落合順平 作品集

現代小説の部屋。

「舞台裏の仲間たち」(72) 第三幕・第二章「悲しみのデスペア」

2012-11-04 05:18:05 | 現代小説
アイラブ桐生Ⅲ・「舞台裏の仲間たち」(72)
第三幕・第二章「悲しみのデスペア」





 荻原碌山の制作した《文覚》《デスペア》《女》は、恋の三部作と言われています。
心でしか結ばれない相馬黒光(こっこう)への、恋幕の苦悩のなかで
《デスペア》は誕生しました。



 デスペア(絶望)という裸婦像は、身体を折り曲げて突っ伏す様に岩を抱いています。
顔や身体の前面ではなく背面像という独特の作品です。
長い髪を岩に投げ出し、二つに折り曲げられた姿態には「絶望」という強い
感情が、やはり強い緊張を伴って流れだしています。



 この当時、黒光は夫・相馬愛蔵の浮気と
長男・譲二の病気に、心身ともに苦悩をしつづけていました。
「その様子に胸を痛めていた碌山が、
彼女自身の苦悩と絶望を、自分の黒光への思いの絶望と重ね合わせて、
自身も、のたうつ様に苦しみながらこの作品を創り出した・・・・」
と、後に親友である高村光太郎が語っています。



 文覚という作品には、凄みがあります。
ある男が人妻に恋をしたあげく、一緒に駆け落ちをしてくれと迫ります。
女からは、それならば夫を殺してくれと頼まれて、夜半に首を掻き切ります。
ところがそれは、愛する女であったという逸話が作品の土台です
文覚上人という、歴史上でも名高い僧侶の実話を主人公に描いた作品です。



 筋骨隆々の体躯は、怒り肩で、屈強な腕組みをしています。
かっと眼を上空に向かって見開き、口は真一文字に堅く引き結んでいます。
内にある苦悩をねじ伏せようとする鋼鉄の様な意志力が、
凄みを持って筋肉や表情に溢れだしています。
見る者を圧倒するといわれている作品です。



 この作品も、報われぬ恋の苦悩を
文覚に重ね合わせようとして作られた、と言われています。
文覚、デスペア、女は「女3部作」とされ、いずれも黒光への強い思いと
苦悩を芸術に昇華させたものといわれています。




・・・・・・



 6畳にも満たない、隙間風が入ってくる粗末な掘立小屋、
碌山のアトリエで「絶望(デスペア)」を製作中の碌山の長い独白が始まります。



碌山 「良さんの中に有る、絶望を表現しょうと思った。
   絶望にのたうちまわる姿を描きあげたいと強く思った。
   夫に裏切られ、我が子は病気で生死の境をさまよっている。
   信じるものが音をたてて崩壊を遂げる時に、そこには絶望が生まれる。
   しかし、その絶望は良さんにでは無く、実は自分自身の内面であることに
   ある日、突然に気がついた。
   その事実に、ただただ、私は愕然とした・・・・
   絶望する女を描き上げようと言う
   私の目論見(もくろみ)も、ものの見事に崩壊をしてしまった!

   
    こうして粘土をいじっていても、、絶望しているのは良さんなのか、
   私自身なのか、まったく区別がつかないものになってきた。
   良さんのなかに、絶望した女の『もがき』を見出したのは、
   私の単なる思いすごしかもしれない。
   思いもかけずに、夫に裏切られてしまったが、
   その浮気の相手というのがあの狐(きつね)づらをした
   安曇野の女だったことも良さんとしたら、とても、我慢のならない出来事だ。


   
    今日は初めて女性のモデルが来た。


    立たせると、それは見事な身体の線をなしていたが、
   横に寝かせるとなぜか、ロダン先生のデナイ(ダナイード)に似てしまう。
   しかし女の絶望を表そうとして、頭を下にしたポーズをさせたが
   これも長い時間は無理だった。
   モデルが頭を下のするのを苦しがり、ものの20分も持たない有様だ。
   しかし、それ以上にこの作品には、内面が足りないままだ・・・・
   込めるべき魂が見当たらない。
   この作品に込めたいのは、女の悲しみ以外のなにものでもない。
   その悲しみとはどんなものだろう。


    だが、私の愛する良さんが懐妊をするとは、どういう意味だ。
   夫婦である以上、ありうる話とはいえ、
   これではまるで、裏切った夫を女が受け入れていることになる。
   毛嫌いをしていたのではないのか。
   許せないと、あれほどまでに苦しんでいたのではないのか・・・・
   その気持ちさえも、まっこうから踏みにじる、有無をいわせぬ不条理だ。
   これこそ、生きる地獄と思えるが、女とはそういうものか、
   あの、気高く生きる良さんであってもそうなるものなのか・・・・
   解らない、理解が出来ない。
   だが生きることは常に、不条理と、そうした矛盾の繰り返しだ。
   まさか良さんが、懐妊するとは考えてもみなかったことだ。
   夫の浮気を憎み忌み嫌っているはずの良さんが、懐妊をした。
   それが夫婦のきずなと言うものなのか、
   それが生きると言うことなのか。
   私には、まったく訳がわからない。


   
    形の見えないものに、説得力をどう持たせようと言うのだ・・・・
   絶望した女は、どのように苦悶をして、どのようにのた打ち回るのだろうか。
   見えないものが、この粘土の形をさらにあいまいにする、
   私の頭の中を、またあやふやにしてしまう。
   完成するのか、この作品は。
   絶望を表現しようとしているこの作品は、
   女の苦悩の形は果たして、陽の目をみるか・・・・
   まだ見えない・・・・



    良さんの、本心は何処にも見えない。
   私の、心の落ち着く先はどこにある、それも見えない。
   一線を越えられない相手を愛してしまった、私が悪い、
   良さんを愛してしまった、見境のない私が悪い。
   だがもうそれは、自分ではどうにもならないことだ・・・・
   また苦しみばかりがやってきたが、今度もまたそれを乗り越えなければならない。
   いくつ乗り越えたところで、望む未来などはやってはこない。
   これが絶望か、
   これが絶望と言うものなのか・・・・
   見えないものを無理にでも、また見ようとしている。
   さて・・・・今度もまた、
   無限の彷徨(さまよい)地獄に迷い込んでしまったようだ。
   はてさて、私はやっぱり頭が悪い、
   頭が悪過ぎて、この作品もまた先が見えなくなってしまった。
   見つからない。
   どうにもこうにも、また、出口が見つからぬ」





・・・・・・




 この頃の碌山は、皮膚病でも悩んでいました。
町医者の診察を受けていたことが、悪化させる結果を招きました。
一時は全身を包帯でぐるぐる巻きにし、目と口の部分だけを開けているほどです。




 体調が優れなかったこの時期の碌山に対して、
一時的に病に倒れていた相馬黒光のほうは、ようやく健康を取り戻していました。
そんな時期に碌山は、黒光への長年の恋慕が全くもって希望のないことを
衝撃的に思い知らされてしまいます。
良が懐妊したのです。



 夫愛蔵の浮気という行為を憎み、許しているはずがない黒光が、
現実には、妊娠をしてしまいました。
夫婦の絆(きずな)とはそういうものなのでしょうか・・・・
自分がいくら恋い焦がれ、あがいてみたところでどうにもならない事実です。
碌山は心底悲しく、独り涙にくれます、深い絶望感が碌山を襲います。





 そんなある日、中村屋に行くと、
良の二女の千香が、足首を押さえて頭を垂れ、かがみ込む姿を見つけます。
千香はしかられるとよくそんなポーズを取ってしやがみこんでいました。
彫刻家としての碌山の本能が動きます。



この絶望を作品に表そう・・・・





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