披露宴の会場は日系のANAホテルのレストランで行なわれた。
ホテルのエントランスに置かれた結婚式の案内パネル。
このパネルの写真は李真達アルバム用に撮った記念写真の1枚。記念写真の撮影はなかなか大変で、1月以上も前に屋外や野外で撮る。景色の良い場所では、そのようなカップルをよく見かける。ごく普通の光景なのか、物珍しげに集まって来て見物する者もいない。2人はカメラマンの指示でいろいろなポーズをとり、まるで俳優や女優のようである。李真と陳君は屋外だけにしたようだ。カップルによっては男性の方が長時間の撮影に退屈し、へこたれてしまうのがいるようだが、陳君は最後まで快く協力してくれたと李真は感謝していた。謝俊麗は分厚いアルバムを2冊作り、部屋の壁には大きなパネルが掛けてあった。
記念写真の1枚。
友人の袁毅(向かって左端)、謝俊麗と。
この日の招待客は260人とかで、広い大広間には紅色のテーブルと椅子とがぎっしりと置かれている。これは広間の後ろ半分。向かって右手にある入り口から入場した新郎新婦は、会場の中央のアーチをくぐって、この写真の背面にあるステージまで歩く。
当日のメニュー。1席に1つ置いてある。座席は指定されていなくて、客は係りが案内するテーブルに行き、適当に座るだけである。席に着くとテーブルに置かれている西瓜の種やキャンディーなどをつまんだりしながら開会を待つ。
正午に開会となり、新郎新婦が入場する。背中に羽をつけた小学校中学年生くらいの男の子と女の子が手に持った盆から花びらを撒きながら先導する。
正面のステージに上がった新郎新婦。左端は伴郎を務める新郎の友人、右端は新婦の近所に住む音楽大学の院生が務める伴娘。この後は迎親の時にもいた司会者が進行を務める。司会者はプロで手馴れたものだが、明るく気持ちのよい青年だった。
李真の父親の挨拶があり、その直後に司会者に「中国迷爺爺」と呼ばれ、もっと後かと思っていたので少々慌ててステージに上がった。通訳をしてくれる謝俊麗と前もって打ち合わせていたとおりに、「皆さんこんにちは。私は李真の結婚式のために日本から来ました。すみません。私の中国語はうまくないので、この後は友人の謝俊麗に通訳してもらいます」と、ここまでは辛うじて中国語で言い、後は日本語に切り替えた。何しろこのような大勢の前で話すのは10数年ぶりのことだからやはりあがったようで、後で言い忘れたこともあったことに気づいたが、何とか無事に終えた。
私の後で李真の従姉が話したが、彼女は陳君が勤めている会社を経営していて、同じように美術を専門にしている。彼女の紹介で2人は結ばれることになったのだが、中国ではこのような人を仲人と言うようだ。女性の仲人は紅娘(ホンニャン)と言い、この従姉は初めて紅娘になれて嬉しいと話したようだ。
この後は日本の披露宴でもよく見られる、指輪交換をしたり、ピラミッド型に積み上げたグラスにワインを注いだり、腕を交差させてワイン飲み交わしたり、ケーキをカットしたりということを2人でした。
面白かったのは、司会者が何か会場に呼びかけると10名近くの若い女性達がステージの前に集まって来て、それぞれ両腕を突き出し、手のひらをあお向けて頂戴、頂戴と言うように動かしたことで、皆未婚だということだ。ステージでは新郎が新婦を抱き上げると、新婦は手に持った花束を娘達に投げた。多分目をつぶって投げたのだろう、花束は娘達に届かず前に落ち、そこいた何人かの小さい少女達の1人が手に入れたらしい。会場には笑い声が起こった。おそらく花嫁の投げた花束をうまく取ったら、良縁に恵まれるということなのだろう。
その後で2人は親族の席に行って挨拶し、李真は会場を出た。
しばらくして戻ってきた李真は鮮やかな紅い衣装に着替えていた。お色直しである。この衣装は昔のタイプのもので、親戚の女性が作ったとのこと。2人は会場の各テーブルを回って、招待客達の祝福を受ける。これも日本と同じだ。
しかし、30近くあるテーブルを一つひとつ乾杯して回るのはなかなか大変だ。陳君が手にしているのは、アルコール度がとても高い白酒(パイチョウ)用のもので、これで何回も乾杯をしたら新郎はよほど酒に強くなくてはたまったものではないだろう。まして陳君は下戸のようだ。しかし新郎新婦のグラスの中は水なのだそうで、これなら安心というものだ。
こうして2時間ほどが過ぎたが、もう司会者の姿は見えず、従ってお開きにするという言葉もない。その前から客達は自由に退席していく。用事があるらしい客は宴酣の最中にも帰っていく。テーブルを回り終わった2人は出口近くにいて、帰る客に挨拶しながら送りだしていた。私も両親や陳君の家族に挨拶してから、謝俊麗と袁毅と一緒に会場を後にした。
ホテルのエントランスに置かれた結婚式の案内パネル。
このパネルの写真は李真達アルバム用に撮った記念写真の1枚。記念写真の撮影はなかなか大変で、1月以上も前に屋外や野外で撮る。景色の良い場所では、そのようなカップルをよく見かける。ごく普通の光景なのか、物珍しげに集まって来て見物する者もいない。2人はカメラマンの指示でいろいろなポーズをとり、まるで俳優や女優のようである。李真と陳君は屋外だけにしたようだ。カップルによっては男性の方が長時間の撮影に退屈し、へこたれてしまうのがいるようだが、陳君は最後まで快く協力してくれたと李真は感謝していた。謝俊麗は分厚いアルバムを2冊作り、部屋の壁には大きなパネルが掛けてあった。
記念写真の1枚。
友人の袁毅(向かって左端)、謝俊麗と。
この日の招待客は260人とかで、広い大広間には紅色のテーブルと椅子とがぎっしりと置かれている。これは広間の後ろ半分。向かって右手にある入り口から入場した新郎新婦は、会場の中央のアーチをくぐって、この写真の背面にあるステージまで歩く。
当日のメニュー。1席に1つ置いてある。座席は指定されていなくて、客は係りが案内するテーブルに行き、適当に座るだけである。席に着くとテーブルに置かれている西瓜の種やキャンディーなどをつまんだりしながら開会を待つ。
正午に開会となり、新郎新婦が入場する。背中に羽をつけた小学校中学年生くらいの男の子と女の子が手に持った盆から花びらを撒きながら先導する。
正面のステージに上がった新郎新婦。左端は伴郎を務める新郎の友人、右端は新婦の近所に住む音楽大学の院生が務める伴娘。この後は迎親の時にもいた司会者が進行を務める。司会者はプロで手馴れたものだが、明るく気持ちのよい青年だった。
李真の父親の挨拶があり、その直後に司会者に「中国迷爺爺」と呼ばれ、もっと後かと思っていたので少々慌ててステージに上がった。通訳をしてくれる謝俊麗と前もって打ち合わせていたとおりに、「皆さんこんにちは。私は李真の結婚式のために日本から来ました。すみません。私の中国語はうまくないので、この後は友人の謝俊麗に通訳してもらいます」と、ここまでは辛うじて中国語で言い、後は日本語に切り替えた。何しろこのような大勢の前で話すのは10数年ぶりのことだからやはりあがったようで、後で言い忘れたこともあったことに気づいたが、何とか無事に終えた。
私の後で李真の従姉が話したが、彼女は陳君が勤めている会社を経営していて、同じように美術を専門にしている。彼女の紹介で2人は結ばれることになったのだが、中国ではこのような人を仲人と言うようだ。女性の仲人は紅娘(ホンニャン)と言い、この従姉は初めて紅娘になれて嬉しいと話したようだ。
この後は日本の披露宴でもよく見られる、指輪交換をしたり、ピラミッド型に積み上げたグラスにワインを注いだり、腕を交差させてワイン飲み交わしたり、ケーキをカットしたりということを2人でした。
面白かったのは、司会者が何か会場に呼びかけると10名近くの若い女性達がステージの前に集まって来て、それぞれ両腕を突き出し、手のひらをあお向けて頂戴、頂戴と言うように動かしたことで、皆未婚だということだ。ステージでは新郎が新婦を抱き上げると、新婦は手に持った花束を娘達に投げた。多分目をつぶって投げたのだろう、花束は娘達に届かず前に落ち、そこいた何人かの小さい少女達の1人が手に入れたらしい。会場には笑い声が起こった。おそらく花嫁の投げた花束をうまく取ったら、良縁に恵まれるということなのだろう。
その後で2人は親族の席に行って挨拶し、李真は会場を出た。
しばらくして戻ってきた李真は鮮やかな紅い衣装に着替えていた。お色直しである。この衣装は昔のタイプのもので、親戚の女性が作ったとのこと。2人は会場の各テーブルを回って、招待客達の祝福を受ける。これも日本と同じだ。
しかし、30近くあるテーブルを一つひとつ乾杯して回るのはなかなか大変だ。陳君が手にしているのは、アルコール度がとても高い白酒(パイチョウ)用のもので、これで何回も乾杯をしたら新郎はよほど酒に強くなくてはたまったものではないだろう。まして陳君は下戸のようだ。しかし新郎新婦のグラスの中は水なのだそうで、これなら安心というものだ。
こうして2時間ほどが過ぎたが、もう司会者の姿は見えず、従ってお開きにするという言葉もない。その前から客達は自由に退席していく。用事があるらしい客は宴酣の最中にも帰っていく。テーブルを回り終わった2人は出口近くにいて、帰る客に挨拶しながら送りだしていた。私も両親や陳君の家族に挨拶してから、謝俊麗と袁毅と一緒に会場を後にした。