落合順平 作品集

現代小説の部屋。

舞うが如く 第二章 (2)安政の動乱

2012-11-25 10:17:20 | 現代小説
舞うが如く 第二章
(2)安政の動乱




 中沢良之助は、
父について法神流剣法を修行しましたが
天才的な才能にも恵まれて、14、5歳にして父の門弟中、
誰一人として彼の右に出るものはありませんでした。



 17歳で法神翁のすすめにより、
武者修行の旅にでました。
江戸に出てからは千葉周作に学び、
早くに免許皆伝となり、神田に道場を開きます。



 多くの門弟たちにも恵まれ、
妻との間にも一男一女が生まれます。
このころから尊王攘夷の風潮が高まってきて
江戸の市中にも、そんな志を持つ
脱藩者や浪士が増えてきました。




 黒船の来航を始めとして、諸外国からの
開国と通商の要求が相次ぐ中、
鎖国状態の日本が安政年間に
その行く末をめぐって、激しく揺れ動き始めました。



 世に言う安政の大獄(あんせいのたいごく)とは、
1858年(安政5年)から1859年(安政6年)にかけて、
江戸幕府が行なった、大規模な弾圧政治を指しています。




 江戸幕府の大老・井伊直弼や老中の間部詮勝らは、
天皇の勅許を得ないままに、日米修好通商条約に調印し、
また、徳川家茂を将軍継嗣と決定します。



 安政の大獄は、
これらの諸政策に反対する者たちを、激しく弾圧した事件でした。
弾圧されたのは尊皇攘夷論者や、一橋派の大名や公卿たち、志士(活動家)らで、
連座した者は、合計が100人以上にものぼりました。
※一橋派(ひとつばしは)とは、13代将軍徳川家定の継嗣問題について、
一橋徳川家の当主・徳川慶喜(のちの15代将軍)を推した一派のことです。



 形式上は第13代将軍・徳川家定が台命(将軍の命令)を発して
全ての処罰を行なったことになっていましたが、
実際には、大老・井伊直弼が全ての命令を発していました。



 この圧制がやがて「桜田門外の変」を生みだしてしまいます


 万延元年3月3日、
江戸城桜田門外で水戸・薩摩の浪士たちが
大老井伊直弼(いい・なおすけ)を殺害します。
(※事件当日は安政7年ですが、
3月18日に万延と改元されたため、万延元年と表記しました)



 井伊直弼は安政の大獄で反対派を弾圧し、
また水戸に下された勅諚(※)(ちょくじょう)の返納を迫るなど、
水戸藩に対する弾圧を強化したのです。



 このために、水戸の尊攘派の志士、
高橋多一郎や金子孫二郎、関鉄之介らは脱藩をして、
薩摩の同志と連絡をとりながら、
井伊大老襲撃の暴挙を実行したのです。


 ※勅諚 ・・・・安政5年(1858)8月8日、朝廷が
「条約締結断行など、幕政に対して天皇が不満に思っている」
という勅諚を水戸藩に下しました※




 こうした経過のなか、
文久3年(1863年)に清河八郎が中心となって
京都に上洛する将軍の護衛を目的とする組織、
浪士組の募集をはじめます。



 のちに新撰組をつくるあげた近藤勇たちの
試衛館の門弟たちととともに、良之助も
いち早く参加を決めました。



 万いちのことを考えた良之助が、
道場は師範代たちにまかせて、郷里の穴原村へと、
妻子を連れて戻ります。





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舞うが如く 第二章 (1)清河八郎

2012-11-24 12:26:02 | 現代小説
舞うが如く 第二章
(1)清河八郎




 清河八郎は天保元年(一八三〇年)に
出羽庄内・清河村に生まれました
新選組を作った男としてもよく知られています。


 
 幕末に、弱冠25歳にして
江戸・神田三川町で私塾を開きました。
北辰一刀流では免許皆伝を受け、
東条一堂に学んで和漢の教養を深めました。
文武両道に優れており、その才能を慕って集まる人も多かったようです
幕臣の山岡鉄舟も、そのひとりでした。



 この時期、幕府と朝廷をめぐる争いは複雑になる一方でした。
徳川幕府が諸外国との通商条約を結んだことを発端に、
天皇主導によるの攘夷政府が設立されることを望む浪士たちが、
次々に京都に集まりはじめました。
長州藩が金を出して、浪士たちの活動を背後から支えます



 徳川幕府に同情的な論客や、外国と貿易する商人などは、
彼ら浪士たちに殺害されて、その首が河原に晒されました。
浪士たちは自らの行為を「天誅」と呼び、
洛中では、こうした出来事が相次ぎました



 幕府に接近した清河八郎には、
ひとつの腹案がありました。
このころになると江戸でも浪士たちの数が増え続け、
それが、騒動の源にもなっていたのです。
いっそのこと、彼らをひとまとめにして幕府が召し抱え、
将軍の親衛隊として使えばどうだろうという、
まことに大胆な発想をいたしました。




 幕臣の山岡鉄舟を説得し、
幕府の金を使いながら、八郎がこうした浪士たちを集めはじめました。
こうしてあつめた者たちを、「浪士隊」としてまとめます。
京都へ行く将軍・徳川家茂の親衛隊と称して、
先乗部隊として送りこむ計画を着々と進めます。




 この清川の誘いに応じて、
浪士隊にいち早い参加を決めたのが、
当時江戸で道場を開き、多くの門弟を指導していた
中沢良之助貞柾(さだまさ)でした。




 良之助は上州穴原村の出身で
父は法神流の達人・中沢孫右衛門貞清です。
そしてその妹が本編の主人公の、琴です。




 しかしこの後に、
京都では、清河八郎がその本心を明らかにして、
思いもかけない方向に浪士組を操ろうと画策を始めます。
浪士集団は、朝廷主導の攘夷のために集めたものであり、
幕府のためではないと宣言をしてしまいます。



 思いもよらぬ、幕府側から天皇側への清河八郎の寝返りです。
これを不本意とした一部浪士たちが離脱をして、
京都守護職の会津藩を頼ることになりました。



 これがのちに「新撰組」となる
芹沢鴨の旧水戸藩の一派や、試衛館の近藤勇が率いる
土方歳三や山南敬助、沖田総司たちでした。
一時期、「壬生浪士」と呼ばれたのもこの人たちでした。




 第二章では
この浪士隊の結成から話がはじまります。
上洛の道をたどりながら、親交を深めていく琴と沖田総司を中心に、
明治維新へとなだれこむ時代について
書きこみたいと思います。




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舞うが如く 第一章 (15)房吉騒動・その3

2012-11-23 11:11:01 | 現代小説
舞うが如く 第一章
(15)房吉騒動・その3



 師と高弟の安否を気ずかって、
村はずれで待機していた門弟たちが、
血相を変えて飛んでくる高弟の姿を見つけて、
一斉に立ち上がりました。



 門弟たちは、説明を聴くまでもなく、
大事を察して、いち早く伊乃吉道場へと駆けだしました。
すでに稜線には日が落ちかかり
濃紺の空からは、闇が静かに降りてきます



 夕暮れ色の黄色い光の中で、
伊乃吉の道場前の街道では、大勢が獲物を取り囲んでいました。
じりじりとその包囲網をせばめながら、
息の根をしとめようという一団の気配が漂っています。



 先頭の門弟が太刀を抜き放つと、
気合とともに、その包囲陣に突進します。




 「待て!」



 地面に腹ばいになったままの房吉から、
短く、鋭い声が飛びました。
数発の弾丸を受け、さらに受けた刀傷のために、
房吉の全身がおびただしい鮮血で染まっています。



 「もはや、無益な殺生をするでない。
 ここは我ら同胞の地であり、同郷の者たちでもある。
 手傷を負って動くことができないゆえ、すまぬが、戸板を頼む。
 これ以上の争いは、もう無用である。
 争うでない。
 太刀を返してもらえば、それだけで済む事だ。
 これ以上の、無用な死人や怪我人をだす必要はない」



 用意された戸板に横たわり、
太刀を取り戻した房吉が
高弟二人に、静かに言葉をかけました。



 「遺恨を残すではないぞ。
 伊乃吉とて、立場もあれば、面子もあろう
 それはまた師としての、
 山崎孫七郎とてまた同じこと。」




 「これ以上争えば、
 又必要以上の血が流れることとなる。
 わしの命と引き換えに、双方の誤りを互いに認めて、
 後日、伊乃吉とは手打ちをいたせ。
 法神流の行く末と、嫁を頼む。
 伊乃吉も、もはや、
 そのことに、とうてい依存は有るまい。」




 早くも星たちが姿を見せ始めた街道を
房吉を乗せた戸板と門弟の行列が、静かに深山村へと進みます
残された伊乃吉の道場前でも、死人と怪我人の収容が始まりました。




 房吉はこの直後に、
厄年の42歳でその生涯を閉じました。
戸板に揺られつつ静かに目を閉じたまま、
高弟二人に看取られての最後になりました。
単身にて斬りむすぶこと、ほぼ一時間余り、
死者6名、怪我人多数をだした東沢入のこの騒動は、
不敗を誇った剣聖の命を奪って終演となりました。



 明治維新まではあと、10年余り。
風雲急をつげる幕末のただならぬ空気を、
いち早く察知していたのは、
他ならぬ、不世出の天才剣士・房吉自身だったのかもしれません。



第一章(完)





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舞うが如く 第一章 (14)房吉騒動・その2

2012-11-22 11:43:43 | 現代小説
舞うが如く 第一章
(14)房吉騒動・その2



 こと、ここにいたってもはや猶予は無しとみて
房吉も、小刀を抜いて応戦をいたします。
玄関先では手狭なために、庭先に飛び出てその態勢を構えます。



 が、卑怯にも数人の者が
庭先の土蔵の上から、かねてより用意しておいた
大小の石のつぶてを、房吉めがけて投げつけてまいります
これを避けて傍らの生け垣に身を寄せると、その隙間から
えいやっとばかりに竹槍が、気合とともに突き出されてきました。
ひらりと身をかわせば、また次の隙間からも、
次の竹槍が突き出される始末です。




 事の重大性を察知した房吉が、
与吉と寿吉の二人に向かって、「早くこの場を立ち去れ」と命令します。
高弟の二人は、師とともにこの運命を共にすると
言い張りますが、房吉が其れを遮ります。



「我らが三人とも死なば、
伊乃吉らの企み通り、わが法神流が途絶えるのは必然である。
二人とも早く落ちのびよ」と重ねて厳命をくだします。




 斬りかかってきた数人のものを、
左右になぎ払って退路を切り開いた房吉が、早く逃げろと
二人に向かってさらに声を荒らげます。
後ろ髪を引かれる思いでその場を離れた二人は、街道にでると
右と左にそれぞれ別れ、互いの道場にむかって
加勢をもとめてひた走ります。




 「やい、山崎。
試合を望むものが、この有り様はあまりにも卑怯千番。
武芸者ならば、いざ尋常に勝負いたせよ!」




 と声をかける房吉に、当の山崎孫七郎は、
大太刀を構えたままで微動だに動きません。
あからじめ房吉が小刀の名人とも聞き及んでいるだけに、
その包囲網を少し狭めただけで、その先へは、
誰一人として踏み込んでいけないのです



 そのころになると、
屋根のつぶても尽きたと見えて、
今度は手当たり次第に、瓦を剥がして投げつけてきました。
足もとには砕けた瓦が、がれきの様に降り積もります



 房吉は左右に身をよけて、瓦をかわしながらも、
間合いを詰めかねている取り巻きたちに、鋭い剣先を見舞い続けます。
石と瓦の効果もなく、手傷を負う配下の者が増えるの見ながら
もはや最後の手段と、伊乃吉が背後へと目配せをしました。



 突然鳴りだす太鼓の音とともに、
勝手口の格子窓から、狙いを定めた鉄砲が放たれました。
そのうちの一発が房吉の太股を撃ち貫きます。




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舞うが如く 第一章 (13)房吉騒動・その1

2012-11-21 10:37:12 | 現代小説
舞うが如く 第一章
(13)房吉騒動・その1




 高弟の二人、
箱田の与吉と南室の寿吉が
ともに房吉の身を案じます。



「和議に応じたければ、単身にてと記してある。
策略かもしれないが、
力に頼って無理やりにというわけにもいくまい。
案ずることはないだろう、
庄屋の仲裁でもあることだし・・」




 しかし房吉はそれ以上を語りません。
もしもの時は、法神流と妻を頼むというだけで、
門弟たちと静かに盃を傾けます
夜は深々と、さらに更けます。


 
 その翌朝、庄屋の倅が
房吉を訪ねてまいりました。




 房吉は小刀だけを腰に帯びて、
わずかに与吉と寿吉の二人を連れて発とうとします。
庭に並んだ門弟たちが、卑怯なる伊乃吉一派のことゆえ
われらも是非にと勢い立ちます



 「大勢で押し掛けて
斬りあいともなれば、示しがつかなくなるゆえ、
ここは、わしとこの両名だけで話を付けてまいろうと思う。
案ずることなかれ、
庄屋が仲裁に名乗りを上げておるゆえ、
安心して待つがよい。」




 そう言い残すと、園原村へと出発します。



 到着した庄屋宅で小休止することになり、
倅と庄屋が一足先に、仲裁役として伊乃吉の道場を訪ねました。
ところが、話はまったく要領を得ません
とにかく房吉が直々に来なければ刀は返さないと、
高飛車の対応に終始する有様でした。



 戻って事情を説明すると、房吉も腹をくくります。
これから先は我らだけの事と覚悟を決めて、庄屋と倅に礼を述べてから
与吉と寿吉の2人を伴って、伊乃吉の道場へと出むきます。



 道場の玄関先から声をかけると、
中からは数人の門弟とともに、
喧嘩支度を整えた伊乃吉と、
師匠の山崎孫七郎が出てきました。



 刀を返してもらいに来ただけで、
試合ならば、竹刀にて承ると切り出せば、



 「真剣にての勝負以外に望みはない。
覚悟を決めて立ち会うがよい、
もはや問答無用。」といい放ちます。


 伊乃吉、師匠ともに太刀を抜き放ち、
「者どもかかれ」と、大号令を発します。
こころえたとばかり脇から、奥から、
多くの門弟たちが湧き出してきました。





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