中国迷爺爺の日記

中国好き独居老人の折々の思い

蘇州の城隍廟

2007-11-20 08:11:53 | 中国のこと
 宿泊したホテルの近くに寺院があったので入ってみた。城隍廟(チョンフアンミャオ)と言って、都市や町などにはどこにでもある町の守り神、鎮守の神のようだ。隍は堀を意味している。


 入ってみると入り口はさほど大きくはないが、意外に奥行きがある。この廟は仏教ではなく道教の寺院だった。

 入り口を入ると広場があり正面に儀門という門がある。


 儀門から入ると中庭があり、正面には本殿である城隍殿があり、その前には蝋燭を献灯するところがあって、紅い蝋燭が立てられている。中国の蝋燭は日本とは違って紅い。もう灯されているものがあったので朝早い参拝客があるのだろう。


蝋燭に火を灯すH君夫妻。




 城隍殿には道教の神が祭られていた。仏教の寺院とはまた違う派手な色彩である。


 道教のことは知らないので、どのような神があるのか分からないが、これは月老とあった。後で調べると月老とは月下老人の略で、人の縁組を司る神だということだ。月下氷人、すなわち仲人である。
 
その奥に女神の像があったが、これはどういう神か分からない。


 堂内にはその他にもさまざまな道教の神が祭られていて、その一つの女神像の前では何人かの男女が香を焚きながら経を唱えていた。朝早くからの「お勤め」なのだろう。




 現在の中国では宗教はあまり盛んではないのかと思っていたが、実際には仏教寺院でも道教寺院でも参拝客は多く、老人だけでなく若い女性なども、線香の束を捧げて四方を拝んだり、仏像の前でひざまづいて祈っている姿はよく見かける。
  上海の龍華寺で

  同上

 2004年の春節に、上海の唐怡荷(タン・イフ)と杭州の霊隠寺に行った時は大変な混雑だったが、その中で怡荷も熱心に線香を捧げて祈っていた。



 ただ、仏教信者と道教信者に分かれていることはないようで、どちらの寺院にも行き敬虔に祈るようだ。日本人の仏教寺院と神社に対する行為とは似ているようだが、もっと根が深いような気がする。道教は日本では馴染みは薄いが、その起源は仏教よりも古いから、中国の文化や町の守護、縁結びなどの民間の習俗に強く影響を及ぼしてきて、現代の中国社会にも根強く続いているのだろう。日本でも知られている仙人は道家の理想的人物とされているものだ。

 朝食時で、廟の向かい側の道路脇では餅子を焼いて売る屋台があった。水で溶いた小麦粉に葱を混ぜ卵を割り入れて作っていて、なかなか美味そうだった。


 
 

足底按摩(zudianmo)

2007-11-19 09:28:49 | 中国のこと
 毎日のように近くの私鉄のターミナルの周辺で、足裏マッサージの店の従業員がリーフレットを配っている。


 例によってカタカナ語で「リフレクソロジー」と、舌を噛みそうな名称になっている。この店は英国式なのだそうだが、料金は25分間で3千円くらい取るらしい。ずいぶん高いと思うが、相場としてはこんなものなのだろうか。このような料金で利用者はあるのだろうかと思うが、流行っているかはともかくとして、店はずっと続いているから、それなりに客はあるのだろう。どんなことをするのだろうかと、中国の足底按摩を経験したことがあるだけに興味はある。旅行の疲れが残っているのか脚にも体にもだるさがあるから、行ってみようかと思いもするのだが、やはり高い気がするし、それに1回くらい行ったところでと思ったりして敬遠してしまう。



 中国で初めて足底按摩を体験したのは2000年10月の西安でのことで、義弟夫婦や卒業生など数人と一緒だった。観光客、それも日本人対象の店のようで、全身のマッサージもあったが足だけにして、1時間2千円だった。小さい部屋に椅子のようなベッドのようなものが並んでいて、そこに座って桶に入れた湯の中に両足を入れる。桶の前に健康そうな若い娘達がしゃがんで揉んでくれたが、手の親指の力はとても強く、時々「痛い」と言いながらもなかなか気持が良かった。若いから元気なのだろうし、揉むコツもあるのだろう、終わっても娘達は別に息が上っている様子もなかった。ガイドの廖君を通じて出身地を聞くと、唐の女帝の則天武后の出身の土地から来たと言う。それは恐れ多いと冗談めかして拱手すると娘達は明るく笑った。則天武后は、西安が省都である陝西省の東に接している山西省の出身だが、そこから集団就職したのだろうか。金を貯めていずれは故郷に帰るのだろう。

 それからは独り旅が多かったから、言葉に自信がないということもあって敬遠し、江蘇省の揚州と新疆ウイグル自治区のジムサル(吉木薩爾)での2回しか経験していないが、揚州のホテルでのことはあまり印象に残っていない。ジムサルは区都のウルムチから東180キロにある小さな町だが、そこには外国人が宿泊を許可されているホテルは一軒しかない。それに外国人の宿泊があると人民解放軍に届け、兵士が調べに来ると言うことで、大いに興味を持ったのだが、結局は来なかった。このホテルの中にマッサージ室があり、疲れてもいたので思い切って出かけ、片言と手まねで何とかやってもらった。ここの足底按摩は西安よりもずっと丁寧で、漢方薬や牛乳の湯でじっくり足をマッサージしたり、足裏を押したり、爪を整えたり、踵の角質を削り落としたりで約1時間、非常に気持が良く満足した。それでいて料金は48元(当時のレートで600円あまり)で安いのに驚いた。それから数日間旅をしたが、足は帰国してからもつるつるしていた。今でも疲れた時などは、あの心地よい気分を思い出し、もう一度やってみたいと思うことがよくある。

 


陽澄湖の大閘蟹

2007-11-18 09:53:21 | 中国のこと
 11月7日から1週間、上海から江南地方の蘇州、紹興、水郷古鎮の烏鎮、平湖などを訪れた。江南とは長江(揚子江)下流南部の地域で、昔から豊かな産物で知られている。その産物の1つに日本では上海蟹と通称されている「大閘蟹(ダジャシエ)」がある。

 今年の3月にH君夫妻と江南地方を旅した時にも、大閘蟹の産地として有名な陽澄湖(ヤンチェンフ)に行ったが、今回同行した彼らの友人のH君は初めてなので再度行くことにした。陽澄湖は上海に隣接する江蘇省(省都は南京)の蘇州市にある大きな湖で、大閘蟹の養殖が行なわれている。上海から2時間半くらいの所にあるから、大閘蟹の旬の季節には上海人はよく食べに行くようだ。

 上海浦東空港に到着後夕刻に出発したので、陽澄湖に着いた時にはもう日が暮れていた。陽澄湖には大閘蟹の養殖業者がレストランを経営している所が多いようで、今回は巴城(バチョン)という鎮に行った。湖畔にはレストランが林立している。


 それぞれ岸から沖に向かって太いコンクリートの柱を打ち込んだ基礎の上に建てられている。その中の1軒の仙舫(トンシャンファン)という店に入った。建物はずっと沖の方に伸びていて、非常に奥行きがある。舫は船の意味で、このあたりのレストランにはこの語のついた店が多いようだ。


 遠くまで続く通路の片側には個室が並び、通路の反対側には水槽がたくさんあって、沈められた鉄製の籠に蟹が入っている。それを取り出して客に提供する。




 食卓に着くと、雄蟹、雌蟹のどちらにするかと聞かれた。10月は雌が、11月になると雄が旬のようだが、雄は3月に食べたので雌を注文した。蟹はメインだから、その前に野菜や魚介類の料理をいろいろ注文するが、これがどれもなかなか美味い。

 やがて出された蟹を見ると3月の時よりも小ぶりだった。雌は雄よりも少し小さいようだが、それでもこれからはだんだん太ってきて、年を越すと値段も倍くらいになるのだそうだ。良い蟹は厚みがある。


 この蟹は日本の河川にもいて、かつてはよく食べられていたモクズガニの仲間で、英名をhairy crabと言うように、鋏に長い軟毛が密生している。


 2度目なので食べ方は心得ていたが、それでも無駄が多く、特に細い脚の身は食べにくい。運転手の李さんは生粋の上海っ子というだけあって、私達よりも時間をかけてきれいに食べつくしていた。

 ところで、現地では「上海蟹」という表示はまったく見られず、「大閘蟹」となっている。どうも上海蟹という名称は中国では使われていないように思い、東京にいる上海人の施路敏(シ・ルミン)に尋ねてみたら「(上海蟹とは)言わないですね」と言った。2年程前には陽澄湖大閘蟹業協会が日本で市場調査をした結果、陽澄湖以外の産地のものもすべて「上海蟹」としていて、陽澄湖大閘蟹のブランドイメージを損なうので日本への輸出を見合わせるとしたことがあったようだが、その措置が実際に行われたのかどうかは分からない。

 大閘蟹の有名な産地はこの陽澄湖だが、その他にも養殖が盛んな所は多く、上海市内の崇明島という所も大規模な産地になっているそうだ。しかし実際には浙江省や福建省などの沿岸地域で、産卵され孵化した幼生を小さな蟹になるまで飼育し、それを長江各地の養殖池に移して出荷できるまで飼育し、陽澄湖など各地のブランドとするようだ。ちょうど日本の兵庫県の但馬牛が素牛となって神戸牛や、松阪牛、近江牛、米沢牛などの銘柄牛が作られているようなものなのだろう。

 大閘蟹は旬の時期には上海ではかなり高価なようで、それで上海人達は陽澄湖まで食べに来るようだ。食べてみて美味しかったかと聞かれたら、やはり美味しいと言うほかないが、日本ではかなり高価なものらしく、ことさらに食べてみようとは思わない。海産の蟹を好む日本人は大閘蟹を食べて感想を聞かれたら、やはり海のものの方が美味しいと答える人が多いのではないだろうか。

初めての日本

2007-11-17 08:58:28 | 身辺雑記
 中国西安の旅行社に勤めていた邵利明(シャオ・リミン)、愛称明明が1年間大阪の企業に勤めることになって10月下旬に来日した。会社から世話された住宅で生活して、もう日本での生活にもだいぶ慣れたようだが、それでも何かにつけて中国でのことと比較して、珍しく思ったり不思議に思ったり、戸惑ったりすることがあるのは当然のことだろう。

 百貨店の食料品売り場のフロア、いわゆるデパ地下に行くと、珍しそうに商品に目を留め「オデンって何ですか」と尋ねたり、辛子明太子を見て何かと尋ねたり、興味をそそられる物は多いようだ。彼女は日本食は刺身でも何でも食べるし(ただし梅干はだめ)、毎日好んでざる蕎麦を食べているようだが、これからも食生活だけでなく日常のさまざまなことに積極的に向かっていくだろう。そんな明明からいくつか日本で印象的に思ったことを聞いた。

 まず、日本の客を相手にするいろいろな所での応対の丁寧なことには好感を持ったようだ。上海から大阪に来たときに乗った中国民間航空の客室乗務員の中には普通1人だけ日本人がいるが、その日本人乗務員の笑顔と丁寧な態度は、中国人乗務員とは非常に違うと感じたらしい。また手続きのために行った大阪の区役所でも笑顔で丁寧に応対され、中国での役所の人間の偉そうな態度とずいぶん違うと言った。中国でも最近は北京五輪や上海万博を間近にして、かなり接客態度が改善されてはいるようで、現に先日上海浦東空港で、通関の時に笑顔で「ニイハオ」と言われ、初めてのことで少し驚いた。それでも明明には、中国と日本とでは接客態度にまだまだ差があるように思えるのだろう。

 日本の若い女性の喫煙者が多いことにも驚いていた。会社でも昼休みの時には女子トイレの入り口の前のベンチでは多くの女性社員が喫煙しているようだ。また街で2人の幼い子のそばで母親が喫煙しているのにもびっくりしたと言っていた。公衆トイレでは女子高校生が吸っていたのも見たようで、若い女性の喫煙者が多いことは中国とはかなり違うという印象を持ったようだ。

 若い女性の化粧の濃いことも驚きのようだ。まるで舞台に上がるような化粧だと言う。明明は素顔に近いごく薄く化粧をしているだけで、中国の若い女性は概して化粧はしていないか薄い。明明は西安でガイドをしていたから、化粧の程度で、中国人、日本人、韓国人の見分けがつくと言っている。日本の女の子ような化粧はしないほうがいいよと言うと、西安であんな化粧をしたら、気が変な人間と思われますと言って笑っていた。

 明明は日本語をかなりよく話すが、関西弁(大阪弁)には困るらしい。早口で何を話しているのかさっぱり理解できないと言う。入社した時に2人の役職者からいろいろ指導されたが、最初の人は関西弁だったので何も分かりませんでしたと言った。会社での昼休みに休憩室で皆が喋っている時にも何を話しているのか解らない。話の後で明明に「そやろ?邵さん」と聞かれたりすると、「はい」と答えるしかないと笑っていた。かつてある卒業生が茨城県で働いていた時に昼食をとりに入った店で、大阪の漫才師がテレビに出ていて、それを見ながら大笑いしていると、仲間が「あんた、あれは何を言っているのか解るのか」と聞かれたそうだ。関東の人間にとっては、大阪弁はまさに外国語のようなものだったのだろう。まして中国の大学で標準的な日本語を学んできた明明にとっては、大阪弁は難解の極みなのだろう。もっとも日本でも北の青森の端の方や南の沖縄などに行ったらもっと解らない、例えば東北のある所では、「食べろ」は「ケ」、「食べる」は「ク」と言うそうだ、「食え」、「食う」というやり取りなのだろうなどと話すと、大学で日本の寒い所ではあまり唇を動かさないで話すと聞いたことがあると言っていた。それでも「ヤロ?」とかか「ヘン」を連発する大阪弁には興味を持っているようで、同僚達に大阪弁を勉強しようかと言ったら、皆に止めなさい、標準語を勉強しなさいと言われたそうだ。日本語学習の本が見たいと言うので書店に行くと、外国人のための大阪弁の参考書があった。やはり郷に入れば郷に従えと言うことなのだろうが、明明は大阪弁は話さないほうがいい。東京に3年いる上海人の施路敏(シ・ルミン)は日本語がずいぶんうまくなって、とりわけ書くことの上達は著しいが、明明も一年後にはいっそううまくなっているだろうし、大阪弁も聴き取れるようになるだろう。

 

セレブ

2007-11-16 08:47:14 | 身辺雑記
 近頃は、何かにつけてセレブで、ひところのカリスマのように多用、乱用されているようだ。特に女性雑誌などの新聞広告や電車内の吊り広告にはよく見かける。

 セレブは英語のセレブリティ(celebrity)で、例によって日本風に略したのかと思ったら、英語でもcelebと略して使うようだ。この言葉は著名人、名士を指すもので、「特別な権力や財力をもつ人間、もしくはそういったグループのリーダーや役職者を表す」ものだったようだ。それが現在では芸能人や運動選手にも権力や財力を持つものが出てきたので、彼らをセレブと呼ぶようになったと言う。

 このようなセレブと呼ばれる人間は確かにいるのだろうが、日本で使われているセレブは金持ち、優雅、高級の意味に誤用されているそうで、どうもそのせいなのか、やたらにセレブ、セレブと言うのは何かしら違和感がある。東京の六本木辺りではこのような人種が多くいて、毎日贅沢な暮らしをしているそうだが、私のような者の生活感覚からはまったく縁遠い存在だ。金が多くあるだけで、優雅とか高級とか言うのはどんなものか。所詮成金のような気がしてならない。また、それを一般庶民に比べると何か優れた存在であるかのように持ち上げるのもどうかと思う。いわゆる高級住宅地に住み、最先端の服装や高価な装飾品で身を飾り、高級レストランや料亭で食事をし、夜の社交パーティーを毎日のように楽しむ、そんな一般庶民とかけ離れた日常生活を送っているだけでなぜセレブになるのか。先だって米国の芸能界のある若い女性が1年間に何億とかの浪費をして破産したという記事を目にしたが、このようなおよそ知性や常識のかけらもなく、ただ欲望の赴くままに日を送ったバカ女でもセレブなのだろうか。

 こうして毒づくのもおよそセレブの世界とは無縁の存在だからだろうが、こんな私でも一度だけセレブ扱いされたことがある。私の家族は毎年正月に集まって食事をする。何年か前にも食事した後で私が支払いをすると、一番上の孫娘が見ていて、後で「オジイはセレブ?」と親に聞いたそうだ。たいした支払額ではないのに孫娘には大金で、まさに私が金持ちに思えたのだろう。大笑いしてしまい、そんな孫娘をとても可愛いと思った。1年に1回家族にささやかな食事をプレゼントする、そんなセレブもいるのである。

 先日大阪のある薬局のような店で買い物をして、後で品物を入れてくれた袋を見るとチラシが入っていた。安売りの品の広告だったが、それには「セレブ薬局」とあった。店構えも小さいごくありきたりの店で優雅でも高級でもなく、何がセレブなのやらさっぱり分からなかったが、まあ、素敵な薬局ですよと言いたいのだろうと納得することにした。





おかあさん

2007-11-15 08:35:25 | 身辺雑記
  「最近読んだ本のこと」で取り上げた、『日中戦争』(小林英夫:講談社現代新書)に「『検閲月報』を読む」という章がある。『検閲月報』というのは『関東憲兵隊通信検閲月報』のことで、関東軍が兵士達や日中両国の庶民などの手紙を検閲した記録で、1953年に中国で発見された貴重な資料であるという。

 この章ではさまざまな面から取り上げた書簡が挙げられていて、非常に興味深い。中には中国軍の強さに嫌気をさしている内容のものもあるが、それらは一部抹消や削除処分になっている。特に私が重い気分になったのは捕虜殺害に関するもので、挙げられている3通はどれも削除、没収となっているが、捕虜を斬首、銃殺した様子の生々しさは目を背けたくなるようなものだ。中には自ら斬首することを上官に願い出て許可され2人を殺害した兵士もあり、私達子どもの憧れだった「皇軍のへいたいさん」の「聖戦」の実態を垣間見るような気がした。3通のうちの没収処分となったのは次のようなものである。

 「チャンコロ(当時の日本人が口にしていた中国人の蔑称)の首を切ったときの気持ちは実になんとも言えんな、然し断末魔の顔だけは忘れられん アイヤ、マーと言ってね 凄いよ 僕も殺人前科何犯か判らぬ、然し戦場では治外法権だからな」

 文面から見る限りこの手紙を書いた日本兵は、中国人を斬首したことを後悔している様子はないようだ。「首を切ったときの気持ちは実になんとも言えんな」と言うのは、その後に「然し断末魔の顔だけは忘れられん」と続けているから、快感を覚えたと言うことなのだろうか。私が暗然とした気持になったのは、殺される直前の捕虜が「アイヤ、マー」と言ったことだ。この日本兵は中国語が解っていたのかどうか、これは「ああ、おかあさん」と言ったのだ。おそらくは若い捕虜だったのだろう。故郷から遠く離れていたのかも知れないが、死の直前に故郷の母親を思い、その懐にすがるような気持ちになったのだろうと想像し、思わず涙してしまった。死に臨んだ実に悲痛な叫びで、筆者もそれが解っていたら、このように楽しげな調子の手紙は書かなかっただろう。この中国兵が今わの際に呼びかけた母親は、わが子がそのような死を遂げたことは思いもしなかっただろうし、もちろんその後わが子の遺骨を抱くこともできなかっただろう。

 戦争中私達は、日本の兵士は戦場で死ぬ時は「天皇陛下万歳」と言うと教えられていた。映画などでは必ずそのように言って事切れる場面があったが、兵士に対する教育は徹底していたから、戦場でもそのようなことは多くあったのだろう。しかし戦後になると、中には「おかあさん」と言って死んだ兵士もかなりいたと聞かされた。戦場に出た兵士は皆若かった。戦争末期になるにつれて年配者も徴兵されたが、多くは20代で、中には10代の者もいた。そのような若者たちは、今時とはかなり違う家族主義的な雰囲気で育っていたから、母親の存在は大きなものであっただろうと思う。だから最後に求めるのは母親の面影であっても不思議ではない。死ぬ間際に「おかあさん」と呼びかけるのは、教えられたとおり「天皇陛下万歳」と言うよりも人間味が感じられる。

 どうも子どもにとっての父親の存在というものは母親には及ばないように思うことがある。特に男の子の場合にはそのように思う。私の父は子煩悩で家庭を大切にしてくれた。子ども達に手を上げたことは一度もなかった。まだ小学校に上がる前の冬の夜のこと、どこかへ出掛けて家に帰る途中、父と手をつないでいると、父は時々私の手を軽くキュッキュッと握ったが、それはいかにも可愛いなという父の思いが伝わってくるようで、今もその感触を覚えている。そのような父に申し訳ない気もするが、やはり面影としては多く、深く思い出すのは母の方だ。母はおとなしく優しい人だった。晩年には「私は子どもに冷たかった」と言っていたが、私にはそうは思えなかった。父が死んだ時にはもちろん悲しかったが、母の場合はもっと悲しみは深く、長く続いた。やはり母親と言うものはいつまでも愛おしい特別な存在なのだろう。

 決して僻みっぽく言うわけではないが、私の息子達の場合もおそらく私よりも妻への思いの方が強いのではないだろうか。特に妻はもうこの世にいないから、息子達の思いはひとしお深いものがあるのだろうと思う。実際妻は息子達には優しかったし愛情深く接していたが、私はどちらかと言うと厳しい方だったから、特に長男は年頃になると反抗的な態度を見せた。今では息子達は寡男になった私に優しく接してくれているので何の不満もないが、やはり息子達にはいつまでも母親の思い出を大切にしてほしいと思う。


            
            「おかあさん」像。呉市下蒲狩町蘭島閣美術館で

最近読んだ本(3)

2007-11-14 08:04:24 | 身辺雑記
⑨藤原智美『暴走老人!』(文藝春秋)
 近頃キレル老人が多くなっていると言う。キレルだけでなく犯罪、不法行為の年齢も高齢化しているようだ。本書はそのような老人の実態例を挙げながら、その原因を分析している。挙げられた実例には、税務署の確定申告の場で突然大声を上げて怒鳴り始めたしゃれた身なりの老人、病院の待合室のロビーの床に仰向けに寝転がって手足をばたばたさせながら、嫌だ!なぜだ!とあたりかまわず喚き散らす年配の男、自動販売機でタバコを買おうとしていて後で待っていた70歳の男に、「買うのが遅い」と文句を言われて喧嘩になって殺してしまった60歳の男、コンビニで長時間立ち読みしてマネージャーに注意されて逆上し、エンジンをかけたチェーンソーで脅かした70歳の男などなど、老人達の信じられないような言動が多い。著者は老人達に起こっているさまざまな現象を、「時間」、「空間」、「感情」の3つの側面から分析している。そこからは、この20年ほどの間の急激な社会変化に取り残された孤独な老人の姿が浮かび上がる。私はもはやとっくに老人の域に入っているが、読むにつれて、自分はこのような老人達とは無縁だとは言い切れない、私自身もそのような老人の予備軍になりかねないという、ある恐ろしさのようなものを感じた。著者は55年生れの作家で、そのドキュメンタリー作品の『「家を作る」ということ』がベストセラーになったという経歴を持つ。
 
⑩劉達臨著 鈴木博訳『中国性愛文化』(青土社)
 著者は32年上海生まれ。上海大学社会学系教授でアジア性学連合会副主席。原本の「性与(と)中国文化」は、著者によれば5年半の歳月をかけて執筆された、訳書にして770余ページの労作である。書名が示すように中国文化における性に関するあらゆるジャンルに分け入り、膨大な文献を渉猟してまとめたものである。房中術、性愛小説、性に関する絵画彫刻など、かなりデリケートなものに触れた内容もあるが、決して興味本位に取り上げたものではない。とりわけ古代(清代以前)の中国王朝の皇帝、王族、貴族など支配者の荒淫、女性に対する暴虐振りを詳しく紹介し、女性がいかに男性の道具として屈辱の歴史の中にあったかを厳しく批判している。この本は内容と言い、量と言いさすがに気楽に読み流せるものではないので、毎晩眠る前にベッドで少しずつ読んでいったが、読むにつれて面白くなり、後半はかなりのペースで読めた。訳者は本書以外に同じ出版社から、本書と対を成す『中国飲食文化』や、飲食に関する随筆集『中国美味漫筆』、『中国美味礼讃』などを訳出刊行しているが、いずれも非常に面白い。

⑪岩男壽美子『外国人犯罪者』(中公新書)
 最近、外国人による犯罪についての記事をよく眼にするようになった。犯罪の内容も入管法違反、詐欺、窃盗、強盗、住居侵入、掏り、性犯罪、傷害、殺人、麻薬販売など多岐にわたっている。中でも中国人による犯罪は報道されることが多いせいもあって、外国人犯罪、それも凶悪犯罪は中国人という先入感が我われにはあるようだ。この本は「全国5ヶ所の刑務所に服役中の犯罪者2千余名への調査をもとに、日本人と外国人の犯罪意識と行動を比較考察する。犯罪におけるグローバル化とは何かを、端的に知るための貴重な報告である」(本書の帯より抜粋)。調査対象になった来日外国人2165名の中では、やはり中国人が最も多く404人であるが、2004年に行なわれた裁判の被告人の通訳言語は40言語に及ぶと言うから、まさに犯罪のグローバル化である。本書ではさまざまな角度からアンケート調査した結果を分析、考察しているが、単調に陥らず平易な記述で興味深い。著者は35年生れの、現在は慶応義塾大、武蔵工業大学の名誉教授。なお、調査結果については、「言うまでもなく、犯罪者は国や地域の代表ではない。分析結果はあくまでも受刑者に関するものであって、地域や国の性格に言及するものではないことをまず明確にしておこう」と至極当然のことを断っているが、犯罪報道だけをもって、ややもすると「○○人は・・・・」と言うようなことがあるから心に留めておく必要があるだろう。



 今更と言われそうだが、読書に比べるとテレビはやはり受け身なものだと思う。たしかに映像と言うものは直接視覚を通じて観る者の内面に入り込み、強い印象を与えることはある。だが読書の場合には常に読む者の意識が働き、曖昧な状態になることはない。テレビのドラマなどでは登場人物も情景も、直接的、限定的に与えられるが、読書の場合は小説でも随筆でも自分なりのイメージを膨らませながら読む。だからテレビドラマを見た後でその基になった作品をを読むと、例えば主人公の顔はドラマでの主役俳優のものが脳裏に浮かんでしまうので煩わしい。

 もちろんテレビの作品にもとても良いものがあることは重々承知しているし、場合によっては本よりも優れた効用もあることも分かるから、全てにおいて、読書の方がテレビに勝るなどとは言うつもりはない。そんなことを言えば今テレビが観られなくなっている状態にある私の負け惜しみになりそうだ。しかしどうも気のせいか、読書の方がテレビを観るよりも自分の時間が多く確保されいるようだし、テレビを観ている時のように。時折ぼんやりした状態になることがないのが良いと思うようになっている。

中国江南地方へ

2007-11-07 07:44:48 | 中国のこと
 7日から13日まで、卒業生のH君と彼の友人のH君夫妻と、上海から蘇州、紹興、烏鎮を訪れる。彼らとは何回か上海周辺に行ったが、すっかり気に入ってしまったようだ。

 私は蘇州には旅行社のツアーで2回行ったことがあるが、彼らは初めてで、ゆっくり蘇州の町を見ようと思う。紹興は昨年4人で行ったが、旧い町の様子をあまり見なかったので、今回はできるだけそういう所を見たいという希望を上海の旅行社の唐怡荷に伝えた。今回行く烏鎮は、観光客に今まで知られていなかった「烏鎮2期西柵景区」という古鎮で、先日の土曜日に怡荷が夫婦で様子を見に行ったが、とても良い所だと電話があった。江南地方には水郷古鎮が多くあるが、新しく見出されたというのが面白い。上海は既にいろいろと行ったり観たりしたが、今回はできるだけ違うところに行ってみるつもりだ。

 H君の希望で第1日目に上海から蘇州に行く途中で、陽澄湖という上海蟹の養殖地に寄って、ちょうど旬の蟹を食べることにしている。

中国の結婚式(4)

2007-11-06 08:38:03 | 中国のこと
 初めての中国の結婚式だったが、日本と似通っているところもあるが、違うことも多くあって興味深かった。

 日本の結婚式とは西洋風ということで共通しているが、これはやはり西安と言う都会だから若い人達の好みもあって現代風なのだろう。帰ってから謝俊麗とチャットしたら、彼女の友人の結婚式の写真を見せようと送ってくれたのがこの写真である。西安の北西100キロほどの所にある彬(ピン)県での結婚式での新郎の両親達の装束だ。

  

 中央が両親で、はじめは母親は仮面をつけているのかと思ったが、よく見ると化粧だった。左の2人は親族の夫婦ということだ。面白いなと言うと、そうでしょう、笑ってしまったと言ったから、山西省出身の俊麗でもかなり珍しく思った旧い習俗なのだろう。新郎新婦も旧い様式の衣装を着けるらしいが、その写真は手元にないと言った。結婚式は当事者の2人にとってはなかなか大変なことだが、このような所では両親や親族も大変だ。いったいこのような衣装を着けたり、化粧をすることにはどんな意味、由来があるのだろうか。広い中国の農村部などではあちこちに、まだまだ旧い習俗が根強く残っているのだろう。

 これは謝俊麗の結婚記念写真。写真を撮っただけで結婚式ではではこのような衣装を着たわけではない。明代の結婚衣装らしい。俊麗は幼い頃に故郷での結婚式で、このような姿を見た記憶があると言った。2人が持っているのは古い貨幣を模した金元宝(チンユエンパオ)というもの。


 女性の結婚衣装は、このような旧時代のものから、しだいにいわゆるチャイナドレス(旗袍チイパオ)、最近では西洋風のウェディングドレスが主流となっているとのことだ。
  俊麗の結婚記念アルバムから。


 披露宴の雰囲気は陽気でおおらかである。日本の披露宴は決められた席に座り、仲人の新郎新婦紹介や、2人の上司、旧師、友人などの挨拶を畏まって聴くが、中国では父親や私などの挨拶の時は静かだがリラックスした感じで聴き、その後は自由に立ち歩いて写真を撮ったりできる。もちろん食べる時には談笑している。小さな子ども達も会場を動き回って、落ちている花びらなどを拾ったりして遊んでいる。子どもの姿は多かった。参列者はほとんどが普段着に近いか、せいぜいよそゆきの服装だ。日本のように黒いスーツに白のネクタイの礼服は中国の結婚式ではではとんでもない服装で、特に白は葬儀の時の色だそうだ。前回にも書いたが、帰るのも自由だから気が楽だ。最近はとみに窮屈な雰囲気が苦手になってきている私にとっては、このような肩の凝らない会は有難く、開放的な気分になって疲れを感じなかった。

 ある中国の女性から面白い話を聞いた。彼女の友人が結婚するので学友達が何人か一緒に披露宴に出ることになった。しかし当日はその中の1人がいつまでたっても来ない。後で聞くと会場を間違えたのに気づかずに、適当に空いていた席に着いて食事もしたそうだ。のん気というか、おおらかと言うか、日本では考えられないことだが、この話を袁毅や俊麗にすると、ある、あると言った。飲食していて新郎新婦がテーブルに回って来た時に2人の顔を見て、あっ間違えたと気がついたという話があるようだ。会場には受付というものもないから、そういうことも起こるのだろう。李真の友人の孫璇の結婚式では、いろいろな人におめでとうと言われたけれど、誰だったかなと分からない人もいたと言うから、招待した方でも分からないことがあるのだろう。そういうことをあまり気にしないのが大陸的と言うのか、まことにおおらかだ。

 中国人は金銭のことはあけすけに話すので、私も李真に結婚式の費用はどれくらいかかったのかと尋ねると、会場費と料理のほかに化粧をしてもらったり、司会者を頼んだり、喜糖を用意したりの全てで2万数千元だったそうだ。日本円に換算すると30万円くらいで、何しろ招待客が260人だから、やはり桁違いに安い。謝俊麗に祝い金は幾らくらい出すのかを尋ねると、友人なら300元(4,500円)くらいから、親戚になると多くなり、親はもっと多く出す。親の出す額は、これも縁起を担いで999元、1,001元、時には10,001元のこともあるそうだ。9は久と同音であり、中国では古来吉に満ちた数とされる。1001は千里挑一(千の中から選ぶ)、10001は万里挑一(万の中から選ぶ)の意味があるとのことだ。私は日本式の祝儀袋に入れて渡して珍しがられた。

 もう1つ今回感じたことは、親族達がよく助け合うことだ。結婚式の前日には李真の家に従兄が来て手伝っていたし、会場ではその従兄や従姉が来客を座席に案内していた。南京の施路敏の祖父母の家でも印象に残ったことだが、親兄弟、いとこ同士の関係が本当に温かく心地よい。特にいとこは兄さんとか姉さん、弟、妹と言って実のきょうだいのようだ。最近はどの家でも一人っ子だから、いとこ同士はなおさら親しみ合うようだ。李真の陳君は幼い頃に家庭の事情でおばさんの家で育てられたようだが、その家の従兄とは今も兄弟のような関係だと言う。家族、親戚の絆がだんだん薄れてきているように思う日本に比べると、中国ではまだまだ家族、親戚の間の人間関係が強く、温かさが残っているようだ。

中国の結婚式(3)-披露宴-

2007-11-05 09:22:33 | 中国のこと
 披露宴の会場は日系のANAホテルのレストランで行なわれた。

 ホテルのエントランスに置かれた結婚式の案内パネル。


 このパネルの写真は李真達アルバム用に撮った記念写真の1枚。記念写真の撮影はなかなか大変で、1月以上も前に屋外や野外で撮る。景色の良い場所では、そのようなカップルをよく見かける。ごく普通の光景なのか、物珍しげに集まって来て見物する者もいない。2人はカメラマンの指示でいろいろなポーズをとり、まるで俳優や女優のようである。李真と陳君は屋外だけにしたようだ。カップルによっては男性の方が長時間の撮影に退屈し、へこたれてしまうのがいるようだが、陳君は最後まで快く協力してくれたと李真は感謝していた。謝俊麗は分厚いアルバムを2冊作り、部屋の壁には大きなパネルが掛けてあった。
  記念写真の1枚。


友人の袁毅(向かって左端)、謝俊麗と。



 この日の招待客は260人とかで、広い大広間には紅色のテーブルと椅子とがぎっしりと置かれている。これは広間の後ろ半分。向かって右手にある入り口から入場した新郎新婦は、会場の中央のアーチをくぐって、この写真の背面にあるステージまで歩く。


 当日のメニュー。1席に1つ置いてある。座席は指定されていなくて、客は係りが案内するテーブルに行き、適当に座るだけである。席に着くとテーブルに置かれている西瓜の種やキャンディーなどをつまんだりしながら開会を待つ。


 正午に開会となり、新郎新婦が入場する。背中に羽をつけた小学校中学年生くらいの男の子と女の子が手に持った盆から花びらを撒きながら先導する。


 正面のステージに上がった新郎新婦。左端は伴郎を務める新郎の友人、右端は新婦の近所に住む音楽大学の院生が務める伴娘。この後は迎親の時にもいた司会者が進行を務める。司会者はプロで手馴れたものだが、明るく気持ちのよい青年だった。




 李真の父親の挨拶があり、その直後に司会者に「中国迷爺爺」と呼ばれ、もっと後かと思っていたので少々慌ててステージに上がった。通訳をしてくれる謝俊麗と前もって打ち合わせていたとおりに、「皆さんこんにちは。私は李真の結婚式のために日本から来ました。すみません。私の中国語はうまくないので、この後は友人の謝俊麗に通訳してもらいます」と、ここまでは辛うじて中国語で言い、後は日本語に切り替えた。何しろこのような大勢の前で話すのは10数年ぶりのことだからやはりあがったようで、後で言い忘れたこともあったことに気づいたが、何とか無事に終えた。

 私の後で李真の従姉が話したが、彼女は陳君が勤めている会社を経営していて、同じように美術を専門にしている。彼女の紹介で2人は結ばれることになったのだが、中国ではこのような人を仲人と言うようだ。女性の仲人は紅娘(ホンニャン)と言い、この従姉は初めて紅娘になれて嬉しいと話したようだ。

 この後は日本の披露宴でもよく見られる、指輪交換をしたり、ピラミッド型に積み上げたグラスにワインを注いだり、腕を交差させてワイン飲み交わしたり、ケーキをカットしたりということを2人でした。






 面白かったのは、司会者が何か会場に呼びかけると10名近くの若い女性達がステージの前に集まって来て、それぞれ両腕を突き出し、手のひらをあお向けて頂戴、頂戴と言うように動かしたことで、皆未婚だということだ。ステージでは新郎が新婦を抱き上げると、新婦は手に持った花束を娘達に投げた。多分目をつぶって投げたのだろう、花束は娘達に届かず前に落ち、そこいた何人かの小さい少女達の1人が手に入れたらしい。会場には笑い声が起こった。おそらく花嫁の投げた花束をうまく取ったら、良縁に恵まれるということなのだろう。


その後で2人は親族の席に行って挨拶し、李真は会場を出た。


 しばらくして戻ってきた李真は鮮やかな紅い衣装に着替えていた。お色直しである。この衣装は昔のタイプのもので、親戚の女性が作ったとのこと。2人は会場の各テーブルを回って、招待客達の祝福を受ける。これも日本と同じだ。


 しかし、30近くあるテーブルを一つひとつ乾杯して回るのはなかなか大変だ。陳君が手にしているのは、アルコール度がとても高い白酒(パイチョウ)用のもので、これで何回も乾杯をしたら新郎はよほど酒に強くなくてはたまったものではないだろう。まして陳君は下戸のようだ。しかし新郎新婦のグラスの中は水なのだそうで、これなら安心というものだ。


 こうして2時間ほどが過ぎたが、もう司会者の姿は見えず、従ってお開きにするという言葉もない。その前から客達は自由に退席していく。用事があるらしい客は宴酣の最中にも帰っていく。テーブルを回り終わった2人は出口近くにいて、帰る客に挨拶しながら送りだしていた。私も両親や陳君の家族に挨拶してから、謝俊麗と袁毅と一緒に会場を後にした。