舞うが如く 第二章
(2)安政の動乱
中沢良之助は、
父について法神流剣法を修行しましたが
天才的な才能にも恵まれて、14、5歳にして父の門弟中、
誰一人として彼の右に出るものはありませんでした。
17歳で法神翁のすすめにより、
武者修行の旅にでました。
江戸に出てからは千葉周作に学び、
早くに免許皆伝となり、神田に道場を開きます。
多くの門弟たちにも恵まれ、
妻との間にも一男一女が生まれます。
このころから尊王攘夷の風潮が高まってきて
江戸の市中にも、そんな志を持つ
脱藩者や浪士が増えてきました。
黒船の来航を始めとして、諸外国からの
開国と通商の要求が相次ぐ中、
鎖国状態の日本が安政年間に
その行く末をめぐって、激しく揺れ動き始めました。
世に言う安政の大獄(あんせいのたいごく)とは、
1858年(安政5年)から1859年(安政6年)にかけて、
江戸幕府が行なった、大規模な弾圧政治を指しています。
江戸幕府の大老・井伊直弼や老中の間部詮勝らは、
天皇の勅許を得ないままに、日米修好通商条約に調印し、
また、徳川家茂を将軍継嗣と決定します。
安政の大獄は、
これらの諸政策に反対する者たちを、激しく弾圧した事件でした。
弾圧されたのは尊皇攘夷論者や、一橋派の大名や公卿たち、志士(活動家)らで、
連座した者は、合計が100人以上にものぼりました。
※一橋派(ひとつばしは)とは、13代将軍徳川家定の継嗣問題について、
一橋徳川家の当主・徳川慶喜(のちの15代将軍)を推した一派のことです。
形式上は第13代将軍・徳川家定が台命(将軍の命令)を発して
全ての処罰を行なったことになっていましたが、
実際には、大老・井伊直弼が全ての命令を発していました。
この圧制がやがて「桜田門外の変」を生みだしてしまいます
万延元年3月3日、
江戸城桜田門外で水戸・薩摩の浪士たちが
大老井伊直弼(いい・なおすけ)を殺害します。
(※事件当日は安政7年ですが、
3月18日に万延と改元されたため、万延元年と表記しました)
井伊直弼は安政の大獄で反対派を弾圧し、
また水戸に下された勅諚(※)(ちょくじょう)の返納を迫るなど、
水戸藩に対する弾圧を強化したのです。
このために、水戸の尊攘派の志士、
高橋多一郎や金子孫二郎、関鉄之介らは脱藩をして、
薩摩の同志と連絡をとりながら、
井伊大老襲撃の暴挙を実行したのです。
※勅諚 ・・・・安政5年(1858)8月8日、朝廷が
「条約締結断行など、幕政に対して天皇が不満に思っている」
という勅諚を水戸藩に下しました※
こうした経過のなか、
文久3年(1863年)に清河八郎が中心となって
京都に上洛する将軍の護衛を目的とする組織、
浪士組の募集をはじめます。
のちに新撰組をつくるあげた近藤勇たちの
試衛館の門弟たちととともに、良之助も
いち早く参加を決めました。
万いちのことを考えた良之助が、
道場は師範代たちにまかせて、郷里の穴原村へと、
妻子を連れて戻ります。
・本館の「新田さらだ館」こちらです http://saradakann.xsrv.jp/
(2)安政の動乱
中沢良之助は、
父について法神流剣法を修行しましたが
天才的な才能にも恵まれて、14、5歳にして父の門弟中、
誰一人として彼の右に出るものはありませんでした。
17歳で法神翁のすすめにより、
武者修行の旅にでました。
江戸に出てからは千葉周作に学び、
早くに免許皆伝となり、神田に道場を開きます。
多くの門弟たちにも恵まれ、
妻との間にも一男一女が生まれます。
このころから尊王攘夷の風潮が高まってきて
江戸の市中にも、そんな志を持つ
脱藩者や浪士が増えてきました。
黒船の来航を始めとして、諸外国からの
開国と通商の要求が相次ぐ中、
鎖国状態の日本が安政年間に
その行く末をめぐって、激しく揺れ動き始めました。
世に言う安政の大獄(あんせいのたいごく)とは、
1858年(安政5年)から1859年(安政6年)にかけて、
江戸幕府が行なった、大規模な弾圧政治を指しています。
江戸幕府の大老・井伊直弼や老中の間部詮勝らは、
天皇の勅許を得ないままに、日米修好通商条約に調印し、
また、徳川家茂を将軍継嗣と決定します。
安政の大獄は、
これらの諸政策に反対する者たちを、激しく弾圧した事件でした。
弾圧されたのは尊皇攘夷論者や、一橋派の大名や公卿たち、志士(活動家)らで、
連座した者は、合計が100人以上にものぼりました。
※一橋派(ひとつばしは)とは、13代将軍徳川家定の継嗣問題について、
一橋徳川家の当主・徳川慶喜(のちの15代将軍)を推した一派のことです。
形式上は第13代将軍・徳川家定が台命(将軍の命令)を発して
全ての処罰を行なったことになっていましたが、
実際には、大老・井伊直弼が全ての命令を発していました。
この圧制がやがて「桜田門外の変」を生みだしてしまいます
万延元年3月3日、
江戸城桜田門外で水戸・薩摩の浪士たちが
大老井伊直弼(いい・なおすけ)を殺害します。
(※事件当日は安政7年ですが、
3月18日に万延と改元されたため、万延元年と表記しました)
井伊直弼は安政の大獄で反対派を弾圧し、
また水戸に下された勅諚(※)(ちょくじょう)の返納を迫るなど、
水戸藩に対する弾圧を強化したのです。
このために、水戸の尊攘派の志士、
高橋多一郎や金子孫二郎、関鉄之介らは脱藩をして、
薩摩の同志と連絡をとりながら、
井伊大老襲撃の暴挙を実行したのです。
※勅諚 ・・・・安政5年(1858)8月8日、朝廷が
「条約締結断行など、幕政に対して天皇が不満に思っている」
という勅諚を水戸藩に下しました※
こうした経過のなか、
文久3年(1863年)に清河八郎が中心となって
京都に上洛する将軍の護衛を目的とする組織、
浪士組の募集をはじめます。
のちに新撰組をつくるあげた近藤勇たちの
試衛館の門弟たちととともに、良之助も
いち早く参加を決めました。
万いちのことを考えた良之助が、
道場は師範代たちにまかせて、郷里の穴原村へと、
妻子を連れて戻ります。
・本館の「新田さらだ館」こちらです http://saradakann.xsrv.jp/