中国迷爺爺の日記

中国好き独居老人の折々の思い

いのち

2009-10-06 09:30:06 | 身辺雑記
 夕方パソコンに向かっていると、すぐそばの開けた窓から小さい蚊が入ってきて腕の周りをうろつく。見ているとやがて腕に止まって脚を動かし姿勢を整える。口吻を刺そうとする瞬間にぱちんと叩く。失敗することもあるが、多くは蚊はあえなく最期を遂げる。その瞬間は蚊にとってはどんなものなのだろうか。どのような世界が見えていたのかは分からないが、突然死を迎え暗黒の中に沈む。果敢ないものだなと思ってちょっと哀れになることがある。年を取ったせいでもあるまいが、近頃は小さな動物の命のことでも考えることが多くなってきた。道を歩いていて虫が歩いていると避けるようにする。雨上がりの道にミミズなどが這っていると人に踏まれないように、靴の先でそっと脇にどけてやったりする。それだけだといかにも生類哀れみの慈悲心があるように思われるかも知れないが、しかし、血を吸われる前に手で払って蚊を助命するほどのことはしない。ましてゴキブリなどになると親の仇に出会ったように殺虫剤を噴霧し、仰向けになって肢をひくひくさせると溜飲を下げる。ゴキブリは蚊と違って血を吸うわけでなく、ただ不潔という先入観があるだけだから我ながら勝手なものだ。

 食事のときでもそうだ。肉を食べる時には、それが牛であれ豚であれ鶏であれ、「これも生きていたのだなあ」と考えることが多くなった。その様子を想像したりすることもある。だからと言って食欲が減退するわけでもないのだが、目の前の肉の一切れがかつては動き回ったり眠ったり餌を食んだりしていたことが不思議にも思われる。人は無数の命に支えられて生きていることを改めて思いもする。しかし至って俗人のことだから思考はそこで終わってしまうのだが、それでも仏教の一部の宗派では肉食を禁じていることは何となく理解できる。生きとし生きるものにはすべてかけがえのない命があるということだ。

 人の命の重さについては言うまでもないことだろう。だから凶悪な殺人事件の時には、死刑が妥当かどうかがよく問題にされる。国家権力で掛けがえのない人命を奪うのは許されないと言う意見があり、欧米では死刑廃止が多数になっているが、加害者についてみるとその通りでも、では被害者の命はどうなのだろう。

 近頃は殺人事件の被害者が1人であると死刑を回避する判決が多い。最近でも何の関係もない女性の部屋に押し入って女性を殺害し、細かく切断してトイレに流して捨てたという残虐な事件があったが、被害者は1人だということで加害者は1、2審とも無期懲役の判決、検察は上告を断念し刑が確定している。長崎市の前市長が市長選挙中に暴力団関係者に射殺されたが、これも被害者は1人であり、政治的動機はないということで、一審の死刑が高裁で覆されて無期懲役になっている。私は何が何でも死刑にするべきなどとは考えていないが、この2件については納得できないものを感じる。そもそも私には、根底にある1人ならとか、それ以上ならという基準がどうにも納得できない。被害者や遺族にとっても到底納得できる「勘定」ではあるまい。被害者の命は唯一の物であり、車のガソリンのように無くなったからと言って補充できるものではない。

 ムシや動物の命のことからちょっと脱線してしまったか。