アイラブ桐生Ⅲ・「舞台裏の仲間たち」(73)
第三幕・第二章「貧しいアトリエ」
台上の粘土にかぶせておいたものを、
一枚一枚、丁寧にはぎとっていくと、完成をしかけている「女」が、
その全裸をさらしてきました・・・・
明治43(1910)の年が明けました。
日本の現代彫刻の礎を築いた、荻原碌山(守衛)の最後の4カ月です。
すでに「女」の制作に着手をしていて、午前中はアトリエでひたすら彫刻に励んでいました。
しかし寒さが厳しいこの時期は、その制作はひときわ骨身にこたえます。
親友でもある戸張孤雁(こがん)が、その様子を伝えています。
「寒そうな風をして居るから、どうしたのだと聞いたら
『「女」に剥(は)がれちゃったのサ』。
見ると、着て居る物をすっかり脱いでしまって、「女」に着せてあるです」
碌山はチョッキ、ズボン、夜具、さらには米俵まで製作中の
「女」に掛けて、粘土の凍結を防いでいました。
それほどまでに「女」は、碌山にとっては、大切な作品そのものといえました。
命がけ・・・・まさに「女」は、命がけの制作そのものです。
この制作には、モデルを雇っていました。
名前は、岡田みどりと言い、明治の末から大正期にかけて
洋画界と日本画界ともに、たいへんな人気を博した素人モデルです。
身長は、五尺三寸(約160cm強)と記録されています。
明治末の当時としては、すらりとしていて大変グラマラスな肢体の持ち主でした。
この当時から、美術学校へ頻繁に出入りしていた人気モデルです。
しかし、彼女は本職のモデルではなく、あくまでも“アルバイト”として
モデルをつとめていました。
新宿駅の近くに家があって暮らしていたために、
付近に住んでいた碌山から、新年早々にモデルを頼まれています。
当時は、ヌードも辞さず絵のモデルになってくれる女性などは、それほど多くもありません。
しかも、岡田みどりは一級と称される売れっ子のモデルです。
その美貌と美しい身体の持ち主ゆえに、多くのロマンスの噂も残っています。
美術学校の講師と親しくなりすぎたために、学校への出入りが禁止されるなど
その逸話ぶりにも、際限のないものがたくさんありました。
日本画家の竹内栖鳳のモデルもつとめています。
のびのびとした肢体で自由に天界を舞う天女像は、岡田みどりというモデルの
イメージそのものだったようです。
そのとき竹内が、みどりをモデルにデッサンしたとみられる、
素描の『天女』像が、今でも貴重な作品として大切に保存されています。
1913年(大正2年)には竹内の代表作となる『絵になる最初』のモデルをつとめ、
この作品は、同年の第7回文展に出品されて、たいへん多くの注目を集めました。
「随分と苦しいポーズだわね。
とってもながくはつゞかないのよ。
最後(おしまい)には破壊(こわす)と、お仰(しゃ)ったんだけど、
高浦さん(高村光太郎)がいらしてお止めになったの。
私は裸体になんかなったことがなかったんだけれど・・・・」
岡田みどり、本人の後述です。
制作途中で壊そうとした碌山を、親友の高村光太郎が踏みとどまらせます。
限りある命を燃やしながら、すべてを注ぎ込んで製作をしている「女」も、
碌山にしてみれば、思うに任せない製作ぶりが続いていました。
思うにならないまま、愛する黒光への思慕ばかりが続いている自分の足跡を
苦々しく振り返るような想いも、作品に籠っていたのかもしれません。
3月の半ばになって、もうこれ以上はできないという地点に至りました。
碌山は最初に黒光に見てもらいたいと思い、アトリエへと招きます。
黒光の母子は連れ立ってやって来ました。
彫刻台の上に乗った女性の裸体の粘土像が、目に飛び込んできた瞬間、
子どもたちは一斉に、「カーさんだ!」と叫びます。
黒光は胸がいっぱいになり、言葉もなく伏し目がちにじっとただただ立ち尽くします。
「もがくようなその表情」は「女性の悩みを象徴して」いると、
碌山からのメッセージを、黒光は胸を熱くして明確に受け取ります。
しかし、実際の「女」はそうは見えません。
左足をややずらしてひざまずき、
両手は後ろに結んでわずかに胸を張っています。
上向いた顔のその唇は、わずかに開かれていますが、目は閉じられたままです。
どこかに悲しみを秘めつつ、陶酔感すら漂わせた顔がそこにあります。
まさに、苦悩を突き抜けて歓喜に至る表情が、そこには濃厚に漂っています・・・・・
「おいっ」
稽古場の中央で、本読みに没頭をしている茜を見つめていた西口が
突然、大きな声で小山を呼びました。
台本から目を離した茜が、かすかに月の光が差し込んでくる天窓を見つめながら
長い黒光のセリフを読み続けています。
「何かに似ていないか、小山」
「半身に構えて、身をよじって天を見上げる・・・・
そうか、『女』のポーズだな。
茜がそのまま、自然のままに黒光の『女』のポーズをとりはじめたということか」
「それだけじゃないぞ・・・・
俺には、もうひとつの順平君からの挑戦状が見えてきた。
宮廷画家のゴヤは知っているだろう。
その作品の中に、まったく同じポーズをとった、まったく同じ構図の作品が有る」
「着衣のマハと、裸のマハだろう。
其れならだれでも知っている、きわめて有名な作品だ。
しかし、それとこれとはどういう関係が有る。
待てよ・・・・
裸の『女』と対比させて、着衣の茜に
そのまま黒光の『女』のポーズを取らせようと言う意図か・・・・
う~ん、巧妙だ」
「それだけじゃないぜ。
この悪戯好きの脚本家は、
茜にまで、途方もない挑戦状を叩きつけている。
時絵が得意としている夕鶴でも、長い独白が随所で登場をしてくるが、
この黒光の最後の場面などは、それをさらに上回る、長い黒光の独白がやってくる。
やれるものなら、やってみろ・・・・
俺にはそんな悪意さえ感じるほど、きわめて長い独白だ。
ほんとうに、この作者は油断がならない」
「そうとも限らないわよ、西口君。
長い独白は、役者冥利に尽きるものなのよ。
スポットライトを独占する、自分一人の晴れ舞台だもの、もう陶酔の世界になるの。
たしかにプレッシャーはあるけれど、
達成した時の感激は、もうはっきり言ってエクスタシィ―の世界だわ。
女優冥利に尽きるわよ、茜ちゃんもきっと」
独白の名女優、時絵が目を輝かせています・・・・
黒光の台本読みは、まさにクライマックスを迎えようとしていました。
碌山の作品はどれも、
内に苦悩をにじませながら力強く美しいものばかりです。
そして特に強く感銘を受けるのは、にじみ出てくるそのあたたかさです。
それは碌山が人を信じ、人を愛し、いとおしんで生きてきたからだと思います。
残念なことに「女」は碌山の絶作となってしまいますが、
そこには、かれが追い求めてきた永遠のテーマ―、『生命への尊厳』が、
百年の歳月を経て今なお生き続けています。
この類まれなる生命観こそが、見る者の胸を打つのだと思います。
・本館の「新田さらだ館」は、こちらです http://saradakann.xsrv.jp/
第三幕・第二章「貧しいアトリエ」
台上の粘土にかぶせておいたものを、
一枚一枚、丁寧にはぎとっていくと、完成をしかけている「女」が、
その全裸をさらしてきました・・・・
明治43(1910)の年が明けました。
日本の現代彫刻の礎を築いた、荻原碌山(守衛)の最後の4カ月です。
すでに「女」の制作に着手をしていて、午前中はアトリエでひたすら彫刻に励んでいました。
しかし寒さが厳しいこの時期は、その制作はひときわ骨身にこたえます。
親友でもある戸張孤雁(こがん)が、その様子を伝えています。
「寒そうな風をして居るから、どうしたのだと聞いたら
『「女」に剥(は)がれちゃったのサ』。
見ると、着て居る物をすっかり脱いでしまって、「女」に着せてあるです」
碌山はチョッキ、ズボン、夜具、さらには米俵まで製作中の
「女」に掛けて、粘土の凍結を防いでいました。
それほどまでに「女」は、碌山にとっては、大切な作品そのものといえました。
命がけ・・・・まさに「女」は、命がけの制作そのものです。
この制作には、モデルを雇っていました。
名前は、岡田みどりと言い、明治の末から大正期にかけて
洋画界と日本画界ともに、たいへんな人気を博した素人モデルです。
身長は、五尺三寸(約160cm強)と記録されています。
明治末の当時としては、すらりとしていて大変グラマラスな肢体の持ち主でした。
この当時から、美術学校へ頻繁に出入りしていた人気モデルです。
しかし、彼女は本職のモデルではなく、あくまでも“アルバイト”として
モデルをつとめていました。
新宿駅の近くに家があって暮らしていたために、
付近に住んでいた碌山から、新年早々にモデルを頼まれています。
当時は、ヌードも辞さず絵のモデルになってくれる女性などは、それほど多くもありません。
しかも、岡田みどりは一級と称される売れっ子のモデルです。
その美貌と美しい身体の持ち主ゆえに、多くのロマンスの噂も残っています。
美術学校の講師と親しくなりすぎたために、学校への出入りが禁止されるなど
その逸話ぶりにも、際限のないものがたくさんありました。
日本画家の竹内栖鳳のモデルもつとめています。
のびのびとした肢体で自由に天界を舞う天女像は、岡田みどりというモデルの
イメージそのものだったようです。
そのとき竹内が、みどりをモデルにデッサンしたとみられる、
素描の『天女』像が、今でも貴重な作品として大切に保存されています。
1913年(大正2年)には竹内の代表作となる『絵になる最初』のモデルをつとめ、
この作品は、同年の第7回文展に出品されて、たいへん多くの注目を集めました。
「随分と苦しいポーズだわね。
とってもながくはつゞかないのよ。
最後(おしまい)には破壊(こわす)と、お仰(しゃ)ったんだけど、
高浦さん(高村光太郎)がいらしてお止めになったの。
私は裸体になんかなったことがなかったんだけれど・・・・」
岡田みどり、本人の後述です。
制作途中で壊そうとした碌山を、親友の高村光太郎が踏みとどまらせます。
限りある命を燃やしながら、すべてを注ぎ込んで製作をしている「女」も、
碌山にしてみれば、思うに任せない製作ぶりが続いていました。
思うにならないまま、愛する黒光への思慕ばかりが続いている自分の足跡を
苦々しく振り返るような想いも、作品に籠っていたのかもしれません。
3月の半ばになって、もうこれ以上はできないという地点に至りました。
碌山は最初に黒光に見てもらいたいと思い、アトリエへと招きます。
黒光の母子は連れ立ってやって来ました。
彫刻台の上に乗った女性の裸体の粘土像が、目に飛び込んできた瞬間、
子どもたちは一斉に、「カーさんだ!」と叫びます。
黒光は胸がいっぱいになり、言葉もなく伏し目がちにじっとただただ立ち尽くします。
「もがくようなその表情」は「女性の悩みを象徴して」いると、
碌山からのメッセージを、黒光は胸を熱くして明確に受け取ります。
しかし、実際の「女」はそうは見えません。
左足をややずらしてひざまずき、
両手は後ろに結んでわずかに胸を張っています。
上向いた顔のその唇は、わずかに開かれていますが、目は閉じられたままです。
どこかに悲しみを秘めつつ、陶酔感すら漂わせた顔がそこにあります。
まさに、苦悩を突き抜けて歓喜に至る表情が、そこには濃厚に漂っています・・・・・
「おいっ」
稽古場の中央で、本読みに没頭をしている茜を見つめていた西口が
突然、大きな声で小山を呼びました。
台本から目を離した茜が、かすかに月の光が差し込んでくる天窓を見つめながら
長い黒光のセリフを読み続けています。
「何かに似ていないか、小山」
「半身に構えて、身をよじって天を見上げる・・・・
そうか、『女』のポーズだな。
茜がそのまま、自然のままに黒光の『女』のポーズをとりはじめたということか」
「それだけじゃないぞ・・・・
俺には、もうひとつの順平君からの挑戦状が見えてきた。
宮廷画家のゴヤは知っているだろう。
その作品の中に、まったく同じポーズをとった、まったく同じ構図の作品が有る」
「着衣のマハと、裸のマハだろう。
其れならだれでも知っている、きわめて有名な作品だ。
しかし、それとこれとはどういう関係が有る。
待てよ・・・・
裸の『女』と対比させて、着衣の茜に
そのまま黒光の『女』のポーズを取らせようと言う意図か・・・・
う~ん、巧妙だ」
「それだけじゃないぜ。
この悪戯好きの脚本家は、
茜にまで、途方もない挑戦状を叩きつけている。
時絵が得意としている夕鶴でも、長い独白が随所で登場をしてくるが、
この黒光の最後の場面などは、それをさらに上回る、長い黒光の独白がやってくる。
やれるものなら、やってみろ・・・・
俺にはそんな悪意さえ感じるほど、きわめて長い独白だ。
ほんとうに、この作者は油断がならない」
「そうとも限らないわよ、西口君。
長い独白は、役者冥利に尽きるものなのよ。
スポットライトを独占する、自分一人の晴れ舞台だもの、もう陶酔の世界になるの。
たしかにプレッシャーはあるけれど、
達成した時の感激は、もうはっきり言ってエクスタシィ―の世界だわ。
女優冥利に尽きるわよ、茜ちゃんもきっと」
独白の名女優、時絵が目を輝かせています・・・・
黒光の台本読みは、まさにクライマックスを迎えようとしていました。
碌山の作品はどれも、
内に苦悩をにじませながら力強く美しいものばかりです。
そして特に強く感銘を受けるのは、にじみ出てくるそのあたたかさです。
それは碌山が人を信じ、人を愛し、いとおしんで生きてきたからだと思います。
残念なことに「女」は碌山の絶作となってしまいますが、
そこには、かれが追い求めてきた永遠のテーマ―、『生命への尊厳』が、
百年の歳月を経て今なお生き続けています。
この類まれなる生命観こそが、見る者の胸を打つのだと思います。
・本館の「新田さらだ館」は、こちらです http://saradakann.xsrv.jp/