- 本能寺の定説と真実を記載した本
- 1、明智落城説+朝倉仕官説
- 2、信長・義昭両属説
- 3、怨恨説+野望説
- 4、単独犯行説+謀反秘匿説
- 5、油断説+偶発説
- 6、伊賀越危機説
- 7、中国大返し神業説
- 『明智落城説+朝倉仕官説』
- 高柳光寿著「明智光秀」が定説、落城後朝倉に仕官していた
- 真実=13代将軍義輝に足軽衆にて仕えており、義輝が暗殺後に朝倉に仕えたという説と「信長公記」による細川藤孝の中間でその後足利義昭の奉公衆、その後信長に引き立てられた
- 『信長・義昭両属説』
- 「明智軍記」が定説、義昭上洛の前に信長に仕えていた
- 真実=義昭に仕えていたが信長との不忠説が発覚、信長の義昭追放後、信長の家臣となる 光秀は義昭が追放前にお暇願いを出している
- 『怨恨説+野望説』
- 秀吉の「惟任退治記」が定説、光秀が恨んで謀反した
- 6月2日早朝本能寺を取り囲み信長は猛火に包まれ49歳で死去、その後信忠も自害、6月13日には「山崎の合戦」で光秀落命
- 光秀の連歌「時は今あめが下しる五月かな」が「土岐は今天から勅命、決行は5月」と訳。それと信長の中国出陣要請で秀吉の指揮下に入ることへの恨み
- 真実=信長の信賞罰の態度からいずれ光秀にも罰を下されること、信長の盟友関係(土岐一族)である長宗我部討伐を阻止すること。また信長の大改革(長期政権)で譜代から実力者への交代(譜代佐久間、林、安藤、丹羽等を追放)、さらに領土を実力派から織田家直轄に切り替えようとしていた。信長は国内の領地限界を見越し、遠方遠征(国外遠征)を計画し、実力者の領地没収と遠国への移封路線を計画していた、それを阻止するための謀反だった。
- 『単独犯行説+謀反秘匿説』
- 「惟任退治記」が定説、光秀一人の決定で謀反を起こした、秀吉の意図の下ことごとく事実と反し改竄されている、代表例として「太閤記」。「明智軍記」は著者不明で江戸時代に書かれた物=「あれだけいじめられたのだから光秀の謀反はやむおを得ない」
- 真実=家康と重臣、および大和の武将筒井順慶は6月2日に本能寺を訪ねる予定でいた。織田家直轄で長期政権を建てるためには重臣を殺害する必要があり光秀と密談した。信長は光秀に中国遠征で坂本城から出立準備をさせ家康を騙す、本能寺は家康の不信がないよう軽武装させた。信忠は予定では京都にはいない予定だった。6月2日当日、光秀の家臣等はだれもが途中本能寺への変更は信長の命令で家康を討つ出陣だと勘違いした(本城惣右衛門語る)
- 光秀と信長の密会で「家康を討つ」ことが、実際には光秀と家康による謀反となる、光秀の長宗我部氏一族との因縁と土岐一族の存続を優先に考えており、謀反は信長の長宗我部討伐の1日前に本能寺の変となる
- 『油断説+偶発説』
- 当日家康と筒井は本能寺で信長と会うことにしており、光秀は家康と筒井が来る前の早朝を狙って信長を討った後、二条城に篭った信忠を襲撃した。
- 真実=本能寺は家康と筒井を討つ計画で警備を手薄にする必要があり2日に襲撃する予定であったが、その早朝、信長のみがいる時間帯に襲撃した。本能寺で信長の遺体が見つからなかった謎は検視できる近代的なものがなく、焼死体では身元確認ができない。また、信忠が京都にいることは予定外でその後二条城襲撃し、自決させた。信長は家康含め近隣家臣には「光秀は6月4日に中国へ出陣する」とカモフラージョしていたが、秀吉は知る由もなかった。フロイスは「日本史」に光秀兵は3千余りとある
- 真実=「信長による家康討ち」となる予定だったが光秀と家康の謀反となる 信長は家康の広大な領土を織田家に継がせることを目論んでおり、自分の代に家臣の謀反原因となる基を取り除くことだった
- 信長の最後の言葉は「是非に及ばず」・「余は自ら死を招いた」と黒人小姓弥介の証言
- 光秀・家康・藤孝の密談による謀反であったが家康は穴山梅雪を殺害し、その領土(甲斐、信濃、上野、駿河)を確保する
- 『伊賀越危機説』
- 「大日本史料」家康は一揆による襲撃で逃げ切ったが穴山梅雪は襲われて殺された(梅雪は武田勝頼の元重臣だが織田に寝返り)
- 真実=家康は悠々と三河に逃げ帰ることができた、それは伊賀(信長の殺戮に逃れた伊賀者—服部半蔵等190名を家康が庇い)との協力があった。伊賀者が穴山梅雪を殺害し、「家康は岡崎に帰ると翌5日には甲斐・信濃の織田家に対しての敵対行動に出た」家康は梅雪の領土(元武田信玄 甲斐・信濃)を略奪する。
- 『中国大返し神業説』
- 6月3日の夜秀吉は知らせを聞き、翌4日に毛利氏と和睦、7日には姫路城に辿り着いている
- 6月12日勝竜寺にて鉄砲戦、13日午後4時には山崎にて鉄砲の音、14日勝竜寺から逃走、15日醍醐付近で村井清三が討ち取る
- 家康は西へは津島までにしか派兵しておらず、安土城は家康の指令の下で炎上した(6月15日炎上)将来の拠点を潰した。伊賀の武士がその後正式な家臣として褒賞を得ている
- 秀吉は政権を取り信長の織田家長期戦略構想を完全に潰すことによる諸大名との同盟を築いた
- 秀吉は光秀を裏切った細川藤孝に破格の論功行賞を与えた
- 謀反の密談は当初光秀・家康・細川藤孝であった。信長殺害後、秀吉、家康、細川は光秀の単独謀反とし、すべての罪をかぶせた。斎藤利三も首謀者の一人として処刑された。また、秀吉も細川を囲み込み家臣とし、家康は斎藤の娘福を家光の乳母、後に春日局とした。
- 『千利休の切腹』
- 「唐いり」を止める勢力(広い人脈を築き始め毛利、島津、家康等と歓談していた)を持ち始め秀吉の檄に触れた
- 『関白秀次の切腹』
- 「唐いり」への不参加表示が檄に触れて切腹させられた、そのことが後の継承で家康が天下をとることになった。
- 信長と秀吉は「唐いり」(領土拡大)は天下統一の先にある戦国武将の論理の帰結だった、が家康はそれを改め「大名の取りつぶし」で領土を没収し、功労大名に与える仕組みを作り変えた。大名の取りつぶしは160家が改易された。明治時代から大正にかけて大陸進出(中国大陸への戦闘)で同じ過ちを犯していた。
- 戦国武将が子の代の生存と繁栄に責任を果たそうとした思いだった。次世代の為に何をなすべきか、何を残さざるべきかを考えた。