@「明智光秀につながる信長への謀反理由」姉川の合戦(信長・家康vs浅井・朝倉)に決定的な理由が隠されていた。それは「将来への不安と不信(安心と信頼)」。家臣との「信頼」無くして家臣の不安は払拭できない、また武将の頭にはなり得ないというのがこの書で得た謀反の理由だ。(下記本文参照) 現代でもこの「信頼」無くしてリーダーシップは取れない。「信頼」を得るには、相手の立場に立った姿勢・物事の考え方を読み取る事だろうか。それに皆が「安心・安全・安定」を臨んでいるのは言うまでもない。
『浅井長政のすべて』小和田哲雄
浅井長政とその時代
祖父亮政、父久政、長政 浅井3代、元服時は六角からの賢政、妻も六角重臣から
北近江(伊香郡、東浅井郡、坂田郡)守護は京極氏
南近江の守護大名は六角定頼・義賢(長政元服から双方で争いが始まる)
16歳で六角との決別離婚し、名前を長政とする、初陣は六角義賢との野良田合戦
17歳佐和山城を奪回
22歳蒲生野合戦
23歳織田信長が斉藤龍興を滅ぼし稲葉山城を得る(信長に接近)
24歳お市の方を妻に迎える、足利義昭小谷城に入る、信長と義昭が上洛、六角氏討伐
25歳長女茶々誕生、足利義明より一色式部小輔を受け鷹を返礼する
26歳次女お初誕生、信長が越前朝倉義景を攻撃で信長に謀反、姉川の合戦で敗退
27歳筆頭家老磯野員昌が寝返り、佐和山城が落ち、その後鎌刃城、横山城が没
28歳信長小谷城城下を攻め山本山城を攻撃
29歳3女小督誕生、足利義昭、信長に降伏、山本山城阿閉淡路守貞征寝返り
朝倉義景一条谷にて自害41歳、朝倉氏滅亡、27日長政の父久正自害49歳
9月1日長政、小谷城本丸で自害29歳 浅井氏滅亡
信長に反旗を翻した理由
信長の長政に相談なく朝倉攻めを決行した事(当初は越前若狭武藤友益討伐)
六角攻めで信長から長政に対し恩賞がなかった事(信長の江北一円の分国の前触れ)
長政・朝倉に手を貸した比叡山延暦寺も信長によって攻められ壊滅された事
浅井長政の織田信長に対する戦略(姉川の合戦~小谷城攻め・3年と4ヶ月)
姉川:浅井軍・総勢8千人、姉川には5千人、小谷城に3千人
姉川:信長・家康勢・信長3万人、家康5千人
甲斐の武田信玄との同盟を推進
大阪石山本願寺や近江・加賀・越前一向一揆衆との連携
浅井側敗因の理由
武田信玄の陣中での死去と足利義昭の流落
家臣たちの寝返り(山本山城、月ケ瀬城など城主)
朝倉・信長との戦いで敗走、朝倉義景が自害する
長政は小谷城落城とともに自害、その後忠臣百人余りも追腹
信長の天下統一への一戦で浅井側の資料が少なく、秀吉・家康の優勢資料ばかり
小谷築城とその支城
山頂部(495m)の大嶽と住居空間の山麓部(390m)
安土城に先行していた石垣城廓の構造と清水谷(山屋敷)、福寿丸・山崎丸(曲輪)
お市との婚姻・生涯
お市は信長の従兄弟、織田信秀の5女
織田・浅井との同盟関係を築く目的
信長と足利義昭・幕府再興のため京への上洛(京への近江路の安全)
小豆の袋を信長に送ったのは逸話(長政の謀反を知らせる目的)
柴田勝家の妻となり、秀吉との合戦で夫婦ともに自害
お市の三人娘たち
長女茶々は秀吉の側室となり二人目秀頼を出産「淀姫」正室となる
次女お初は京極高次に嫁ぎ、京極家江戸屋敷で64歳まで生きた(浅井長政の血筋を引く浅井家が讃岐・丸亀藩主として残った)
3女小督(お江)は尾張大野城城主佐治与九郎一成と婚姻、その後離婚、秀吉の甥羽柴秀勝と再婚、秀勝が朝鮮出兵で戦死、その後徳川秀忠(17歳)と3度目の結婚(23歳)、二人の姫と後の3代将軍家光を出産
史跡
養源院 京都東山 長政とお市の方・長政の法名「養源院天英宗清」
多賀神社 滋賀県犬上郡 長政の寄進した梵鐘
佐和山城跡 彦根市佐和山町 石田三成の居城 浅井方城主磯野丹羽守員昌
鎌刃城跡 米原市番馬 枡形虎口や防御石垣
徳勝寺 長浜市平方 浅井家の菩提寺(井伊直興により移転)
小谷城跡 滋賀県東浅井郡 浅井家2代の居城 標高495m
山本山城跡 滋賀県東浅井郡 朝日山(阿閉氏城主)