過激派武装グループ「連合赤軍」メンバーによる「あさま山荘事件」から50年。銃撃戦が繰り広げられ、警察が巨大な鉄球で山荘の壁を破壊した未曽有の事件は生中継され、多くの国民がテレビにくぎ付けになった。元メンバー加藤倫教(みちのり)さん(69)=愛知県刈谷市=と、元長野県警機動隊の箱山好猷(よしのり)さん(86)=同県上田市=が当時を振り返った。 (山田雄之、今坂直暉)
「中国が二度も五輪を開く『強国』になるとはね」。加藤さんは刈谷市の自宅で、半世紀前の記憶をたどって、淡々と語り始めた。
長野県軽井沢町のあさま山荘に立てこもって三日目。一九七二年二月二十一日夜、武装闘争を続ける大義が揺らぐ出来事があった。ニクソン米大統領が訪中したとのニュースだ。加藤さんらメンバーは三階の寝室に集まり、テレビ画面を食い入るように見詰めた。
当時、ベトナム戦争は米中戦争に発展する恐れがあった。それを阻止するため米国に協力する日本政府を倒すことが、武装闘争の大義だった。「自分たちが前提としていた政治情勢がなくなってしまった」
事件の三年前。高校二年の時、名古屋市内の繁華街で沖縄返還を求めるデモに偶然出合い、運動にのめり込んだ。「社会を良い方向に向かわせたい」との願いは、思わぬ方向に進んでいった。
兄、弟とともに運動に参加。群馬県内の「山岳ベース」と呼ばれるアジトでは「総括」という名でメンバーへの暴力が正当化され、兄も標的となった。加藤さんと弟はリーダーに腕を取られて「総括を援助しなさい」と兄を殴ることを強要され、泣きながら従った。氷点下一〇度の屋外に縛られた兄は、命を落とした。
警察の追っ手を逃れたメンバー五人がたどり着いた先が、あさま山荘。交代で仮眠を取りながら銃を手に外を見張った。
籠城十日目の二十八日、警察が突入した。ライフル銃で応戦したが、催涙ガスが充満する部屋の隅にあるベッドに押し込まれ、他のメンバーと取り押さえられた。連行時、抵抗せずに前を向いたのは、せめてもの矜持(きょうじ)だった。
裁判での判決は懲役十三年。刑務所で過ごしてたどり着いたのは「革命は、国民の多くが望む社会に変革すること。でも私は政府を倒すために武装闘争できれば満足だった。自分勝手だった」という結論だった。
出所後は家業の農業をしながら、愛知県内の「藤前干潟を守る会」や、「野鳥の会」に参加したこともある。今でも事件が残した影響を考える。「政府に反対することイコール過激派、と見る風潮を世の中に生んでしまった。自分たちは罪深いなと思う」
殉職覚悟、志願の突入 元長野県警機動隊分隊長・箱山さん
「もしもの時は親子三人、仲良くいてくれ」。七二年二月二十八日、長野県警機動隊分隊長として突入の命令を待っていた箱山さんは殉職を覚悟し、妻と小学生の子ども二人を思った。
県警は山荘を包囲し、閑静な別荘地が一転して物々しい雰囲気に包まれていた。当時の山荘は三階建て。一、三階を警視庁機動隊が担当し、県警機動隊は人質がいるとみられた二階を任された。「天命」と捉えて自ら志願した箱山さん。突入の合図で西側二階の外壁にハンマーを振るった。その瞬間、部下が叫んだ。「危ない!」。足元に視線を落とすと、こぶし大の手製爆弾が三階から転がり落ちてきた。だが、導火線の火が消えているのに気付き、ハンマーを振るう手を休めずに壁を破壊し続けた。
「俺に続け!」。部下を率い、一気に二階へとなだれ込むと、連合赤軍のメンバーは人質と三階に移っていた。それから約六時間後、立てこもっていたメンバー五人全員が逮捕され、人質も救出された。
「あのとき、足元の爆弾が爆発していたら死んでいた」と振り返り、こう語る。「革命への夢が狂信的な若者たちを凶行に駆り立てた。過激派闘争はあさま山荘事件を機に冷え込んだが、彼らが目指した革命とは何だったのか。彼らはどこで間違えたのか」。答えは今も見つからない。
あさま山荘事件 連合赤軍のメンバー5人が群馬県の山岳アジトから逃走中の1972年2月19日、長野県軽井沢町の「あさま山荘」で管理人の妻を人質にして10日間籠城。包囲した警察との銃撃戦の末、人質は無事に保護、メンバー5人は全員逮捕された。警視庁の警察官2人、民間人1人が射殺され、27人が負傷した。後に連合赤軍が山岳アジトでメンバー12人のリンチ殺人を行っていたことが明らかになった。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます