落合順平 作品集

現代小説の部屋。

「舞台裏の仲間たち」(70) 第三幕・第二章「中村屋パンへの道」

2012-11-02 09:55:46 | 現代小説
アイラブ桐生Ⅲ・「舞台裏の仲間たち」(70)
第三幕・第二章「中村屋パンへの道」





 「おっ、雄二の本読みか。
 どうしたんだ、稽古が始まったわけでもないのに、
 随分と力が籠っているな。
 そういえば、雄二の芝居を見るのは初めてだ、
 いきなり読むわりには、無理をして感情移入をしているみたいだが・・・・」



 西口と小山くんの二人の背後へ、時絵とちずるを連れた座長が現れました。
時絵は抱えてきた飲み物を、レイコたちが準備しているテーブルの方へ運んでいます。
座長の肩越しには、茜をのぞき見る熱い視線のちずるの顔がありました。
 


 「舞台美術の雰囲気を確認したくて、試験的に二人へ台本の本読みを頼みました。
 いつのまにか、二人とも夢中になっているようですが・・・・
 でも、雄二もそれなりに良い味をだしています。
 座長、雄二と茜のフレッシュコンビでも、良い舞台が作れそうです」



 「ああ、石川君がやきもちを焼かなければ、使えそうな雰囲気だね」



 座長もまんざらではなさそうに、本読み中の二人を見つめています。
ちずるが座長の肩に片手を置いたまま、空いた手で傍らに居る順平の袖を引っ張りました。



 「時絵には、18番(おはこ)の夕鶴があるでしょう。
 茜には、この黒光が代表作になりそうだわ。
 ねぇ、私にも何か書いてよ、順平君。
 2人に負けないほどの代表作を」



 「そうですぇ・・・・純愛ものでも書きますか。
 病気の男性を、心から看病をして支えると言う話なら、すぐにでも書けますが。
 あらためて書くまでもなく既にちずるさんは、その主役を演じています。
 ではその先の、愛し合う夫婦の未来でも書きますか?」



 「そこには、もうひとり競演女優が登場するのよ。
 時絵と言う悪い女が登場をして、この悪女とちずるが座長への悪戯を共謀するの。
 気の弱い病気の男を、どこまでも、目いっぱい脅迫し続けるのよ。
 いいかげんでお前の、本心を白状しろって・・・・」



 時絵が戻ってきて、順平の耳元で小声でそうささやきます。
順平が、一番気になっている質問を時絵に問いかけました。



 
 「それで、本音を吐いたんですか、その病気で気の弱い男は」



 「それが言ったのよ、年甲斐もなく。
 15、6歳の今頃の餓鬼だって、あんなに元気に『愛しています』なんて言わないわ。
 傍で聞いているこっちのほうが照れちゃった。
 あまりにも唐突なうえに、うっすらと涙まで浮かべているんだもの、
 気迫に押されて、ちずるまで思わず『私も!』なんて口走るんだもの・・・・
 私は一体どうすればいいのさ、この上なしに参っちゃった。
 それにさぁ・・・・良くよく考えたら、ずいぶんと自分勝手な話だわ。
 座長も、一度は私にプロポーズをしたくせに、
 ちずるの顔をみたとたん、ころっと態度を変えるんだもの、
 男なんか、まったく信用が出来ないわ」




 「なるほど・・・・予想通りの展開で落ち着きましたか。
 そうなると座長もちずるさんも、再びの新婚と言うことになるわけですね・・・・
 じゃあ、看病と新婚で忙しいから、とうぶん新作の脚本なんか、
 とても必要はないですね」



 「おいっ、其処の外野ども、はなはだしく雑音がうるさい」



 「しぃ~座長。
 これからいいところですから、少し静かにしてください。
 お~い、雄二、気にすることはないから、そのまま本読みを続けてくれ。
 今のはただの、色ボケした病人の戯言だ。
 雑音は気にしないで、次のページへ進んでくれ・・・・」




 亀戸風景の油絵と出会って以来、画家への思いを絶ちがたくなった碌山は、
やがて相馬良の紹介で、彼女の母校・明治女学院の校長である岩本善治を頼って
ついに、夢にまで見た上京をはたします。
体調を崩して仙台の実家に戻っていた黒光も、迎えに来た相馬愛蔵とともに
一度は安曇野に戻ります。
しかしこちらも行く末を思案した挙句、明治34年の9月に
夫婦ともども再びの上京を決意します。



 碌山は、同じこの年に念願であったアメリカへの遊学に旅立ちます。
翌年の明治35年にはニューヨークの美術学校へ入学を果たしました。
さらにその翌年にはパリへも渡り、ヨーロッパの数多くの芸術品に接します。
自らの才能を磨くなかで、ロダンを知り大きな影響を受ける中で、
自らの進む方向を彫刻に求めるようになりました。
碌山の海外での芸術修業は、こうした経過を辿りながら
7年間にわたって続きます。




 東京本郷に住まいを定めた相馬夫妻は、
二人で商売を始める事を決め、最初に思いついたのが西洋のコーヒー店でした。
しかしすでに、同じようなお店が本郷に出来てしまったため、
このアイデアは立ち消えになってしまいます。
次に考えたのが、このころに、ようやく広まりをみせてきたパン屋でした。
新聞に「パン店譲り受けたし」という三行広告を出して、この当時のお金で
700円で購入したお店が、現在の本郷東大正門前の「中村屋」です。



 当時の様子を語るこんなエピソードが残っています。




 「通信社から早速記者が見えて我々の談話を徴し、
書生のパン屋と題して大いに社会に紹介された。
この記事が出ると、今まで知らずにいた人も
『ははあ、中村屋はそういうパン屋か』とにわかに注意する。
大学や一高の学生さんで、わざわざのぞきにやって来るという物好きな方もあって、
妻もまだ年は若かったし、さすがに顔を赤くしていたことがあった。
そんな関係からだんだん学生さんに馴染が出来て、
一高の茶話会の菓子は、たいてい中村屋へ註文があり、
私の方でも学生さんには特別勉強をすることにしていた。」



 これだけを読んでも、二人の始めた中村屋は
当時かなりの人気を呼んだパン屋さんだったことがわかります。




 さらに明治37年になると、日本で初めてのクリームパンを販売します。
アンパン、ジャムパン、クリームパン、は日本の3大菓子パンと呼ばれていますが
そのひとつクリームパンは、相馬夫妻の創意によって作りだされました。
当初の形は、柏餅型をしていたそうです。
これにもまた、こんな逸話が残されています。



 「私はかねて中村屋を支持して下さるお得意に対し、
これはと喜んでもらえるような新製品を何がな作り出したいものと心がけていたが、
ある日初めてシュークリームを食べて美味しいのに驚いた。
そしてこのクリームを、餡パンの餡の代りに用いたら、栄養価はもちろん、
一種新鮮な風味を加えて、餡パソよりは一段上がったものになるなと考えたのである。
早速拵えて店に出すと案の定非常な好評であった。
それからワップルに応用し、ジャムの代りにクリームを入れて見たのである。」



 とあります。
現在ではどこのパン屋さんでも売っていますが、当時としては
非常に画期的なものといえる商品でした。




・本館の「新田さらだ館」は、こちらです http://saradakann.xsrv.jp/