中国迷爺爺の日記

中国好き独居老人の折々の思い

前世 来世

2009-10-14 08:25:52 | 身辺雑記
 私の家の宗教は神道である。祖父の代までは仏教だったのだが、祖父が長兄の戸籍から私の父などの子どもも含めて離脱するときに、神道に改宗したようだ。当時は日本の国家としての宗教は神道で(今でも天皇家は神道だが)、どうやら祖父はそれに乗ったらしく、「我が家は国家神道と同じだ」などと言っていた。

 神道には伊勢系と出雲系があるが、「国家神道と同じだ」と言うから我が家は伊勢系ということになっている。家の宗教と言っても祖父は淡白だったし父もそうだったから、3代目の私に至っては信仰心皆無のいい加減なものだ。だから神道については詳しいことは知らない。ただこれまで両親や妻の葬儀やその後のことでは仏教に比べて非常にあっさりしていたし、高額の戒名料などを納めることもなかったからよかったという程度の認識だ。

 仏教の戒名に相当するものは簡単で、姓名の後に男性なら「大人命(うしのみこと)」、女性なら「刀自命(とじのみこと)」をつける。若い女性なら「媛命(ひめのみこと)」というのがあるとか。2歳で死んだ私の弟の霊璽(位牌に当たる)には、ただ「命」だけが付いている。いずれにしても死ねば、「高天原にまします」天照大神を頂点とする八百万(やおよろず)の神々の仲間入りをするわけだ。神道では前世について触れているのかどうかは知らない。卒業生に私の母や妻の葬儀を取り仕切ってくれた神職がいるから、いつか聞いてみよう。

 高天原は天国と言うようなものではなく、八百万の神々の居住地のようなものらしい。そこに行けばどのような「生活」が待っているのかいっこうに分からないが、不信心な私には来世があるとはどうにも思えない。今は故人になったある俳優は、しきりに死後の世界のことを説いていたが、彼は今どうしているのか、便りがあったとは聞かないから消息不明だ。 (続)

大盛り 大食い

2009-10-13 10:04:42 | 身辺雑記
 巷の飲食店で大盛りのメニューが人気で盛況だという新聞記事を見た。メガ食品と言うらしい。

 ある牛丼チェーン店では、ご飯は並の2.5倍、肉は6倍で「肉を食べても食べてもご飯が見えない」ほどなのだとか。話を聞くだけで胸がもたれそうなものだが、それでも完食者は少なくないそうで、どんな胃袋をしているのかと思ってしまう。「仕事で疲れたときなど目いっぱい食べるとストレス発散になる」と言う身長173㌢、体重100㌔の23歳の男性会社員。そんなものかな。

 あるコンビニエンスストアは「1kgカレーライス」を夏季限定で発売したのだそうだ。ご飯580g、カレー300g、チキンカツ50g、コロッケ60g、福神漬け10gなどの重量を足すと1キロになる。コンビニの弁当は持ち帰り弁当店との競合で苦戦らしいが、重量感のある弁当は割安感があって売れるようだ。1キロの重さの弁当と言うのはどれくらいの嵩なのか見当が付かないが、これも何となく胸がもたれるような感じだ。

 牛丼にしてもカレーライスにしても単品で量が多いのは、私などは敬遠してしまう。単品のものは口をつけた最初は旨いとも思うが、続けて食べているうちに飽きてくるから、何となくそそくさと食べ終わってしまい、ゆっくり味わい、食事を楽しむという感じが薄い。並みの量で結構と思う。これは最近とみに食べる量が少なくなっている私だからかも知れないが、やはり食べるなら少量でも2、3品あって箸を動かせられるものがいい。

 なぜこのように量の多いものに人気があるのだろうか。大食者が増えているのか。この新聞記事によると、厚生労働省の国民健康・栄養調査をみると、20代の男性の1日当たりのエネルギー摂取量は2200キロカロリー前後で、ここ数年変化していないのだそうだ。昼食に弁当だけでは物足りなくてカップ麺を買い足す男性は多いそうで、それがメガ食品だと1個で済まされるから、目だって見えるという考察もあるらしい。

 テレビの番組の影響で、大食いがゲーム感覚になって違和感がなくなったのも一因だと言う。メガ牛丼の場合、客の多くが携帯で撮影し、グループで挑戦することも多いようだ。テレビの大食い番組を見たことがあるが、異様と言うほかはないもので、見ていて気分が悪くなるようだった。料理をあのように汚く食べるのは見るに耐えない感じだ。そういうものが実際の食生活に影響しているとすればやはり好ましいことではないだろう。何事も「腹八分」が良い。

時の流れ

2009-10-12 09:39:52 | 身辺雑記
 眼科医でもらった処方箋を持って調剤薬局に行った。薬が出るのを待っているとその薬局の主人が近寄ってきたのでその顔を見ると驚いた。この薬局にはめったに行かないし、行っても主人の顔を見かけることはほとんどないから、おそらく10年ぶりくらいだと思う。
 
 驚いたのは久しぶりということではなく、その面貌が以前見たときと比べてあまりにも年老いていたからだ。頭は真っ白で、顔には皺が深く刻まれている。そばに来て新型インフルエンザに関する資料を見せながら説明してくれたのだが、その声がまた老人そのもので弱々しく、決して親しい間柄ではないが、胸を衝かれるような気がした。この変わりようはいったいどうしたことだろう、何か大病でもしたのかと家へ帰る道すがら考えた。

 少し前に家の近くで知り合いの夫婦連れに出会った。私とは挨拶する間柄ではないが、妻は長男とその夫婦の娘が中学で同じ学年だったので知り合いだった。このところちょっと見かけないなと思っていたのだが、久しぶりに出会ってみると主人のほうが急に老けてしまったようだった。やはり病気でもしたのかなと思った。他にも名前も知らないが時折見かけていた人に出会うと、ずいぶん老けたなあと思うことは少なくない。概して女性よりも男性の方が老け方が目立つように思う。

 妻が逝ってもう11年になる。十年一昔と言うから、妻がいなくなってからの歳月は、やはりそれだけの跡をいろいろな人達に残しているのだ。近所の人達とは顔を合わせることが多いからそれほど変化したようには見えないのだが、よく見ると皆やはり年をとってきている。近辺でも知っている人が10人近く亡くなっている。大方は老人だ。

 変化は何も中高年にだけに起こっているものではない。時々道で出会った母親に抱かれていた赤ちゃんは、近頃出会ってみると小学生の娘になっていたので、当たり前のことなのにちょっとびっくりした。近所の花屋の幼女は中学生くらいになっていて、かいがいしく店を手伝っているのがかわいい。孫達も皆大きくなった。妻との別れのときに泣きながら棺に花束を置いた小学3年生だった孫娘はもう大学生になった。涙ぐみながら妻を見送った、幼かった孫息子は高校3年になったし、寝込んでしまった孫娘たちは高校生と中学生になっている。変わっていないのは当時のままに心の中にいる妻だけだ。

 我が家の猫のミーシャは家に来たときは20cm足らずの体長だったのに、今では尻尾だけでもそれより長くなっているが、それ以外については猫のことだからあまり変わったとは思えない。それでも時折顔を見て、「おい、老けたなあ」と声をかけることがある。近頃少し動作がゆったりしてきたように思うが、まだまだ元気だ。もう10歳になるから、かなりのオバサンだろう。

 人を見ると「老けたなあ」と思うことがよくあるのだが、そういう私自身もかなり変化していることは間違いない。10年近く前に西安で撮った写真を見て、Hr君と邵利明(明明)が「若い、若い」と言ったが、見るとなるほど若かった。今は道ですれ違う人の中には私を見て、「この人も爺さんになったなあ」と思うこともあるはずだ。卒業生に出会ったりすると「変わっておられませんねえ」などと言われることがあるが、これは有難いお世辞だ。私だけが時の流れの外にいるはずがない。肉体的には衰えるのは自然の理だから、それに逆らうことはせずに心の若さを磨くようにしたい。





ゴルフ

2009-10-11 09:35:29 | 身辺雑記
 18歳のプロゴルファーの石川遼選手が2年連続賞金総額1億円を突破した。たいしたものだと思う。やはり天才なのだろう。彼と同い年で風貌が少し似ている孫に電話で「石川遼のように稼いで親孝行しろよ」と冗談を言ったらハハと笑った。おっとりした性格で、サッカーが好きだが、とても一流選手になる素質はない。18歳にもいろいろある。

 ゴルフはかつては貴族的、ブルジョワ的なものと見られていたこともあったが、今ではすっかり庶民的なものになり、愛好者も多いようだ。庶民的になるにつれ、競技者のマナーも低下してきたとも言われるし、他のスポーツには見られない広大なコースを必要としたり、自分の競技用具をキャディーに運ばせたりするところに違和感を感じたりはするが、魅力的なスポーツであることには間違いない。私にとってはあの小さなボールを長いクラブで打って、はるか彼方のグリーンにあるホール近くまで飛ばしたり、ホールからだいぶ離れた所に落ちたボールでも、ロングパットと言うのか、長い距離を芝生の上をするすると、時にはカーブしながらホールインさせたりすると驚異的に思える。豪快さと繊細さを兼ね備えたスポーツだ。

 私は生来の不器用でゴルフはもちろん、およそスポーツには縁がなく過ごしてきたが、どのスポーツでも観るのは好きだ。特にひいきの選手やチームがなくても競技者が全力を出して競技している姿に惹かれる。もちろんいつもクールに観ているわけでなく、時には人並みに熱くなることはあるが、概してどこか冷めた部分があるようで、ファンというものにはなりきれないところがある。観ていてああ、うまいなあ、すごいなあという気分になると満足する。オリンピックにはあまり興味はない。金がいくつとか、国の威信を背にしてなどというのも好きではない。北京オリンピックで、中国の期待を集めた陸上の障害レースの選手がスタート直前で脚の不調で棄権した時には激しい非難が起こり、インタネットでもひどく叩かれたが、ああいうことは大嫌いだ。南米ではサッカー選手が競技に負けたからと殺された事件もあった。スポーツは戦争の代替物とも言われるが、たかがスポーツと言うと批判を受けるだろうが、しょせんスポーツだ。血道をあげるのも程々がいい。

 石川選手に話を戻すと、彼はデビューした頃は「はにかみ王子」などと言われたが、優勝を重ねるごとにインタビューに対する答え方がしっかりしてきているようだ。落ち着いた口調で驕ることなく、過度に謙遜することなく、先を見据えた話はまだ10代の少年とは思えないほどだ。粗野な態度でタメ口しかきけないあるボクサーに比べると、競技の質の違いはあるのかも知れないが雲泥の差があるように思う。

 


アラカンの犯罪

2009-10-10 09:14:38 | 身辺雑記
 少し前のことになるが、埼玉県上尾市居酒屋で数人が男に包丁で刺され、店の経営者は死亡、4人の客も重軽傷を負った。刺したのは63歳の無職の男で、別の場所で酒を飲んで酔っていて、警察官が駆けつけたときには路上に横たわっていたという。

 容疑者は刺殺した経営者について「憎くてたまらなかった」と言っているらしい。2人の間にはどのような関係があったのか、どのようなトラブルがあったのかは不明だが、憎くてたまらなかったというのは、尋常ではない感情だろう。日ごろから鬱積したものがあり、それが酒を飲んで酔ったことで暴発したのだろうか。63歳と言えば毎月のように集まっているHr君やHg君達やその仲間とほぼ同じ年齢だが、彼らにはこの男のような行動の影もない。皆穏やかで明るい気さくな性格だ。

 それにしても、今時の60代は若いと言うか血の気がまだ残っていると言うか、時には若者顔負けのことをしでかすのはどうしたことか。60代と言えば、昔の童謡ではこのように歌われている。

 村の渡しの 船頭さんは
 今年六十の おじいさん
 年はとっても お船をこぐときは
 元気いっぱい 櫓がしなる
 それ ぎっちら ぎっちら ぎっちらこ

 この童謡は昭和16年、今から70年ほど昔のものだが、当時の60代、今時の言い方ではアラカン(アラウンド還暦)の世代はこのようなイメージ、年を取っていても、いざとなると若い者には負けない老練振りを見せる、そのように見られていたのだ。今は老人も若さが発揮できるような社会環境が整ってきて、60代即おじいさん、おばあさんと言うことはできないが、それでも還暦を過ぎた年齢にふさわしい思慮や分別、弁えがあってしかるべきだ。若さを発揮する場面が間違っているのではないかと思うことが少なくない。

 冒頭に挙げた63歳の男はこれまでどのような人生を送ってきたのか。おそらくこれからの10年くらいは刑務所暮らしになるのだろうが、人生の最後の生き方としてはあまりにも惨めで侘しい。




席を譲られて

2009-10-09 08:55:23 | 身辺雑記
 台風18号の影響で大阪方面に行くJRの電車が一部運行停止した。しばらく待っていると10数分遅れて快速電車が来たので乗り込んだ。出入口あたりは少々混んでいたので中の方に詰め適当な所に立っていると、傍の座席に座っていた会社員風の男性が立ち上がり、「どうぞ」と言って席を譲ってくれた。礼を言って腰を下ろしたが、席を譲られたのは久しぶりのことだった。

  ちとさびし何度も席を譲られて 

 という川柳があった。席を譲られることが何度かあって、自分の老いを知って何となく寂しくなったという心境だろうが、私の場合にはめったにないことで、この10年くらいを振り返ってみても、5回もあっただろうか。混んだ電車に乗っても席を譲ってもらうことなど期待もしない。そのような風潮はほとんどなくなっているのだろうと思ってみたり、それともまだ若く見られているのかも知れないと自惚れてみたりする。それでも、元気そうな高校生や若者がのんきに座っているのを吊革につかまって見下ろしていると、いささか腹に据えかねることもある。

 そんなことだから、久し振りに席を譲ってもらって何か心温まる思いをした。降りる時に「有難うございました」と礼を言って頭を下げると「いいえ」と会釈を返され、これまた心地好かった。

万引き(2)

2009-10-08 09:42:07 | 身辺雑記
 少年の万引きは増えている。警察庁の統計では、今年1~6月に万引で摘発された少年は前年同期比8.2%増の1万3726人で、警視庁が1~7月に都内で摘発した少年は同46.4%増の2565人で、全国でも群を抜く増加ペースとのことだ。

 少年達の万引きで特徴的なことは「ゲーム感覚でやった」というのが多いことで、警視庁が万引で摘発した少年428人を対象に行った意識調査では、26.8%あったようだ。摘発されたことについては、24.5%が「運が悪かった」と答えていて、罪悪感が非常に希薄のようだ。

 そのような風潮に輪をかけるのが最近の親の意識、態度らしい。東京都内の大手書店で店長を務める男性は、本をかばんに詰め込んで店を出ようとした男子中学生を呼び止め、保護者に連絡したら、「なんで捕まえたんですか。万引に気づいたなら、捕まえる前に諭すべきでしょう」と逆襲されたという。その男性は「万引した自分の子供を叱りもせず、『商品を子供が取れるような場所に置いている店の方が悪い』と言ってきた親もいる。万引を犯罪と思っていない節がある」とも言っているようだ。

 新宿区のNPO法人「全国万引犯罪防止機構」には、複数の小売店から、「万引をした高校生を警察に通報したら、後日、高校生の祖父から『孫が精神的にショックを受けた』と抗議された」とか、「トレーディングカード(対戦ゲーム専用のカード)を万引した小学生の親に、『いくらですか? 代金を払えばいいんでしょう』と言われた」などの声が寄せられているとのことで、この機構の事務局長は「こういった親は『万引はちょっとした出来心でやってしまうもの』という程度の認識しかないから、子どもにもきちんと指導ができない。実際には、万引を入り口に、ほかの犯罪に走るケースも多い」と警告している。

 学校では最近とみに出没しているモンスターペアレントがここにもいる。まったく常識では理解できない大人が少なくないのはどうしたことか。わが子可愛さからの言動だろうが、己のそのような考えが、子どもを更に悪くするとは考えないらしい。親になる資格のない者が親になっているという印象だ。もうだいぶ前のことになるが、私が勤務していた高校の女生徒数人が万引きして捕まったことがある。職員会議で報告されたところによると、彼女らは警察官か補導員に「万引きは泥棒だよ」と言われると「泥棒なんて人聞きの悪いことを言わないでください」と食ってかかったようで、皆呆れたものだった。その頃はそのような居直りはさすがに珍しかったが、このようなのが万引きに対する罪の意識が希薄な親になるのだろう。モンスターペアレントに育てられた子どもが社会常識を身につけていくとは考えられない。

 たかが子どもの万引きと言っても被害は大きいようで、書店などで作る業界団体「日本出版インフラセンター」によると、大手書店14社の万引被害額は年間約40億円、総売り上げの1.4%に相当する額なのだそうだ。小売店としてはたまったものではないだろう。以前地方の小さな書店では万引きの被害が多くて廃業したという番組を見たことがある。




 

万引き

2009-10-07 09:05:04 | 身辺雑記
 万引きが多いのだそうだ。老人にも子どもに増えているらしい。

 万引きというものは昔からあり、特に女性などは生理期間中にその衝動が起こるということも聞いたことがある。精神状態が不安定になるのかも知れない。しかし、老人や子どもの万引きは違った様態のようだ。

 老人の万引きには生活苦からと考えられることもあるだろうが、確かにそういう背景はあっても、必ずしもそうでないこともあり、金を持っていてもやってしまうことがあるようだ。家族にとっては世間体もあるし悩ましいことだろうから、それについての相談も少なくないようだ。母親の万引き癖についてのある相談に、次のような回答があるのを見た。

 アルツハイマーとは違うタイプの認知症として「ピック病」が知られるようになってきました。その特徴に、万引を繰り返すなどの行動傷害があるそうです。脳の画像を見れば、該当するかどうか分かるようなので、一度、お医者さまに見せられてはどうですか。
「ピック病」との診断が下れば、犯罪としての訴追は免れるでしょうし、お店の方にもあ
らかじめの対応をお願いできるのでは。定年まじかの公務員の方が、「万引き」でクビになったものの、事後にピック病が判明したため、退職金がおりたとの記事が以前、新聞に載っていました。早期に診断できれば、ケアの仕方も工夫できるそうです。

 だいぶ前のことだが、近所の中年の女性が万引きはもちろん隣近所の物もたびたび盗むので、皆困っていた。それも堂々としていて、私の家でも子どもの自転車カバーがなくなっていたので探すと、その女性の家の自転車にかけてあった。苦情を言って取り返したが、このようなことがかなりあった。あるときはその女性の夫が「またやったのか」と怒鳴っていたのが聞こえていたと言うから病的で常習的なものだったのだろう。ひょっとすると「ピック病」の類だったのかもしれない。

 家族があれば話し合っていろいろケアもできるだろうが、1人暮らしの老人の場合はなかなか難しいかもしれない。いつかテレビであるスーパーのベテランの女税監視員の勤務の様子を見たことがあるが、万引きした者(多くは女性)は捕まっても、別に居直るわけではないのだが、何ともちゃらんぽらんな、のらくらした受け答えで、悪いことをしたと言う自覚も反省の気持ちも伝わってこず、これは大変だなあと思ったことがあった。生活のためにやむを得ずと言うのでなく、やはりこれは病気なのかなと思ったものだ。 (続)


いのち

2009-10-06 09:30:06 | 身辺雑記
 夕方パソコンに向かっていると、すぐそばの開けた窓から小さい蚊が入ってきて腕の周りをうろつく。見ているとやがて腕に止まって脚を動かし姿勢を整える。口吻を刺そうとする瞬間にぱちんと叩く。失敗することもあるが、多くは蚊はあえなく最期を遂げる。その瞬間は蚊にとってはどんなものなのだろうか。どのような世界が見えていたのかは分からないが、突然死を迎え暗黒の中に沈む。果敢ないものだなと思ってちょっと哀れになることがある。年を取ったせいでもあるまいが、近頃は小さな動物の命のことでも考えることが多くなってきた。道を歩いていて虫が歩いていると避けるようにする。雨上がりの道にミミズなどが這っていると人に踏まれないように、靴の先でそっと脇にどけてやったりする。それだけだといかにも生類哀れみの慈悲心があるように思われるかも知れないが、しかし、血を吸われる前に手で払って蚊を助命するほどのことはしない。ましてゴキブリなどになると親の仇に出会ったように殺虫剤を噴霧し、仰向けになって肢をひくひくさせると溜飲を下げる。ゴキブリは蚊と違って血を吸うわけでなく、ただ不潔という先入観があるだけだから我ながら勝手なものだ。

 食事のときでもそうだ。肉を食べる時には、それが牛であれ豚であれ鶏であれ、「これも生きていたのだなあ」と考えることが多くなった。その様子を想像したりすることもある。だからと言って食欲が減退するわけでもないのだが、目の前の肉の一切れがかつては動き回ったり眠ったり餌を食んだりしていたことが不思議にも思われる。人は無数の命に支えられて生きていることを改めて思いもする。しかし至って俗人のことだから思考はそこで終わってしまうのだが、それでも仏教の一部の宗派では肉食を禁じていることは何となく理解できる。生きとし生きるものにはすべてかけがえのない命があるということだ。

 人の命の重さについては言うまでもないことだろう。だから凶悪な殺人事件の時には、死刑が妥当かどうかがよく問題にされる。国家権力で掛けがえのない人命を奪うのは許されないと言う意見があり、欧米では死刑廃止が多数になっているが、加害者についてみるとその通りでも、では被害者の命はどうなのだろう。

 近頃は殺人事件の被害者が1人であると死刑を回避する判決が多い。最近でも何の関係もない女性の部屋に押し入って女性を殺害し、細かく切断してトイレに流して捨てたという残虐な事件があったが、被害者は1人だということで加害者は1、2審とも無期懲役の判決、検察は上告を断念し刑が確定している。長崎市の前市長が市長選挙中に暴力団関係者に射殺されたが、これも被害者は1人であり、政治的動機はないということで、一審の死刑が高裁で覆されて無期懲役になっている。私は何が何でも死刑にするべきなどとは考えていないが、この2件については納得できないものを感じる。そもそも私には、根底にある1人ならとか、それ以上ならという基準がどうにも納得できない。被害者や遺族にとっても到底納得できる「勘定」ではあるまい。被害者の命は唯一の物であり、車のガソリンのように無くなったからと言って補充できるものではない。

 ムシや動物の命のことからちょっと脱線してしまったか。



十六夜の月

2009-10-05 09:22:33 | 身辺雑記
10月4日
 昨夜はあいにく曇り空で中秋の名月は見られなかった。今日は朝から快晴だったので、1日遅れの十六夜(いざよい)の月を眺めた。

 十六夜の月は陰暦16日の月で、今夜は陰暦8月16日に当たる。「いざよい」は「ためらい」の意で、16日の月は15日に比べると50分ほど遅く顔を出すことから名づけられた。もっとも十五夜と言っても、真の満月(月齢15)は今朝の午前3時40分頃だった。今夜8時ごろ見た月は月齢が15.7くらいだから、ちょっと見では満月と変わらない。



 明日、陰暦17日の月は立待月(たちまちづき)。日没後に立って待つことから名づけられている。明後日は座って待っているうちに昇ってくるところから居待月(居待ち月)。その次の夜は寝ながら月の出を待つ寝待月(ねまちづき)。そして、陰暦二十日(10月8日)の月は夜更けに登ってくる月で更待月(ふけまちづき)と言う。この頃になると月もだいぶ欠けてくるし、わざわざ起きていて待つこともないだろう。それにしても昔の人は、満月だけでなく、その後もいろいろと月を愛で、楽しんだようだ。やはり中秋名月の余韻を懐かしんだのだろう。満月はもちろん月を楽しむのは、小庭に面した縁側のある座敷だったのだろうと想像するのだが、私にも幼い頃にそのような経験がある。あの頃の満月は本当に明るかった。

 中国では陰暦8月15日は中秋節で、新しく国の休日になった。この日の前から人々は月餅を贈り合う。地方によっていろいろな月餅があるようで、日本でよく売られているものは広東風だと言う。薄い皮の中に甘い餡が入っていて、広東風の餡は非常に種類が多いようだ。中には中心部に小さな茹でた卵黄が入っているものもあり、切ると満月のように見えるのが風情があって面白い。昨年、西安の謝俊麗が送ってくれた月餅は皮がパイ風のものであったり、餡も小豆餡以外にさまざまな種類があったが、どれもおいしかった。