@世渡り術が下手で左遷も多く、外国視察も拒否された続けた幕臣水野忠徳。功績は、外貨為替の見直し、小笠原諸島の日本領土化、諸外国からの江戸攻撃回避、横浜・横須賀開港・造船所設立など多くある。 さてこの水野忠徳、老中の政策に見直し意見し何度か左遷されたが、新たな老中から次々と大役を受ける事になる。ここの「世渡り下手」とは不正を断じて許さない、曲がったことはしない正直者だ。「モノとカネ」で如何様にでもする貪欲な、しかも悪賢い者とは全く違う性格の人物だ。(江戸時代は、出世のためにのカネ「賄賂」は当たり前だったと言う)で、この水野忠徳は、世渡り下手でも並外れた豊富な情報・知識力と経験・行動力が重用されていたと推測できる。現代でも求められる人材とは、「情報力と実行力」にある。情報は誰でもある程度収集可能だが実践、行動に移すことのできる人材は極端に少ない。やはりできる、そして求められる人材は「情報を生かす方法を知り、行動・実行に変えられる」ことだと確信する。 優秀な営業は「フットワークのいい人材」と言われる。「足で稼ぐ」と言われるくらい様々なお客様の情報から次の営業に繋げることを知る。だから営業成績も良くなると言われたものである。「机上戦略」(理論武装)は誰でも言える、だがこの時代、時の変化と実践に伴った実現可能な戦略を作る人材が欲しいのだ。
『幕末の円高仕掛け人』野田秀行
- 「水野忠徳」1868年53歳没
- 水野忠長の養子、22歳で江戸幕府に初出仕(城内警備)
- 徳川家史調査、幕府の監察役(政策に不同意連続で左遷)
- 火附盗賊役、浦賀奉行、長崎奉行(オランダに軍艦発注)
- 勘定奉行(江戸大震災、江戸城炎上・復興に尽力)
- 田安家家老に左遷
- 外国奉行(オランダ、ロシア、イギリス、フランスと交渉)
- 修好通商条約と横浜開港、通貨対策
- 西の丸留守居に左遷(屏風の水野と呼ばれる)
- 小笠原調査団の団長
- 箱館奉行、隠居(生むぎ事件担当)
- 上京クーデター未遂、完全隠居
- 世渡り術が下手で左遷も多く、外国視察を拒否される
- 「水野忠徳の功績」
- 幕府外国奉行として通貨、小判の流出を防ぐことに貢献
- 小笠原諸島の領土化推進、狩猟制限など島の独立に貢献
- 生麦事件保証金(40万両)支払で江戸を戦争から回避させた
- 長州藩の諸外国攻撃(馬関事件)ではなんと200万両の保証を幕府は持つことになる(10年間の分割支払いとなる)
- 「水野忠徳の実現し得なかった事」
- 通貨・貿易問題で諸外国の言いなりで物価高騰と江戸混招く
- 京都での幕兵を持って強硬な攘夷派・長州討伐中止で、その後の長州・薩摩・攘夷派公達との戦争に巻き込む
- 佐賀藩の鍋島閑叟への説得不足
- 「鳥羽伏見後の江戸幕府の選択」
- 1、西に向かう即戦派
- 2、関八州を防衛とする防衛派
- 3、天皇に逆らうのは得策ではないという恭順派
- 最初の幕府の決定は小栗忠順の即線派だったが、「天皇に逆らうつもりはない。天皇からの慶喜追討令が発せられた以上、上野寛永寺で謹慎する」で慶喜の恭順派を選ぶことに変更。
- 「幕府の勤務」
- 欠勤が連続して90日だと自動的に退職となるが、その逆手をとって90日の前に1日出勤し、後は自宅で内職・勉学をしていた。それは「上役の評価なんて昇進に全く反映していない、要は金次第です」24歳で幕府幹部の登竜門、5年ごとに実施された昌平坂学問所に合格
- 「長崎に海軍学校設立」
- オランダ教師を20名程派遣(5千両を用意)
- 2隻の軍艦を発注、オランダは軍艦を贈呈「観光丸」
- 水野が幕閣と決定した次の軍艦名は「咸臨丸」
- 学生長の勝海舟は遊郭に入り浸りで勉強などしていなかった
- 優秀な生徒は佐賀藩の志士(藩主鍋島閑叟の教育・気風)
- 「幕府の財政」
- 歳入は年貢収入が4割、出目(貨幣の改鋳益)3割、借金3割
- 当時大奥の出費が全体の5%の贅沢ぶりが続いていた
- 歳入で身をつけたのが世界標準関税(20%)
- 銀貨交換レートの変更
- 初代米国領事のハリスは為替で莫大な個人収益を得た
- ドル銀貨27gの純銀VS 一分銀は9g (3倍の値)
- 日本でドル銀貨4個を一分銀12個と交換していた
- 日本の小判を3個で上海ではドル銀貨12個になった
- 1対1から1対3の交換レートにする交渉となる
- 江戸の商人は1部銀区間で4分が6分と5割の儲けが出た
- 江戸の物価は暴騰し生活苦になる(江戸混乱=攘夷を煽る)
- 関税も当初20%が5%に引き下げられた貿易を強いられる
- 「日米通商条約」
- 老中堀田の命で工作資金3万両ともって川路聖謨らが上京
- 公卿を買収できず無駄金となり、天皇からの勅許も失敗
- 外国奉行に一任された交渉は水野、永井、岩瀬の3名
- その後オランダ、ロシア、イギリスとも条約を結ぶ
- イギリスとの締結でもらった水野のプレゼントは万年筆
- 贈呈された軍艦は蒸気の「蟠竜丸」
- 横浜村を3ヶ月、9万両で開港させた(奉行所、税関、波止場)
- 100店以上の焦点を横浜に集結させた(日本橋三井も含む)
- 「小笠原視察」1861年
- 老中安藤から他国の領土化を許さないための視察命令が出る
- 目的は捕鯨から出る鯨油で財政に貢献させる事
- 食糧難であった八丈島の食料問題の解消
- 八丈島の住民を移住させ、開拓民として食料の栽培の確保
- 「幕府と抗議して隠居」
- 老中久世は孝明天皇に「10年以内に必ず攘夷実行」約束
- 政事総裁職の松平春嶽に進言「開国貿易と富国強兵」
- 春嶽は紀州派への弾圧と老中・幕臣等の減石、蟄居で諸藩が幕府から離れていった(反幕府勢力となっていく)
- 「完全蟄居・隠居時の訪問者」
- 長崎海軍伝習所を一緒に設立した永井尚志
- 水野の上京クーデター経緯と幕臣の拍手喝采
- 小笠原視察に同行した外国方役人田辺太一
- ヨーロッパ視察後の攘夷派は世界に遅れを悟った事
- 川路聖謨
- 老中堀田の開国への強い意志、川路は開国に懐疑的
- ジョン万次郎
- 日本に対する賠償金の高さは法外
- 八丈島の地役人菊地作次郎
- 朝陽丸で八丈島へ凱旋、礼金でもらった褒美にお礼
- 福地源一郎、横須賀造船所設立での通訳者
- 薩長からの密国者があったことの事実を確認
- 外国奉行の後輩阿部正外
- 連合艦隊からの圧力から兵庫開港で苦労した経緯