昔。
風が吹き抜ける橋の上は、人通りもなく静かだ。
時間旅行が叶うなら、往時の賑わいに見て、触れて、体感したいものである。
・・・以上、今朝のリバーサイド散歩でした。