中国迷爺爺の日記

中国好き独居老人の折々の思い

老いについてのことば

2008-08-26 08:23:44 | 身辺雑記
 後期高齢者になったせいでもあるまいが、このところ街の店の鏡やガラスに映る顔や姿は、何となく老人っぽくなってきたような気がする。75歳にもなったのだから、当たり前と言えば当たり前のことなのだが、気はまだ若いつもりでも、外見はどうにもならないものだと思う。電車で席を譲られることも経験するようになった。己んぬる哉と言うところである。

 これは今に始まったことではないが、本を読んでいて老いに触れた箇所に行き当たるとつい引き込まれ、あれこれ考えてしまう。最近こんな一節に出会った。

 一般的には年をとればとるほど頭も心も堅くなっていくように思われてたりするかも知れないけれど、本当は逆なんだ。年齢と戦っているとそうなるかも知れない。年をとるってことはいいことなんだよ、本来は。ものの見方が広がっていくんだから。ようするに長老になるってことだよ。人の相談に乗れる立場になる。「わからないことがあったら年寄りに聞け」って、そういう時代は長くあった。
 なかには頑固な人や偏狭な人もいるけど、そういう人は年のとり方を間違えたってことで、本来は自然に年をとれば知恵がつく。ところが最近の老人はちゃんと年をとれていないから、本人も自分を老人と思わずに若者になろうとする。年をとれないのが当たり前になってきて、世の中にも年寄りの境地ってものが用意されていないから、そのノウハウが途切れちゃっているんだ。
  ―細野晴臣『分福茶釜』(平凡社 2008年)―

(コメント) 
 私はもはや若者になろうと思ってはいないが、ちゃんと年をとれているのかどうかと自問すると、少し覚束ないところがある。年のとり方を間違えたということはないとは思っているが、さて・・・・? 確かに「年寄りの境地」が社会に用意されていないし、むしろ老人を邪魔者にするような風潮さえ感じるから、いきおい老人も年をとれなくなってきているのかも知れない。