中国迷爺爺の日記

中国好き独居老人の折々の思い

おかあさん

2007-11-15 08:35:25 | 身辺雑記
  「最近読んだ本のこと」で取り上げた、『日中戦争』(小林英夫:講談社現代新書)に「『検閲月報』を読む」という章がある。『検閲月報』というのは『関東憲兵隊通信検閲月報』のことで、関東軍が兵士達や日中両国の庶民などの手紙を検閲した記録で、1953年に中国で発見された貴重な資料であるという。

 この章ではさまざまな面から取り上げた書簡が挙げられていて、非常に興味深い。中には中国軍の強さに嫌気をさしている内容のものもあるが、それらは一部抹消や削除処分になっている。特に私が重い気分になったのは捕虜殺害に関するもので、挙げられている3通はどれも削除、没収となっているが、捕虜を斬首、銃殺した様子の生々しさは目を背けたくなるようなものだ。中には自ら斬首することを上官に願い出て許可され2人を殺害した兵士もあり、私達子どもの憧れだった「皇軍のへいたいさん」の「聖戦」の実態を垣間見るような気がした。3通のうちの没収処分となったのは次のようなものである。

 「チャンコロ(当時の日本人が口にしていた中国人の蔑称)の首を切ったときの気持ちは実になんとも言えんな、然し断末魔の顔だけは忘れられん アイヤ、マーと言ってね 凄いよ 僕も殺人前科何犯か判らぬ、然し戦場では治外法権だからな」

 文面から見る限りこの手紙を書いた日本兵は、中国人を斬首したことを後悔している様子はないようだ。「首を切ったときの気持ちは実になんとも言えんな」と言うのは、その後に「然し断末魔の顔だけは忘れられん」と続けているから、快感を覚えたと言うことなのだろうか。私が暗然とした気持になったのは、殺される直前の捕虜が「アイヤ、マー」と言ったことだ。この日本兵は中国語が解っていたのかどうか、これは「ああ、おかあさん」と言ったのだ。おそらくは若い捕虜だったのだろう。故郷から遠く離れていたのかも知れないが、死の直前に故郷の母親を思い、その懐にすがるような気持ちになったのだろうと想像し、思わず涙してしまった。死に臨んだ実に悲痛な叫びで、筆者もそれが解っていたら、このように楽しげな調子の手紙は書かなかっただろう。この中国兵が今わの際に呼びかけた母親は、わが子がそのような死を遂げたことは思いもしなかっただろうし、もちろんその後わが子の遺骨を抱くこともできなかっただろう。

 戦争中私達は、日本の兵士は戦場で死ぬ時は「天皇陛下万歳」と言うと教えられていた。映画などでは必ずそのように言って事切れる場面があったが、兵士に対する教育は徹底していたから、戦場でもそのようなことは多くあったのだろう。しかし戦後になると、中には「おかあさん」と言って死んだ兵士もかなりいたと聞かされた。戦場に出た兵士は皆若かった。戦争末期になるにつれて年配者も徴兵されたが、多くは20代で、中には10代の者もいた。そのような若者たちは、今時とはかなり違う家族主義的な雰囲気で育っていたから、母親の存在は大きなものであっただろうと思う。だから最後に求めるのは母親の面影であっても不思議ではない。死ぬ間際に「おかあさん」と呼びかけるのは、教えられたとおり「天皇陛下万歳」と言うよりも人間味が感じられる。

 どうも子どもにとっての父親の存在というものは母親には及ばないように思うことがある。特に男の子の場合にはそのように思う。私の父は子煩悩で家庭を大切にしてくれた。子ども達に手を上げたことは一度もなかった。まだ小学校に上がる前の冬の夜のこと、どこかへ出掛けて家に帰る途中、父と手をつないでいると、父は時々私の手を軽くキュッキュッと握ったが、それはいかにも可愛いなという父の思いが伝わってくるようで、今もその感触を覚えている。そのような父に申し訳ない気もするが、やはり面影としては多く、深く思い出すのは母の方だ。母はおとなしく優しい人だった。晩年には「私は子どもに冷たかった」と言っていたが、私にはそうは思えなかった。父が死んだ時にはもちろん悲しかったが、母の場合はもっと悲しみは深く、長く続いた。やはり母親と言うものはいつまでも愛おしい特別な存在なのだろう。

 決して僻みっぽく言うわけではないが、私の息子達の場合もおそらく私よりも妻への思いの方が強いのではないだろうか。特に妻はもうこの世にいないから、息子達の思いはひとしお深いものがあるのだろうと思う。実際妻は息子達には優しかったし愛情深く接していたが、私はどちらかと言うと厳しい方だったから、特に長男は年頃になると反抗的な態度を見せた。今では息子達は寡男になった私に優しく接してくれているので何の不満もないが、やはり息子達にはいつまでも母親の思い出を大切にしてほしいと思う。


            
            「おかあさん」像。呉市下蒲狩町蘭島閣美術館で