@茶人千利休(宗易)。 信長に認められ、その後秀吉が弟子になるが、最後は弟子の秀吉から「茶の道」の考え方の違いで切腹を命ぜられた悲劇の茶人である。 「茶道」をとことん追求すること(形に入れ込み・規則諸利休秘伝書)が返って自分を、秀吉の考えと食い違いを作って行き、さまざまな事件、変化で秀吉を激怒させることになった。
秀吉の師匠に対しての姿勢、心境が大きく変化している。足軽時代から天下取りへと上下関係が逆転した時、人の弱さが見える。(人間不信)
人の上に就く人に多くみられるが自分自身で真相を探らない、探ろうともせず、部下に任せ、その情報をそのまま鵜呑みに判断する。。。「敵を知り、自己を知る」、「現場を知り、社員を知る」は上司、経営者にとって情報の基盤(経営判断)である。
- 秀吉の姿勢「学は真似ることから始まる」
- 宗易の茶「たかが茶道、されど茶道」遊び
- 『黄金の茶室を作った理由』
- この黄金の持つ永遠の輝きの素晴らしさを是非とも帝に知っていただき、暗く奥深い宮中に侘しくお住まいになる御心を案じて差し上げたいと思った 黄金の茶室「侍庵」とは3畳ほどの移動、組み立て式茶室。茶室で100kの金を使用 、茶器で50kを使用した
- 『なぜ利休は切腹を命じられたのか』
- 究極は茶道に対する秀吉との考え方の違い
- 秀吉の「つくね壺」の陰謀を弟子の宗二が暴露、その後斬首
- 利休の毛利、徳川、伊達等との密談(閉塞中)
- 大徳寺木造事件(利休の像が上に祀られていた)
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- 本能寺の変 天正10年6月2日
- 明智軍1万3千人、本能寺50−60名のみの小姓と侍女のみ
- 信長と家臣(黒人弥助)遺体、それと遺品が見当たらない
- 本能寺は2年がかりで改築したばかり
- 南蛮寺はキリシタンの寺で200mほど離れているだけ
- 秀吉の石田三成への命令「狩野派の屏風画「洛中洛外図」を丹念に見て参れ」(目的も予備知識も一切与えない命令)。先入観なしで余の心を計り知れ考えよ。石田は屏風画の画匠狩野永徳、茶道教授の織部に同行してもらい観察した。石田の報告は「民百姓の屈託のない喫茶風景でございます」「茶の商人、民衆が茶を買い談笑し、空を見上げ茶を嗜んでおりました。くったくのない喫茶画でございます」(これは宗易に茶の楽しみを知らせるべく観察させた、規則だけ縛るのは本来の茶の楽しみを壊していると言いたかった。
- 「利休」の改名とは、当時「利」という字を雅号として避けた、また「休」は名声欲とか利財欲を超越し、これに拘泥しない境涯を意味する、いわゆる反省を込めた自戒であった。それを宗易は素直に認めたが、花押、茶会、宗易会の名称は「易」をそのままに残した。
- 天正15年正月大坂城内での茶会で「つくも茄子」壺を見て驚嘆。この壺は信長の遺品の一つで本能寺の変後、信長、蘭丸等すべての遺体とこの壺もろともが消えた理由が解明できなかった。その後弟子の宗二が北条方に身を隠していたことで惨殺した。理由は宗二の探究心から「本能寺の変」無くなった壺を探した理由を述べたともいわれ、秀吉の陰謀を隠蔽するための惨殺だと言われる。
- 利休の茶とは「茶室の形」を重要視しており、そのために諸規則を厳守するようにした。それは秀吉が最初の平民宰相だから。(利休秘伝書)
- 政道としての茶の湯=それは民衆に見せるもの
- 悟りの場としての茶の湯=それは「無」「静寂」の空間創造