テレメンタリ―2019「史実を刻む~語り継ぐ“戦争と性暴力”~」20190826
(1)ソ連将校への見返り、未婚女性に「身預けて」
2019年08月21日 13:21
◆全員が内地に帰るため
敗戦後の旧満州(中国東北部)で、加茂郡から入植した黒川開拓団は、生き延びるためにソ連軍部隊を頼り、見返りとして女性団員約15人に軍将校の性の相手を強要し、女性たちは性暴力を受けた。帰国後、元団員らは事実を封印し、心に傷を負った女性たちの声はかき消されてきた。戦後73年がたち存命者が3人にまで減る中、遺族や関係者は戦争が招いた過酷な事実を後世に残すため、過去と向き合い始めている。
◆ ◆
「老毛子(ロモーズ)(ロシア人の蔑称)が来たぞ」
見張りの声が広野に響く。1945年秋、16歳の鈴村ひさ子(89)=中津川市田瀬=は乱暴目的のソ連兵から逃れようと、まきの束の陰で震えていた。
現在の加茂郡白川町から、国策で吉林省の陶頼昭(とうらいしょう)に渡った黒川開拓団。10の集落で約660人が営農していたが、終戦後は衣食不足の現地住民による略奪が頻発。拠点施設がある本部集落と団長宅で避難生活を送っていた。
各地で集団自決が相次ぎ、近隣の来民(くたみ)開拓団(熊本県)は275人が自決。古里に報告する使命を負った唯一の生存者を保護していた黒川開拓団にも、緊迫感が漂っていた。
8月9日に対日参戦し旧満州に侵攻したソ連軍は日本が敗戦した後も南下を続け勢力を拡大した。同月23日ごろには鉄道京浜線の陶頼昭駅近くに進駐。団幹部は将校をもてなしたが、兵士は野放図に性暴力を繰り返した。
ひさ子も被害を受けた。「13、14歳以上の娘は皆やられた」。乱暴されたとき手の届く距離にはさみがあった。突き刺そうと思ったが体は動かなかった。
食料は日に日に減る。心がすさんだ団員からは集団自決が持ち上がった。全員が穀物倉庫に入った後に火を付けると決め、団の最期を古里に伝える役目の若者も出発に備えていた。
止めたのは佐藤ハルエ(93)=旧姓安江、郡上市=の父長太郎だった。「人の命は簡単じゃない。努力して日本に帰らないと」
9月末、約500人が立てこもる本部集落を現地住民数百人に取り囲まれた。現地の警察官の叫び声がむなしく響く。高い土塀で守られていたが侵入は時間の問題だった。
「ソ連を頼むよりほかはない」。馬に飛び乗った若者は人混みを突っ切り、3キロ先の駅へ急いだ。駆けつけたソ連兵は自動小銃を発砲し現地住民をあっという間に退散させた。団員は歓声を上げた。
集合した団員の前で長身のソ連軍将校と肩を組んだ副団長は言った。「食料と塩をくれる。『満人』の襲撃からも守ってくれる」。団に居留していたロシア語に堪能な男性が協力し、団幹部が治安維持や食料配給を依頼したのだ。
命の恩人へのお礼を考えなければ-。団幹部はひさ子の姉やハルエら未婚女性を集めて懇願した。「全員を内地に連れて帰るまで、その身を団に預けてほしい」
頼んだのは、ソ連軍将校の性の相手。団では「接待」と呼ばれた。(文中敬称略)
【敗戦後の旧満州】 関東軍は敗戦前に南方へと撤退しており、内地から入植した満蒙開拓団には女性や子ども、高齢者約22万3千人が置き去りにされた。1946年に引き揚げが始まるまでの間、ソ連軍との戦闘、日本人に土地や家屋を奪われた現地住民による襲撃、集団自決、病気で約8万人が命を落とした。黒川開拓団の「接待」では性感染症などで4人が死亡。佐久良太神社(加茂郡白川町黒川)には4人を祭る「乙女の碑」がある。
※本企画および関連記事は2018年4月24日から11月19日までの岐阜新聞に掲載されました。文中の日付、人物の年齢等は新聞掲載日時点のものです。