@江戸時代から明治初期までの旗本は借金まみれで幕府の政策で返済免除(知行地名主などが負う)などの生活ぶりだった。だが、そんな中でも昔からの儀式・風習はやめず、物見遊山など寺神社へ頻繁に詣したり、船遊び(一人@2両:10万円)なども出来ていたという。だが、幕末では長州征伐、戊辰戦争などで家族も、地位も、家も尽く消え去った、とある。今の政府と財務省vs国民に映る。優雅に使いたい放題の予備予算で足らなければ国債と新税を課すvs頻繁に新税、増税で苦しむ国民だ。
『幕末明治旗本困窮記』西川武臣
「概要」幕末動乱の時代に、武蔵国橘樹郡下菅田村に知行地をもつ幕臣の酒依氏は、御書院番士として、飯田橋に移居し、江戸城の警備にあたっていた。天保の頃までは、世情が騒然とするも、年中行事も執り行われていた。しかし、ペリー艦隊の来航・上陸や長州藩との戦闘が始まると次第に追い詰められ、知行地の鈴木家に身を寄せるようになり、そして帰農することとなった。家のものは、遊郭で働きもしたり、困窮を極めた。本書は、幕末幕臣の史料が少ない中で、偶然にも鈴木家に残された史料をもとに、当時の幕臣の暮らしを興味深く描いたものである。
ー江戸幕府での旗本の総人数は約5千人、将軍から知行地を与えられたものは2200人、3千石以上のものは240人、1千石以上は570名、1200石(ここにある酒依氏)は幕臣の中でも上級の家であった。酒依氏は御書院番士として14代まで続いた江戸城の警備(1番から10番10組)
ー異国船寄港時期から編成が変わり「異国船打払令」で東京湾警備、11代徳川家斉から12代家慶、水野忠邦「天保の改革」以降暮らしが厳しくなる。
ー酒依氏の場合、幕府から1200石の知行地を拝領、5人の侍、槍・鉄砲持ち・草履とり・小荷駄身分の家臣20人を持つ事を求められた。そのた「奥」女中など、実際は3人の侍、その他10人、女中5人(10代の娘)程度しか持てない状況で、多くの借金も負っていた。「上知令」(農民の取り締まり強化)名主からの用立金(300両)などの返済が打ち切られる事態となる。農民との対立が始まる。
ー酒依氏の婚礼でも知行地から婚礼費(20両)などを回収し儀式も家風に乗っ取り盛大で、出産などの儀式も、物見遊山も多かった(川崎大社、神田明神、金刀比羅神社、飛鳥山など)家族詣をしたとある。神田川、隅田川での船遊びでは一人2両(10万円)とある。酒は一斗樽(1両3分2朱)
ーペリー艦隊来航以降(300人が久里浜に上陸)、その後オランダ、ロシア、イギリス、フランスとの通商条約、横浜、函館、長崎開港など、日本からの輸出(1768万ドル)は糸、茶、雑穀、海産物、水油(テント灯などに利用する)、輸入(1239万ドル)は綿糸、薬品、船舶、武器、鳩羽には約120人の外国人が住むようになる
ー酒依氏は日米通商条約提携での警備、妻子等は疎開、知行地では輸出用に大豆、水油で商売、やがて家族の男たちは講武所で調練に頻繁に出され、知行地の農民も農兵として参画(江戸城下で1万人)
ー長州藩征伐で出兵、慶喜が将軍に就任すると御書院番が解散、奥詰銃隊となり、寛永寺、天璋院などの警備となる。この時から江戸、日本中が貧困者に溢れ(約10万人)での騒動、打ち壊しなど乱発した。
ー長州藩は薩摩藩(グラバー商人)からミニエー銃4300丁、ゲベール銃3000丁を調達、戊辰戦争へ突入した。酒依氏家、鈴木家は維新後茶、牧場などしたが廃業となる。