@明治維新は公家が夢見た王政復活に成らず、返って公家の世界を幻滅させ、縮小させた。 それは薩長土肥の下級武士と一部の下級公家らの不満を「倒幕」と称して我が物に世を変える事に天皇・公家は飾りに祭り上げられた事だ。公家と下級武士との間での「金・格式・位・面子」等に対しての欲と「勢力・武力による脅し・妬み・恨み」等無責任な優柔不断な行動があったからで、孝明天皇、徳川将軍(家茂・慶喜)もそれらの公家衆に右往左往させられ最終的な決断が出来ずあらゆる局面で操られたと思う。結果的に公家の王政復興でもなく、徳川幕府・将軍が望んだ開国安定政治でもなく、「攘夷・鎖国」だと主張していた薩長土肥が自らの過去の主張を曲げ諸外国と親睦、開国、近代化を目指した。歴史から見ると、やはり一部の下級武士の幕府・藩への不満が「独断と貪欲的な行動」で明治維新として作り変え、権力と放漫で贅沢な暮らしを求め、さらにその「貪欲さ」が朝鮮・満州方面への戦争をするきっかけを作り出したのではないだろうか。「金持ちはさらに金を得ようと夢見、権力者はさらにその上の権力を得ようとする」人の「貪欲さ」は時代を超え今でも存続する。
『公家たちの幕末維新』刑部芳則
- 「ペリー来航から華族誕生へ」
- ペリー来航から明治維新までの15年を彩る物語は志士をはじめとする武家を主人公に描かれる。一方、公家たちは屈従を強いられ、歴史のうねりに翻弄された脇役として描かれてきた。だが、実際には公武合体から王政復古まで、彼らが果たした役割は大きい。天皇復権のため、有名無実の公家たちが志士たちを煽り、諸藩を相手に権謀術数を重ねたのである。激動の幕末維新に裏から体制を操った彼らの姿を描く。
- 「公家」
- 摂家(5家)、清華家(9家)、大臣家(3家)、羽林家(64家)、名家(28家)、半家(28家)その他、公家の一族として天皇系、藤原鎌足系、その他があり、さらに近衛家(48家)、九条家(20家)、二条家(4家)、一条家(37家)、鷹司家(8家)、非門流(15家)等があった
- 「朝廷の仕事」
- 禁中並公家諸法度にある天使への教育、技芸
- 政治には関与せず、学問と技芸を行うのが朝廷の役割
- 宮中行事、日記をつける事
- 毎日午前10時に参内、午後3時に退出
- 「朝廷の官職」
- 関白・議奏(5名)・武家伝奏(2名)
- 三公(左大臣・右大臣・内大臣)
- 官職(権大納言・権中納言・左近衛権大将・右近衛権大将・中将・少将・参議・侍従)
- 「朝廷での異変」
- 外国船への対応「攘夷・尊皇攘夷」幕府への抵抗
- ペリー来航(1853年)以降イギリス・ロシア諸国への対応
- 幕府の開港と通称和親条約(幕府の独断)に対し内裏炎上
- 孝明天皇・二条・広橋が攘夷意見、他は止もうなしの意見
- 但し、公家参議23人の回答は18人が開港には反対
- 幕府老中堀田正陸からの賄賂1500両、毎年200両を贈る
- 将軍家継承問題も浮上、井伊直弼の判断で慶喜から紀州家茂に
- 井伊直弼の安政の大獄での廷臣処分が決定
- 左右大臣、権大納言等への永久蟄居、落飾、謹慎など
- 処罰総数は69人で8人が死罪、皇族は青蓮院宮尊融親王らの永久蟄居、その他関白・左右大臣等の落飾、謹慎となる
- 公武合体(和宮降嫁)で尽力したのは下級公家の岩倉具視
- 和宮は10月20日出発、11月15日に江戸到着
- 御所風と武家風との問題、天璋院の上座・下座問題など
- 長州藩久坂玄瑞らが学習院に集合、公家を通じて攘夷策略開始
- 朝廷は即攘夷ではなかったことに京都の長州藩等が抵抗開始
- 慶喜はあくまで天皇の命令による勅許を求めていた
- 慶喜は天皇の命令にはタジタジとなる
- 将軍家(家茂)が229年ぶりに京都に入る
- 朝廷が独断で幕臣大名に1万石につき1人の禁裏守衛を命令
- 朝廷は攘夷をしない藩への官位剥奪など伝達を出す
- 長州藩は下田でイギリス艦隊への砲撃
- 朝廷は長州藩へ退京を促すが薩摩・会津藩と禁門の変へ
- 薩摩大久保利通等が朝廷への接近、幕府の失望につながる
- 慶喜の長州討伐継が小倉城敗退、薩摩長州支援と22人の公家列参で長州藩への解兵、過去の公家の赦免
- 朝廷では4度目の廷臣処分など人事変動、攘夷側が増える
- 徳川家茂の死亡で慶喜が将軍に、その後孝明天皇崩御(天然痘)
- 「王政復古」
- 公家恩赦追加で攘夷派、王政復古への動きが盛んになる
- イギリス人・パークスの京都通過ですら問題化させた公家
- 二条斉敬と徳川慶喜との公家復権問題で衝突
- 朝廷は3藩に京都護衛を命令
- 「討幕の密勅」
- 正親町三条、中御門経之、中山忠能、岩倉ら薩摩藩の大久保、西郷、小松、長州藩の広沢、品川、福田等へ伝達
- 大政奉還へと慶喜は動き、薩長らからの暗殺を避けた
- 岩倉は王政復古の宣言書等諸藩への軍令書を作成した
- 国威を挽回し国家の基礎を立てる
- 摂政と関白、幕府などを廃止
- 総裁・議定・参与の3職を置き、全てを決める
- 公家・武家・堂上・地下の違いをなくす
- 政党で公平な議論を尽くし、世の人たちと喜びを
- 3職には皇族の有栖川宮親王、中山・三条・中御門が議定
- 参与には岩倉が昇格した、その他大原・万理小路・橋本ら
- 「維新政府」
- 太政官3院制には三条、岩倉、徳大寺
- その他の要職には薩長土肥の藩士が占めた
- 岩倉具視と伊藤浩史が華族令を公布(公爵・侯爵・伯爵・子爵・男爵)とし、国家に偉勲ある者は爵をあげた。
- 嵯峨実愛など一部公家は不満をもたらし基準の見直しを図った
- 明治17年の華族録には136家の内61家が無職、30家が殿掌など実に半数近くが公家華族は何もしておらず名誉だけだった
- 「維新新政府は世襲門閥制を否定し、実力能力主義の世界となった。公家は再び長崎以外の港を閉鎖し、平安時代の宮中儀礼を復活させる「朝廷権力回復」が夢だった。結果として思い描いていた理想の王政復古とは違うものになった。