2011年3月11日。
この日は記録に残して置くべき日となった。
午前10時、3年目の車検のため予約してあったトヨペットへ車を持って行った。
2時間くらいかかるとのことで、イオンで映画「ツーリスト」を見て時間を潰した。
午後1時ごろ、車検の終わった車で帰宅した。
ここまでは平凡な1日のようだった。
その後、2階でパソコンを開いていると、ゆっくりとした横揺れを感じた。
とっさに地震だと思い階下に下りてテレビをつけた。
テレビでは、午後2時46分東北地方に大きな地震があったことを告げていた。
幸い高岡は震度2だった。
テレビには津波情報が出ていた。
その津波の大きさは東北各地の沿岸に10mや6mという途方もない津波が押し寄せるという予報だった。
でも津波の到達予想時刻では、まだ精々50cm程度の津波のようだった。
私はその時点では、また大げさな予報を出してと思っていた。
しかし地震情報はその後も続き、本当に大きな津波が堤防から溢れ、見る間に陸地へと膨れていった。
私はテレビに釘付けにされた。
テレビ映像は、大きな川の幅いっぱいに逆流していく津波が、次々と瓦礫や材木を引き連れて、自動車や漁船をもどんどん陸地へ押し上げていく様子を丸写しにしていた。
また暫くして、テレビ映像は津波の先端が黒々とした色になり、田んぼに整然と並んでいた白いビニルハウス群をあっと言う間に次から次へと飲み込んでいく情景を映し出した。
更に、テレビ映像は、黒煙を上げながら真っ赤な炎が燃え盛るコンビナートを映し出した。
どうなるか予測の出来ない恐ろしい光景を目の当たりにして背筋が凍りつくようだった。
午前中に映画を見てきた後だったが、テレビ映像の迫力に完全に打ちのめされた。
あれよあれよとテレビを見続けている間に、いつしか夜中の午前0時になっていた。
観測史上最大のM8.8「東北地方太平洋沖地震」はかくも恐ろしいものとなった。
一夜が明け今日(12日)も余震が続いているテレビ映像が続いていた。
夜明けとともに被害状況は拡大していくばかりだ。
私はテレビ映像を見ているだけで何も出来ず、被災者への言葉もない状態でまた次の夜を迎えようとしている。
「ツーリスト」の看板