中国迷爺爺の日記

中国好き独居老人の折々の思い

年の離れた友達

2009-08-30 11:16:18 | 身辺雑記
 新聞の読者の声欄で35歳の男性の投書を見た。

 通い始めた囲碁教室で72歳の「おじいちゃん」と仲良くなり、家に遊びにおいでと誘われた。家を訪問すると娘と思われる女性が出てきたので「おじい様はご在宅ですか」と尋ねると、ちょっと警戒するような様子を見せた。すると庭先からおじいちゃんが顔を出し「おやおや、いらっしゃい」と言うと、女性は「お友達ってこんなに若い方だったの。おじいちゃんも人が悪いわ」と言った。おじいちゃん曰く「ちょっとした悪戯心だよ。わしにもこんな若い友達がいるんだと家族をビックリさせたかったんだよ」。
 
 おおよそこのような内容だが、投書は「40歳近くも年上の方に言ってもらえる、友達という響きがなんだか嬉しかった」と結ばれている。なかなか洒脱なところがある老人だし、老人に友達と言われて喜ぶ男性の素直さもよい。

 友達付き合いは何も同年代や同性の間だけに存在するものではない。前(本年1月2日)にこのブログに載せた「忘年交」という一文の冒頭に次のように書いた。

 大阪の会社に勤めている西安人の邵利明(明明ミンミン)が、「爺爺イエイエと私は忘年交ワンニエンチャオですね」と言った。聞きなれない言葉だったから聞き返すと「年の離れた友達ということです」と言った。
 日本にはこのような言葉はあるのかと調べてみると、「忘年の友」があった(広辞苑)。不学にして、この年になるまで知らなかったが、出典は中国の陳書の江総伝という書のようで「年齢の差にかかわりなく親しく交わる友」とあり、「忘年の交わり」とも言うようだ。私と明明の年齢差は45歳くらいで世代も違うが、やはり友達としか言いようがない関係だから、まさに「忘年交」なのだ。

 明明に限らず中国の若い友人達は皆私を「爺爺イエイエ」とか「おじいちゃん」と呼んでいるし、私も孫娘のように言っているが、実際は「友人」(中国語では朋友ポンヨウ)で、「忘年交」の関係にほかならないのだ。それはとても快いもので、彼らの存在は私にとっては貴重なものだ。友人や知人の中には「この人は中国に彼女がたくさんいてね」などと冷やかし気味に言う者がいるが、「彼女」という言葉にあるある種の意味とは無関係の付き合いだからこそ、年齢を超え、性別を超えて楽しい交わりができるのだ。

 このような交わりは日本でもほしいのだが、残念ながらあまり多くはないし、とりわけ20~40代にはいない。それでも年はだいぶとってはいるが何人かの親しい卒業生がいて、彼らは当然私を「先生」と呼ぶが、それでも私にとって彼らは「忘年の友」だと思っているから何でも気楽に話すことができる。

 年が離れていようと女性であろうと、友達として過ごすひと時は開放感がある良いものだ。一定のけじめを保ちながら気兼ねなく付き合える関係はなかなか得がたいものだと思う。よく「お若いですね」と言われることがあるが、外見はともかくとして年齢の割には心の若さを保つことができているのも、そのような卒業生や中国人の「忘年の友」たちのおかげなのだろう。