つばた徒然@つれづれ津幡

いつか、失われた風景の標となれば本望。
私的津幡町見聞録と旅の記録。
時々イラスト、度々ボート。

津幡川散歩、白鳥橋からおやど橋へ。

2019年04月20日 23時18分24秒 | 日記
わが津幡町には、川が流れている。
街中を流れる下流域は、正直、淀んでいる。
雄大な流れでも、美しい清流でもない。
しかし、僕は、この川が好きだ。
思い起こせば、幼い頃から何度足を運んだか分からない。
習慣は、今も変わらず続いている。
よく晴れた今朝、愛犬を伴い「津幡川」沿いを散歩した。

出発地点は「白鳥橋」。
名前の由来は、町の鳥「コハクチョウ」。
終ぞ辺りで姿を目撃した事はないが、鴨の類は多い。
季節に関係なく見止められるから、渡りではなく居着いていると考えられる。

ちょうど川が大きく蛇行していて、泥が堆積し、葦が生え、生物の生息場所になっている。
エサが多く、程よい隠れ場所になり、暮らしやすいのだろう。

津幡川沿いにランドマークが2つある。
一つは「津幡電話交換所」。
現在、人は常駐していないものの鉄塔が目を引く。

もう一つは「弘願寺(ぐがんじ)」。
『一向一揆時代には、津幡町笠谷地区の鳥越区にありました。
 1580(天正8)年に織田信長(おだ・のぶなが)勢の佐久間盛政(さくま・もりまさ)が
 能登の末森城攻略の途中、鳥越弘願寺を陣営にしようとしましたが断られたため、
 寺が焼き払われ、後にここ加賀爪に移されました。
 かつての宿場町、津幡宿があった旧北陸道沿いに建つ弘願寺は、
 その当時、脇本陣的な役割を担っていました。
 加賀藩前田家の歴代の殿様は本陣(ほんじん)御旅屋(おたや)にお泊まりになり、
 その家来たちは同寺院に泊まったそうです。
 1878(明治11)年には、明治天皇が北陸巡幸(じゅんこう=天皇が出かけること)の際、
 同寺が昼食休憩所となりました。』
(※津幡町観光ガイドより引用・抜粋)

記述の通り、威容を誇っている。

さて「弘願寺」の表口近くには「災害復興記念碑」がある。

『昭和三十九年七月集中豪雨による大災害は、
 本町住民に甚大な被害を与え町政も将に麻痺状態に陥ろうとした。
 このときに当たり国は本町を激甚災害地に指定し
 県並びに関係機関と緊密な連携の上
 復旧工事とともに抜本的な一大改修工事が進められ
 五ヶ年の歳月を閲し、総額三十六億円余に達する工事が完成した。
 即ち津幡川本支流の大改修、道路の改良工事、
 農林被災地の復旧並びに関連工事により、
 本町は面目を一新し飛躍的な町勢への礎が築かれた。
 ここに関係当局の援助を感謝し災害復興を記念するとともに
 町勢今後の発展を念願し、この碑を建立する。
                       昭和四十四年十一月
                             津幡町』
(※災害復興記念碑裏面より引用)

ナイル、チグリス・ユーフラテス、インダス、黄河。
いわゆる四大文明は、川の畔で生まれた。
河川は農耕地を潤し、移動・運搬ルートにもなる。
その流れを見つめる事で感慨を育む。
一方、時に生活を脅かす洪水の源にも変貌するため、
治水・利水の技術とルールが発達したのだ。

そして到着した「おやど橋」。
『津幡町津幡地区の加賀爪区のおやど商店街は、
 かつての宿場町、津幡宿があった旧北陸道沿いにあります。
 当時はおやど橋を中心に、津幡川右岸には茶屋や木賃宿、馬屋などが立ち並び、
 対岸の左岸には本陣(ほんじん)や旅籠(はたご)、商家などが軒を連ねていました。』
(※津幡町観光ガイドより引用・抜粋)

今は昔。
風が吹き抜ける橋の上は、人通りもなく静かだ。
時間旅行が叶うなら、往時の賑わいに見て、触れて、体感したいものである。
・・・以上、今朝のリバーサイド散歩でした。
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時には花のハナシなど。

2019年04月16日 15時13分09秒 | 草花
春の花と聞いて思い浮かべるものは、人によって違うだろう。
しかし、その代表格が「桜」なのは、衆目の一致するところ。
沖縄では1月に咲きはじめ、九州~本州では3月末~4月が見頃となり、
北海道への到達は5月。
桜の開花を基準にするならば、日本の春は1年の半分近い長さになる。
そんな見方ができるほど、身近でシンボリックな花だ。
現在は4月半ば。
北陸はソメイヨシノの盛りを過ぎ「花の時」を迎えた。

例えば、豪華な椿。
ツバキ科ツバキ属の常緑高木で、光沢のある濃い緑の葉が特徴。
厚みのある葉の意味で「あつば木」。
つややかな葉の「艶葉木(つやばき)」。
光沢のある葉の「光沢木(つやき)」など、
花ではなく葉が名前の由来とされる説が多いのは面白い。
「春の木」と書くとおり、まだ寒い早春から花開き、長い間、目を楽しませてくれる。

品種改良も盛んで、咲き方や斑の入り方、花色など、実に多種多彩。
細かな解説ができる知識はないが、それらを愛でることはできる。
また、フランスのファッションデザイナーのエピソードも思い浮かぶ。
「ココ・シャネル」が23歳でパリに帽子店を開く際、
才能を認め資金面で援助したイギリスの青年実業家は、彼女に思いを寄せていた。
彼が最初に贈った花こそ「椿」。
愛し合いながらもすれ違い、結ばれることなく、男は自動車事故によってあの世へ旅った。
椿がシャネルのモチーフになった切っ掛けと言われている。

続いては「源平桃」。
桜の咲く時期に相前後して開花の最盛期を迎える。
一本の木に、赤と白、中間の絞りの3色が競うように咲き乱れる様は、
かつて源氏(白旗)と平氏(赤旗)が覇権を争った如き。
わが津幡町は源平合戦ゆかりの地。
(※木曽義仲が勝利した「倶利伽羅峠の戦い」。)
何だか、浅からぬ縁を感じてしまう。

最後は、おやど橋の袂の「タブノキ」。
先日、近くを通りかかったところ、
蕾と見紛うばかりの大きな円錐形の芽が幾つも出来ていた。

やがて、ここから若芽が伸び、薄い黄緑色の花が咲き、実を結ぶ。
推定樹齢700年の間、絶えることなく繰り返されてきた営みである。
一匹、気の早いハナアブが葉に止まり、開花を今や遅しと待ち侘びていた。

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津幡町、春の能瀬見聞録。

2019年04月14日 11時37分58秒 | 日記
津幡町には「能瀬(のせ)」と呼ばれる地域がある。
僕が住む「庄(しょう)」からは、およそ3キロ。
片道、徒歩20分余りの位置だ。

地名の由来は定かではない。
文字から察するに、中心街から見れば能登へと至る方角にあたり、
昔は早瀬があったのだろうか?
どうも判然としない。
その疑問の解消は後に譲るとして、
昨朝、久しぶりに「能瀬」へと足を延ばした様子を投稿する。

道沿いで目を引くのは「特別養護老人ホーム あがたの里」。
経営は、津幡町長が代表者を務める「社会福祉法人津幡町福祉会」。
内情や評判は分からないが、立派な建物だ。
ここは、かつて「能瀬小学校」だった。

記憶を手繰ると、在りし日の木造校舎が浮かんでくる。
統廃合されたのは、平成が幕を開けて間もなく。
今は面影はなく、辛うじて往時を偲ばせるてくれるのは、
創立百周年記念碑と、二宮尊徳像だ。

また、その隣には、地元の名士、故「池田末次郎」氏の功績を称える
立派な「記功碑」が建つ。

明治15年 津幡町・能瀬生まれ。
大正7年  英田(あがた)村長就任。
昭和2年  石川県議会議員に初当選。
昭和15年 死去。享年59。
能瀬小学校の新築にも尽力したと、経歴が刻まれている。

さて、小学校跡から少し歩を進めると「能瀬川公園」がある。
一週間前に、恒例の「桜まつり」が行われた。
僕は、仕事の為に観覧が叶わず。
以下、津幡町観光ガイドから引用してイベントの様子を記録する。

『津幡町能瀬地区の町おこし住民グループ
 「能瀬川公園観桜会(かんおうかい)」が主催するこの桜まつりは、
 同地区で「順徳さん」として親しまれる上皇伝説をテーマに、
 順徳上皇の船上パレードで幕を開けます。
 最大の見物である「花嫁道中」では、
 和装の新郎新婦に米俵3俵と長持ちを乗せた屋形船が、
 桜舞う能瀬川をゆっくりと進みます。
 順徳上皇と新郎新婦を乗せた屋形船は、町所有の「ひふみ丸」で、
 当日は乗船体験も行われ、水上からも花見を楽しむことができます。』

最近の寒冷な気候のお陰か桜は花を留めていた。
まだ参加したことのない「能瀬川公園桜まつり」。
来年こそはと考えている。
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津幡短信vol.57~サイタ サイタ サクラガサイタ。

2019年04月07日 22時13分18秒 | 津幡短信。
津幡町に関するよしなしごとを簡潔にお届けする不定期通信。
今回は、花の便り。

【平成最後の桜が咲いた。】
わが町には、いわゆる「桜の名所」と呼べる所はない。

100本単位で連なる桜並木。
大きく枝を広げた大樹・老木。
城郭などと共演した和の趣が味わえるスポット。
・・・そんな類いは、思い浮かばない。
しかし、町内彼方こちらに桜は咲いている。
僕が好んで花見に出かけるのは「本津幡駅」前の「一本桜」だ。

樹齢は明確ではないが、駅周辺の発展を祈念して植樹された事から推測し、
少なくとも明治時代から100年以上は経っていると思われる。
現在は、まだ三~五分咲きといったところながら、
やがて満開になれば、淡い桃色に縁取られた輪郭が際立つ。
優しく、そして、怖いくらい美しく力強い。
大地に根を張り培ってきた命の塊だ。

淡い桜色の花びらが幾重にも連なる様子は眺めていて飽きない。
いやはや何とも美しい。
花の命は短い故に儚い。
茂る青葉も待ち遠しい。

前世紀の面影を留める駅舎と桜のある風景は、
毎年、僕を惹き付ける。


<津幡短信vol.57>
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平成の天照。~ 安室奈美恵。

2019年04月06日 22時02分35秒 | 手すさびにて候。
新しい元号「令和」が発表された。

「平成」は残り1ヶ月未満。
移行期間の今、時代を振り返る話題は後を絶たない。
今回は、まずその始まりを思い起こしてみよう。

昭和64年(1989年)1月7日午前6時33分、昭和天皇が崩御(ほうぎょ)。
同日の閣議で元号が決定し、午後2時36分に発表。
「平成」が幕を開けた。
春「消費税」が導入・・・当時の税率3%は、隔世の感がある。
秋「ベルリンの壁」崩壊。 
歳晩、東京証券取引市場一部の平均株価が最高値を更新。
時代の歯車が、音を立てて回っていた。

そんな転換期の夏、“昭和の歌姫”が他界。
「歌は世につれ、世は歌につれ」を地で行く幕引き。
昭和のそれが「美空ひばり」なら、平成はやはりこの女(ひと)。
ほんの手すさび、手慰み。
不定期イラスト連載、第百八弾は「安室奈美恵」(敬称略)。

平成4年(1992年)、
日本の最南端・沖縄から「SUPER MONKEY'S」としてデビュー。
オリコンチャート最高29位を頂点とした下積み時代を経て、ソロへ転身。
ユーロビートカバー路線で一気に注目を集める。
「小室哲哉」プロデュース作品で大ブレイク。
“アムラー”現象を引き起こした。

突然の妊娠・結婚、出産、離婚。
幾つかのスキャンダルを乗り越え、ヒップホップ風味の独自スタイルを確立。
ヒットを重ね、“アムロちゃん”から“NAMIE AMURO”へ。
アイドルから、アーティストへと成長を遂げる。
そして、平成最後の夏、いさぎよい幕切れ。
寂しさの余韻を残してステージを降りた。

2度の金融危機、企業の倒産。
非正規雇用の増加、格差社会。
オウム事件、アメリカ同時多発テロ。
阪神淡路大震災、東日本大震災。

バブル崩壊後、絶頂から奈落の底に突き落とされ迷える日本に、
歌で光を与え続けた「安室奈美恵」。
彼女を“平成の歌姫”と呼ぶ事に異論を挟む人は少ないだろう。
僕自身は熱心なファンではないが、素直にそう思う。
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