米国の言いなりに防衛費を増やし、”台湾有事”への危機感をあおっては沖縄周辺の島々を軍事の島へと変えていく。改憲を視野に入れ、「戦争ができる国」へと日本が変容させられていく中で、93歳のノンフィクション作家、澤地久枝さんの「不戦」の旗はいよいよ鮮明になる。安倍政権下の2015年秋に成立した安全保障関連法に反対して始めた国会前のスタンディングデモは9年目に。折れない意志を貫き、国会前に立ち続ける澤地さんには、譲れないひとつの願いがある。(佐藤直子)
澤地久枝(さわち・ひさえ) 1930(昭和5)年、東京生まれ。「妻たちの二・二六事件」、旧満州での敗戦から帰国までを描いた「14歳」、アフガニスタンで人道支援活動中に武装集団に銃殺されたNGO「ペシャワール会」の中村哲医師との共著「人は愛するに足り、真心は信ずるに足る」など著書多数。
◆「日本は戦争前夜に向かっている」
「イスラエルは侵攻やめろ」「軍拡増税、改憲発議NO!」「放射能汚染水を捨てるな」。1946年に日本国憲法が公布されて77年の11月3日、東京・永田町の国会前の歩道に約200人が集まった。午後1時。悪政に抗議を込めたカードを一斉に掲げた。
仲間とともに国会前に立ち続けてきた澤地さん(手前右から2人目)=3日、東京・永田町で
参加者のスピーチに続いてマイクを握った澤地さんが語りかけた。「日本の政治は戦争前夜に向かっている。岸田総理は今、フィリピンに(防衛装備品輸出の件などで)行っていますが、それが間違いであることをここに集まる人の思いとして示したい。先にあるのは戦争です」
集団的自衛権の行使を可能にした安全保障関連法は、日本が米国の戦争に巻き込まれるリスクを高めた。2015年9月に成立した後、澤地さんは廃止を求めてデモを呼びかけ、11月3日から毎月3日には、雨でも炎天下でも必ず国会前に立ってきた。
この8年間に、政権は安倍晋三氏から菅義偉氏、岸田文雄氏へと移った。だが、民主主義の根幹である国会での議論を軽んじる「アベ的手法」は引き継がれ、岸田政権下の防衛力強化で、防衛省は来年度予算に7.7兆円を要求。一方、大多数の国民は、物価高と税負担に苦しんでいる。「一生懸命働いても老後に穏やかな生活がない。岸田さんはバイデン米大統領に会いに行き、国会の承認もなく防衛費の増額を約束してきたんです。とんでもないです」。澤地さんの言葉に強い怒りが込められた。
◆20代から心臓手術、3年前腰椎骨折で要介護4になっても
22年冬にロシアがウクライナに侵攻して戦争が始まると、岸田政権は国家安全保障戦略に相手国のミサイル発射拠点をたたく反撃能力の保有を明記。従来の専守防衛政策を転換させた。沖縄周辺では中国の台湾侵攻などに備えて軍事要塞化が加速している。「このままでは政府は沖縄を本土防衛の”捨て石”にした過ちを繰り返す。戦争は始まってからでは遅いのです」
こう気丈に語る澤地さんの身体は満身創痍だ。心臓は20代から手術を繰り返し、新型コロナが広がり始めた20年春には自宅で転倒。腰骨を折り、一時は「要介護4」の状態に。だが「諦めたら終わり」とリハビリに耐え、数カ月後にはつえをついてデモに復帰した。折れた腰椎は今も治りきらず痛むが、デモは「私にとって最低限の行動」と言う。記録的猛暑だった今夏も、時に車いすに乗って通い続けた。参加者は澤地さんと共に自らの意思を示して奮い立つ。澤地さんは「宝」なのだ。
◆権力者の命令で戦場に送り込まれ、自分で選べず殺される
04年に9人の作家らで結成した「九条の会」も今年3月に大江健三郎さんが死去して呼びかけ人は澤地さん1人となったが、行動を手放さない。なぜか。「戦死という『異形の死』を日本に繰り返させてはならない」という強い願いがあるからだ。「戦死はほかの死とは違う。権力者の命令に従って戦場へ送り込まれ、自分では何も選べないまま殺されてしまうの」
太平洋戦争中に日本海軍が大敗北を喫し、戦局の転換点となった1942年のミッドウェー海戦。澤地さんは80年代に、それまで正確な数は不明だった日米の全戦没者を調べ上げた。氏名、職業、学歴、死亡年齢、既婚か未婚か…。日米合わせて3418人の死は、大著「滄海よ眠れ」と「記録 ミッドウェー海戦」(菊池寛賞)に収めた。遺族を探し出し、聞き取りを重ねる旅の中で痛感した。
◆日米の違いは憲法9条に「戦後日本には戦死者がいない」
少年志願兵となった息子への哀惜を語った母。戦死した夫のきょうだいと再婚した妻…。戦死者にはそれぞれに語るべき人生があり、一人の戦死は遺族の人生をも狂わせていた。
米国では「なぜ敵国として戦った日本人の私の質問に遺族が答えてくれたのか」を考えた。遠い日のつらい記憶をえぐり出されても、彼らは尋ねていないことまで語った。「それは、二度と戦死を繰り返してほしくなかったからだと思う」
夫をミッドウェー海戦で亡くし、遺児の息子をベトナム戦争で亡くした女性がいた。「これこそが日米の戦後の違いですよ。戦後の日本に戦死者がいないのは、憲法9条があって、再び戦争をさせない歯止めになってきたからです」
猛暑だった9月のデモは車いすに乗って参加した=東京・永田町で
だが岸田首相は、国会で「総裁任期中に改憲を実現したい」と意欲を示す。「台湾有事を念頭に『戦う覚悟』を求めた政治家がいるけど、その人は戦場に行かない。戦場に行くのはいつだって若者。自衛隊員を戦死させてはいけない」と澤地さんは語気を強めた。
◆14歳で満州敗走、ソ連兵にレイプされそうに
「昭和」を見つめ、戦争や国家を問うてきた澤地さんに「戦争体験」と呼べるものは、一家で渡った旧満州(中国東北部)で迎えた敗戦の後に訪れた。当時は14歳の女学生。戦時中は日本兵の非常食を作り、男性が召集された開拓団の応援にも行った。何事も「お国のため」と思っていたが、国は少女を裏切る。
関東軍は住民を置き去りにして逃走し、澤地さん一家も1年間の難民生活を強いられた。栄養失調で人が死に、暴行や略奪が横行。澤地さんはソ連兵にレイプされそうになったことが、語れない心の傷になった。
「私は愚かな軍国少女だった」。そう悔恨を込めて語る体験も、若者には分からない。そう思ってきた澤地さんに、今年は戦争について話す機会が続いた。
◆戦争の話を学びに来た高校生たち、戦死させたくない
夏には地元の男子校、麻布高校の生徒5人が「ミッドウェー海戦の話を聞きたい」と訪ねてきた。敗戦時の自分と変わらない年頃の子ら。彼らとの交流は、澤地さんの心を明るくした。「いいよね。澤地久枝と聞いても、誰?って顔をして。私はどんなふうに話そうかとドキドキしたけれど、後で感想文もくれた。『戦争のことは知っているつもりだったけど、澤地さんの話を聞いてもっと学びたい』って。今の男の子はピアスもしているのね。よく考える、いい子たちでしたよ」
澤地さんは今、ある人のことを考えている。敗戦時に朝鮮半島の会寧(北朝鮮北東部の都市)にいて、自決した職業軍人の叔父一家のことだ。「みんな死んでしまったから、どんな死に方をしたのかも分からない」。そして改めて「戦争は残酷よ」と嘆息した。疑問が解けたと思っても、また新しい疑問が出てくる。いつまでも癒えない傷を残すのが戦争なのだ、と。
未来の子らに戦争のない世を手渡したい。そのためにやれることはやる。「もういつ死ぬか分からない。けれど、今生きているってことが大事よ」。こう言って、一気に言葉を継いだ。「だって、お国のために戦死してよかった、と言った遺族は一人もいなかったもの。戦死しては駄目なんです」。それが衰えない澤地さんの願いなのだ。