蛙と蝸牛

本の感想。ときどき競艇の話。

金の角持つ子どもたち

2023年03月10日 | 本の感想

金の角持つ子どもたち(藤岡陽子 集英社文庫)

小6の戸田俊介は打ち込んできたサッカーに限界を感じて、突如、最難関の国立大付属中学を受験したいと言い出す。サッカーを応援してきた父:高一は猛反対。母:菜月は浩一を説得し塾代は自分が働くことで補うことにして俊介を有名な塾に通わせることにする・・・という話。

特段、凝った設定やストーリーがあるわけではない。小6から始めて筑駒レベルまで成績が伸びるというのも現実離れしていて実用性?はない。
そんな王道の?受験物語なのだけど、ケレン味がなくて、日常生活でそんなこと聞いたりしたら赤面してしまいそうな生真面目なセリフにも、妙に素直に感動できてしまう。
あまりディテールを書き込まず、スイスイと進むのもとても心地よかった。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

リープフロッグ

2023年03月10日 | 本の感想

リープフロッグ(野口悠紀雄 文春新書)

「後から来た者が、蛙の跳ぶがごとく先行者を追い越してしまう。それがリープフロッグだ」とカバーの紹介にある。


例えば中国でスマホや電子マネーが急速に普及したのは、固定電話網や金融システムが発達していなかったのが要因の一つとする。


他の例として
コールセンターやバック・ミドルオフィス業務のアウトソーシングで発展したアイルランドがあげられている。


一方、リープフロッグされた例としては
紙・羅針盤(造船・航海術)・火薬などの発明・利用で先行していた明時代までの中国、
産業革命後、電気技術の導入が遅れてリープフロッグされたイギリス、
などが挙げられている。

リープフロッグの原因は、こうした工学的技術のみではなく、技術を活用するためのビジネスモデルの創出が必要だ、という主張が面白い。
大航海時代を現出させた(非工学技術的)要因は保険や株式会社というビジネスモデルの発明だという説は、なるほど、と感心させられた。

大航海時代や産業革命の頃と比べて、現代では国や国民の意味合いが薄くなってきている。国同士の経済力(例えばGDP)を比較して一喜一憂するのはナンセンスかもしれない。著者は、まとめとしてリープフロッグを国の間のみで起こるものではなくて個人間でも同じ現象があるとして、次のように述べている。(以下引用)

「しかし、日本社会は、基本的な構造においては逆転が可能な社会です。初等教育はすべての国民に与えられていますし、職業の世襲制もそれほど一般的ではありません。実際、高度成長期の日本では故人や企業の逆転現象が頻繁に起こりました。(中略)ところが、こうした活力が、いまの日本では失われていると感じます。では、日本では、高度成長期に比べて社会的制約が増したのでしょうか?そうではなく、人々が獲得した豊かさに満足してしまって、逆転をしようという意欲を喪失してしまったのではないでしょうか?つまり可能性がなくなったのではなく、小市民的な生活に安住してしまった人が増えたことが問題なのではないでしょうか?そうだとすれば、考え方を変えれば、今の日本でもかつての日本のように逆転勝ちをすることが充分可能なはずです」

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

室町は今日もハードボイルド

2023年03月09日 | 本の感想

室町は今日もハードボイルド(清水克行 新潮社)


週刊文春の著者による(室町ものの)連載エッセイが面白くて、本書を読んでみた。たまたま私の子どもが大学で著者の講義を聴いていたのだが、授業もとても楽しい内容だったそうだ。

歴史エッセイというと、だれもが知っている、大河ドラマの主人公になりそうな人物のエピソードやこぼれ話を題材にしたものがほとんどだが、本書には、そういう有名人はほとんど登場しない。でありながら楽しく読ませてくれるのがすごいと思う。

1〜4部で構成されている。


1部は自力救済の話。

無敵の桶屋イヲケノ尉の無双ぶりや150年に渡って琵琶湖の北側で争い続けた2つのムラの話が面白かった。

2部は多様性の話。

中性においては世の中のムードを変えるため頻繁に改元が行われ、中には自分たちの地域だけで”私的な”改元をすることすらあったという話、
普段は厳禁だった人身売買も飢饉にあっては(口減らしのため)公認されていたという話、
室町期の日本からの外交使節に関する朝鮮側の記録を見ると使節の人名の大半が実在しない人物のもので、これは使節の殆どが(返礼品狙いの)ニセモノだったせい、という話、などが面白かった。

3部は恋愛の話。
亭主に浮気された妻が浮気相手の女性を襲撃するのは公認されていて”うわなり打ち”と呼ばれていたという話(これは鎌倉殿で有名になったが、本書でも政子が亀の前を襲う話が紹介されている)、
寺院などに残されたエロ落書きのほとんどが男色関係のものなのは、当時、同性間の恋愛が純愛だと信じられていたからと思われる、という話、
などが面白かった。

4部は信仰の話。

湯起請など一見神仏への信仰の強さを表しているような事象が、信仰に疑いが生じてきたからこそ生じていたのでは?という説を、著者とその息子のサンタ話で例えた話が面白かった。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

辻政信の真実

2023年03月04日 | 本の感想

辻政信の真実(前田啓介 小学館新書)


陸軍参謀として有名な戦闘(ノモンハン、シンガポール、ガダルカナル、ビルマ)の作戦指導をし、戦後はベストセラー作家、国会議員となり、議員として訪れたラオスで失踪した辻政信の評伝。

どこで読んだのか失念してしまったが、戦後辻が国会議員としてシベリアの抑留者を慰問した際、抑留者達のために献身的な働きをした、という挿話を知って、辻のイメージが大分変わった。それまでは本書の冒頭で紹介されてる半藤一利の言った「絶対悪」というものしかなかったからだ。本書は、世間の多くが抱いている、そうした辻の印象とはかなり離れたエピソードを多数紹介している。

辻が陸軍内で大きな発言力を持った原因としてよく言われるのがその命知らずなまでの勇敢さ。
本書でも詳しく描写されるが、参謀なのに最前線で作戦指導や督戦を行うのが常で、例えば、ノモンハンでは大敗後、友軍の戦死体を自ら先頭にたって回収する作戦を実施したという。
天保銭(陸大出)、気力・体力とも抜群、宴会嫌いで潔癖、そこに最前線に赴くことを厭わないと来ると、格上の将軍であっても一目置かざるを得ないというのは理解しやすい。

本書によると、陸大の教官に左遷されていた時期も、多数の生徒の回答を細かくチェックするなど極めて熱心な勤務ぶりだったという。上からは煙たがられても、どんな時も部下からは慕われたそうだ。

そんな辻も初陣の上海事変においては、相当にビビっていたらしいし、後年においても
「私の過去を見て、辻は生命知らずだ、勇敢だ、とほめる人がたまにはあるが、それは皮相の見方だ。死なぬと思っていても弾丸がくると恐いものだ。恐いから私は戦場では冷静によく勉強する。一つの石にも、一本の木にも、弾丸が来たらそれをどのように利用するかに十二分に気を配りながら行動する。その研究と対策があって始めて、大胆そうに弾丸の中を潜れるものだ」と語っていたそうである。この点が本書を読んで最も感銘できたところだった。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

友だち幻想

2023年03月04日 | 本の感想

友だち幻想(菅野仁 ちくまプリマー新書)


昔のムラ社会では、縁者や近隣の人と助け合っていかないと生存すら困難だったので、人間関係に難しさは生じなかった。一人でも難なく生きていける現代社会だからこそ、人間関係(つながり)に悩みが生じる。


一方、一人でも生きていける時代になってからあまり長くないので、ムラ社会の人間関係の作法が残っている。それは同調(同質性)を強いるもので(人間関係の必然性が薄れた現代においては)息苦しさの原因である。現代においては、人と人の距離感を意識し気の合わない人とも一緒にいられる(やりすごすことができる)ような並存性を重視すべきである。

 


別の言い方をすると、前者の共同体的人間関係は「フィーリング共有関係」であり、後者は最低限守らなければならないルールを基本に成立する「ルール関係」である。
「いじめは良くない、みんな仲良く」は前者であり、「いじめると逆にいじめられるかもしれない。自分の身を守るためにには他者の身の安全を図らないといけない」という考え方をするのが後者である。
性格が合わない、気にくわないと思ったら、自分を守るために、態度を保留して距離をおくべき。これが並存性。

以上が私なりの本書の要約で、人間関係(つながり)というものの原型みたいなものがうまく解説されていたと思う。

補論として、あるべき教師像が主張されていていて、こちらも本論以上に興味深かった。
「先生は生徒の記憶に残らなくてもいい」というのがそれ。
金八先生のようなのは過干渉であって、教師の本懐は「自分の教室が一つの社会として最低限のルール性を保持できているようにすること」とする。
「例えばいじめで自殺する子がいる学校というのは、どういう状況になっているのか。子どもが、生命の安全が保証されないようなところに毎日通わなければならないということです。」
「その意味で生命の危険にさらされてしまうような、もはや「いじめ」といった言葉では言い表せないような心的・肉体的暴力や傷害事件が、学校やクラスの現場で起きることは断固阻止しなければなりません。そうした最低限の共存の場としてのルール性を担保することが教師の務めであり、そこからプラスアルファの尊敬や敬愛を生徒から受けることができれば、それはもう儲けものなのです」

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする