宝蔵門をくぐると広い場所があり、その先に本堂がある。
本堂は観音像を祭るので観音堂と言う。かつては近世の大型寺院本堂の代表作として国宝に指定されていたが、やはり東京大空襲で焼失し、現在のものは1958年に再建された。鉄筋コンクリート造りである。
本堂の内陣。
内陣中央には本尊を安置する宮殿(くうでん)がある。いわゆる厨子である。宮殿内部は前の間と奥の間に分かれ、奥の間に秘仏本尊、前の間には「お前立ち」の観音像が安置される。本尊は公開されることはない。「お前立ち」の観音像は秘仏の代わりに拝むためのもので、平安時代初期に延暦寺の僧である円仁(慈覚大師)が来寺して造ったと伝えられている。宮殿の左右には脇侍の梵天、帝釈天像が安置されている。
内陣の天井画。堂本印象画伯の「天人散華の図」
本堂から宝蔵門を臨む。
浅草寺が焼失した1945年(昭和20年)3月10日の東京大空襲の時には、私は小石川区(現在の文京区)の小学生で、集団疎開で宮城県の温泉郷である鳴子町にいた。鳴子町の隣の町には、浅草の学校が疎開していた。空襲の翌日、朝礼で先生から大空襲があったこと、浅草が焼けたことが伝えられたが小石川については詳しく話されなかった。子ども達が動揺しないようにとの配慮だったのかも知れない。私の家は半焼だと後に聞いたが、実際は全焼だった。浅草の被害は悲惨なものだったらしいから、浅草の学校の子ども達の多くは孤児になったに違いない。今思っても胸が痛む。以来浅草は私の中で戦災と強く結びつくようになった。
東京大空襲は10万人とも言われる多数の無辜の民を虐殺した、広島、長崎への原爆投下にも匹敵する米国の蛮行である。敗戦国の悲しさ、日本の戦争責任は追及されても、この米国の戦争犯罪は追及されることはなかった。外国人観光客も多い浅草寺の雑踏を眺めながら、ほとんど忘却の淵に沈みかけているあの日のことをふと想像した。
本堂は観音像を祭るので観音堂と言う。かつては近世の大型寺院本堂の代表作として国宝に指定されていたが、やはり東京大空襲で焼失し、現在のものは1958年に再建された。鉄筋コンクリート造りである。
本堂の内陣。
内陣中央には本尊を安置する宮殿(くうでん)がある。いわゆる厨子である。宮殿内部は前の間と奥の間に分かれ、奥の間に秘仏本尊、前の間には「お前立ち」の観音像が安置される。本尊は公開されることはない。「お前立ち」の観音像は秘仏の代わりに拝むためのもので、平安時代初期に延暦寺の僧である円仁(慈覚大師)が来寺して造ったと伝えられている。宮殿の左右には脇侍の梵天、帝釈天像が安置されている。
内陣の天井画。堂本印象画伯の「天人散華の図」
本堂から宝蔵門を臨む。
浅草寺が焼失した1945年(昭和20年)3月10日の東京大空襲の時には、私は小石川区(現在の文京区)の小学生で、集団疎開で宮城県の温泉郷である鳴子町にいた。鳴子町の隣の町には、浅草の学校が疎開していた。空襲の翌日、朝礼で先生から大空襲があったこと、浅草が焼けたことが伝えられたが小石川については詳しく話されなかった。子ども達が動揺しないようにとの配慮だったのかも知れない。私の家は半焼だと後に聞いたが、実際は全焼だった。浅草の被害は悲惨なものだったらしいから、浅草の学校の子ども達の多くは孤児になったに違いない。今思っても胸が痛む。以来浅草は私の中で戦災と強く結びつくようになった。
東京大空襲は10万人とも言われる多数の無辜の民を虐殺した、広島、長崎への原爆投下にも匹敵する米国の蛮行である。敗戦国の悲しさ、日本の戦争責任は追及されても、この米国の戦争犯罪は追及されることはなかった。外国人観光客も多い浅草寺の雑踏を眺めながら、ほとんど忘却の淵に沈みかけているあの日のことをふと想像した。