舞うが如く 第二章
(6)近藤勇の幼年期
「ほう。」
兄の良之助もおもわず、驚嘆します。
男装をした琴の容姿には、何ともいえぬ色香が漂よっています。
とりわけ、ひとつに束ねられたために綺麗にあらわれた額は、
まぶしいほどに白く輝き、聡明感があふれていました。
深山村から江戸までは、
関東平野を一路南に下りつづける25里余りの旅路です。
この道は、下野(しもつけ・栃木県)の足尾から江戸まで銅を運搬するために、
別名を赤銅(あかがね)街道とも呼ばれています。
上州と武州(ぶしゅう・埼玉県)の境界を流れる利根川を越えると、
5街道のひとつ、中山道とも合流します。
同時にこの赤銅街道は、
上州(じょうしゅう)伊勢崎宿から日光までを、
礼弊使街道としても利用されています。
京都から、徳川家康を祀る日光東照宮までを、
毎年朝廷からの礼弊使一行が片道15日間の日程をかけて、
礼拝のための道を歩きます。
深山村から河の流れに沿って
3里ほどの山道を下ると、
長い裾野を引く赤城山の東南斜面に出てきます。
このあたりからは一気に視界が開けて、
その先には傾斜に沿って、渡良瀬川の扇状台地が広がります。
さらにその先には江戸にまで続く、
広大な平坦地・関東平野があらわれます。
「試衛館(しえいかん)の、近藤勇とは、どのようなお方ですか。」
「天然理心流剣術の剣客で、4代目の館主ときく。
沈着冷静で、腹のすわった武芸者と言う評判だ。
言って置くが、妻子もちで有る、
残念ながら。」
先に立って歩く良之助が、高らかに笑います。
少し遅れて歩く琴が、さらりとそれを聞き流して、
さらに言葉を続けます
「試衛館には、使い手たちが多いと伺います
とくに、四天王と呼ばれる方たちは、
東西一との噂ですが。」
「できる者たちが、確かに多い。
土方歳三、沖田総司、井上源三郎、山南敬助、
これらが道場の代表格で、いわゆる四天王であろう。
他に食客として永倉新八、原田左之助、藤堂平助、斎藤一らもおるという。
いずれも一流と言われる使い手たちだ。」
「それらのみなさんも、浪士隊に加わるのですか」
「全国より腕に覚えが有る剣客たちが、
われこそはと集まってくる。
すでに、応募の数が1500人を越えたと聞きおよぶ、
いずれ、選抜試合にて登用を決めるはずである。」
「腕が、鳴りまする。」
「お前を打ち負かすほどの者が居ると良いがのう・・・
父上からも、早く強い剣士を見つけだして、
いい加減で 嫁に出すようにしてくれと切に懇願された。
旨く行くと、よいがのう。」
ふと足を止めて、良之助が振り返ります。
「近藤と言う男は、
なかなかにしたたかであるぞ。
醜女は貞淑ゆえ、貞淑な女性を妻にしたい、というのが持論だそうだ。
妻のつねはあまり器量が良くないそうである。
よかったのう、妻子もちとはいえ、
近藤だけは、蚊帳の外だ。」
「おなごを外見で判断するとは、
蔑視もはなはだしい。
人望のある御方とは思えませぬ!」
「まあまあ、そうむくれるでない。
たしかに蔑視の傾向もあろうが、
なかなかに、思慮分別家でもあるそうだ。
実は、幼少期にこんな逸話がある。」
それは近藤が、15歳頃のはなしです
武州・秩父のことで
父の留守中に家に強盗が押し入りました。
日頃の剣術の腕を試さんと飛びだそうとした兄を
「賊は、入ったばかりのときは気が立っているものです。
むしろ立ち去るときの方が気が緩み、
心が留守になるから、その隙に乗じましょう」
そう言って、勝太少年が止めたといいます。
(勝太とは幼少期の名前であり、
勇は通称で、本名は昌宜(まさよし)です。)
そして賊がめぼしいものをひとまとめにして
逃げ出すときに、勝太少年は兄と共に飛び出しました。
不意を付かれた賊は、まとめた盗品を
投げ捨てて逃げたといいます。
それを深追いしようとした兄に、勝太は
「窮鼠猫を噛むということがあります。
盗られたものは戻ったのだし、放っておきましょう」
と言ったそうです。
このことが世間に渡って評判となり、
剣の師匠の周斎に、養子を望まれるきっかけになりました。
この養父こそが、天然理心流3代目の近藤周助のことで、
のちに近藤勇を剣豪として育てあげる、
育ての親となりました。
・本館の「新田さらだ館」こちらです http://saradakann.xsrv.jp/
(6)近藤勇の幼年期
「ほう。」
兄の良之助もおもわず、驚嘆します。
男装をした琴の容姿には、何ともいえぬ色香が漂よっています。
とりわけ、ひとつに束ねられたために綺麗にあらわれた額は、
まぶしいほどに白く輝き、聡明感があふれていました。
深山村から江戸までは、
関東平野を一路南に下りつづける25里余りの旅路です。
この道は、下野(しもつけ・栃木県)の足尾から江戸まで銅を運搬するために、
別名を赤銅(あかがね)街道とも呼ばれています。
上州と武州(ぶしゅう・埼玉県)の境界を流れる利根川を越えると、
5街道のひとつ、中山道とも合流します。
同時にこの赤銅街道は、
上州(じょうしゅう)伊勢崎宿から日光までを、
礼弊使街道としても利用されています。
京都から、徳川家康を祀る日光東照宮までを、
毎年朝廷からの礼弊使一行が片道15日間の日程をかけて、
礼拝のための道を歩きます。
深山村から河の流れに沿って
3里ほどの山道を下ると、
長い裾野を引く赤城山の東南斜面に出てきます。
このあたりからは一気に視界が開けて、
その先には傾斜に沿って、渡良瀬川の扇状台地が広がります。
さらにその先には江戸にまで続く、
広大な平坦地・関東平野があらわれます。
「試衛館(しえいかん)の、近藤勇とは、どのようなお方ですか。」
「天然理心流剣術の剣客で、4代目の館主ときく。
沈着冷静で、腹のすわった武芸者と言う評判だ。
言って置くが、妻子もちで有る、
残念ながら。」
先に立って歩く良之助が、高らかに笑います。
少し遅れて歩く琴が、さらりとそれを聞き流して、
さらに言葉を続けます
「試衛館には、使い手たちが多いと伺います
とくに、四天王と呼ばれる方たちは、
東西一との噂ですが。」
「できる者たちが、確かに多い。
土方歳三、沖田総司、井上源三郎、山南敬助、
これらが道場の代表格で、いわゆる四天王であろう。
他に食客として永倉新八、原田左之助、藤堂平助、斎藤一らもおるという。
いずれも一流と言われる使い手たちだ。」
「それらのみなさんも、浪士隊に加わるのですか」
「全国より腕に覚えが有る剣客たちが、
われこそはと集まってくる。
すでに、応募の数が1500人を越えたと聞きおよぶ、
いずれ、選抜試合にて登用を決めるはずである。」
「腕が、鳴りまする。」
「お前を打ち負かすほどの者が居ると良いがのう・・・
父上からも、早く強い剣士を見つけだして、
いい加減で 嫁に出すようにしてくれと切に懇願された。
旨く行くと、よいがのう。」
ふと足を止めて、良之助が振り返ります。
「近藤と言う男は、
なかなかにしたたかであるぞ。
醜女は貞淑ゆえ、貞淑な女性を妻にしたい、というのが持論だそうだ。
妻のつねはあまり器量が良くないそうである。
よかったのう、妻子もちとはいえ、
近藤だけは、蚊帳の外だ。」
「おなごを外見で判断するとは、
蔑視もはなはだしい。
人望のある御方とは思えませぬ!」
「まあまあ、そうむくれるでない。
たしかに蔑視の傾向もあろうが、
なかなかに、思慮分別家でもあるそうだ。
実は、幼少期にこんな逸話がある。」
それは近藤が、15歳頃のはなしです
武州・秩父のことで
父の留守中に家に強盗が押し入りました。
日頃の剣術の腕を試さんと飛びだそうとした兄を
「賊は、入ったばかりのときは気が立っているものです。
むしろ立ち去るときの方が気が緩み、
心が留守になるから、その隙に乗じましょう」
そう言って、勝太少年が止めたといいます。
(勝太とは幼少期の名前であり、
勇は通称で、本名は昌宜(まさよし)です。)
そして賊がめぼしいものをひとまとめにして
逃げ出すときに、勝太少年は兄と共に飛び出しました。
不意を付かれた賊は、まとめた盗品を
投げ捨てて逃げたといいます。
それを深追いしようとした兄に、勝太は
「窮鼠猫を噛むということがあります。
盗られたものは戻ったのだし、放っておきましょう」
と言ったそうです。
このことが世間に渡って評判となり、
剣の師匠の周斎に、養子を望まれるきっかけになりました。
この養父こそが、天然理心流3代目の近藤周助のことで、
のちに近藤勇を剣豪として育てあげる、
育ての親となりました。
・本館の「新田さらだ館」こちらです http://saradakann.xsrv.jp/